「少年の日の思い出」と「幼女の日の思い出」 | すべてはうまくいっている! 光と心の調和

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と思える人生のために。

息子との会話の流れで、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」という短編小説の話になった。教科書で読まれた方も多いと思う。

中学1年のときの国語の教科書に掲載されていたそうで、ひじょうに印象に残っているという。そういえば、私もヘッセに嵌ったことがあったが、そのきっかけはやはり中学の教科書で読んだこの作品からだった。

で、ちょっとwikipediaで見たら、「現在まで60年間以上も検定(国定)教科書に掲載され続けている。このヘッセの作品は、日本で最も多くの人々に読まれた外国の文学作品と言える。」そうである。いやあ、おそるべしヘッセ。

蝶の収集のとりこになっている主人公の少年「ぼく」と、隣に住む(主人公の少年にいわせると)「非の打ちどころのない悪徳を備えた模範少年」エーミールとの、まったく共感のない二人の交流の過程で、「ぼく」が引き起こしたある「取り返しのつかない行為」によって、「ぼく」の自尊心が完膚なきまでに叩き潰されるという物語。

ストーリーの概略は以下のようなもの。


主人公は友人宅で、友人の子どもの蝶の標本を見せてもらい、自分の少年時代の蝶の収集にまつわる回想を語る。

蝶の収集に情熱を注ぐ「ぼく」は、隣に住む教師の息子で同じ趣味をもつエーミールの存在を知る。同年代の彼は本格的な標本設備を持ち、展翅のための難しい技術も身につけていた。「ぼく」はエーミールをねたみ、賛嘆しながら憎んでいた。

あるとき「ぼく」は珍しい蝶を手に入れ、得意のあまりエーミールに見せるのだが、展翅の仕方に難癖をつけられ、標本の欠陥を指摘され、まるで専門家のようなこっぴどい批判を受ける。

それから数年後、ますます蝶の収集にのめり込む「ぼく」は、酷評を受けて以来交流を断っていたエーミールが、ひじょうに珍しいヤママユガを捕らえたことを知る。どうにも見たい気持ちを抑えられずに「ぼく」は、彼が留守の部屋で、彼の展翅したヤママユガに魅入る。その美しさの虜となり、思わずその蝶を盗んでしまうのだった。

エーミールの家を出る途中でハッと良心に目覚め、もどって返そうとするが、ポケットに入れたヤママユガはすでにバラバラになっていた。愕然としながらも、破壊されたヤママユガをもとの場所に戻し、家に逃げ帰る。

母は「ぼく」の沈んだ様子に気づき、「ぼく」は全てを話す。母はきっぱりと、エーミールにすべてを話して謝り、自分の持っているなかから何でもほしいものを彼にあげて、彼に許してもらうように促す。

「ぼく」は他の友だちであったらすぐにそうする気になるが、エーミールには何を話しても理解してもらえないと感じる。仕方なく意を決して「ぼく」はエーミールに自分のした行為を話し謝罪する。

するとエーミールは激したり怒鳴ったりせずに、低く舌打ちをして次のように言う。

「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」← 名訳ですな。

「ぼく」は彼に自分のおもちゃをみんなやるといい、蝶の収集を全部やるとまで申し出るが、エーミールは冷静かつ侮蔑的にそれをことわる。そんな彼に一瞬、のどぶえに飛びかかりたい衝動にかられる。「ぼく」は「絶対的悪」として認定され、一度起きたことは償うことができないと悟るのだった。

「ぼく」は家に帰り、自分の蝶の標本を一つ一つ取り出して、指でこなごなに握りつぶす。



ふつうの少年少女小説だったら、罵ったり泣いたりなんかしながらも許し理解し合い、最後はふたりに友情が芽生え、頬を赤らめてにっこり微笑み合ったりなんかしてメデタシメデタシなんだろうけれど、ヘッセは違う。いろいろな読み方ができる。

エーミールは単なる「ぼく」との対比人物ではなく、その言葉や態度は、むしろ大人社会を体現した存在として設定され、「ぼく」と対立している。この物語は、少年から大人への、ある種の通過儀礼を描いているようにも感じられる、とても深い作品だ。



「少年の日の思い出」ではないけれど、子どもの時分に大きく傷ついた自尊心というのは、かなり強烈な印象を残して記憶へ刻まれる。

私も幼少時に、たったひと言の言葉によって自尊心を打ち砕かれたことがある。その傷はその後の人生に長く尾を引いた。

幼稚園のとき、一週間に何日かお弁当を持っていくことになっていた。そのころの母は、幼稚園児のお弁当作りに情熱を注いでおり、今で言うキャラ弁に近いようなお弁当を毎回作ってくれていた。

アルミでできた薄いピンクのお弁当箱で、そのふたを開けると近くにいる友だちが発する「わあ、すごい!」とか「ロキちゃんのお母さん、お弁当がじょうずだね!」とかの賛辞に、得意満面であった。

席替えをしたあるとき、お弁当の時間になって例のごとくそっとふたをとると、いつにも増して凝った絵柄のお弁当である。たしか、子どもと動物の絵をご飯とおかずで描いていたと思う。ふたを片手に持ったまま立ち上がり、周りの子に見えるようにすこし席から下がったことを憶えている。

友だちがいつものように「わあ、今日は○○だ!」とか言っているところへ、席替えをして隣になった男の子が覗き込んだ。そして言ったのである。

見せびらかして、自慢してるんだ。

冷水を浴びせられたような、とはこのことですな。
せせら笑われているような、バカにされているような、軽蔑されたような、これまで出あったことのない何ともいえない口調。見透かされてしまったという衝撃。

エーミールの「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」の殺傷力に匹敵する、五歳児のセリフである。

思わぬ言葉に衝撃を受け、そのあと羞恥心がぐわっと沸き上ってきた。とたんに、恥ずかしさと恥ずかしさと恥ずかしさがマックスになり、いそいで蓋を閉めた。そして席に着いたまま、しばらくの間じっと身動きできなかった情景を今でも憶えている。

これまでの、自分が得意げにお弁当を見せている場面が頭の中でぐるぐる回っていた。自分を第三の目で客観視した最初でもあった。次の日から、お弁当のふたをとったらすぐにかき回すようにして食べた。母には内緒で。

この出来事は、これまでの人生のなかでもベスト10に入る、かなり深手の古傷となっている。幼稚園さくら組5歳の出来事。

そのとき以来私は、人に自慢げに受け取られそうな言動がいっさいできなくなってしまった。もちろん今は違うが、それでもこのトラウマの後遺症はまだ残っているかもしれない。

そうした傷をいっぱいつけながら、だんだんと人はかさぶたを増やしていくわけですにゃ。。

 

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