土と太陽 -5ページ目

ブルマーがすきだ

ブルマーがハーフパンツになって、さらにスカートがスラックスになるなんて!と思いきや、意外にスカート支持が多いことにほっとした。というのも、(記事やコメントの感情的・近視眼的低能さには目をつぶり)社会における男と女=ジェンダーあるいはセックスについての伝統文化と合理主義とのせめぎ合いに負けず、女は女であり続けてほしいと願っているからだ。

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参照:
札幌女子中生・ズボン制服へ 他の雪国女子中生の意見
 雪国だろうが南国だろうが女子中学生女子高生と言えばスカートが基本だが、札幌ではスラックス姿の女子中学生が登場しそうだ。.........≪続きを読む≫

人間がどこまでも人間になろうとするならば、動物的な宿命から逃れなければならない。少子化が叫ばれているが、伝統的な女性性の拘束が解け、誰もが自分の人生を自由に求めることのできる中で、「子どもを産む」というのも、自分の人生を生きるための「一つの選択肢」でしかなくなるのは当然である。女性も男性も、自分自身を求め続けること、あるいは仕事で社会を作り上げるということが可能となり(金銭的にそうせざるをえないということもあるが)、より「人間的に」生きることができるようになった。
しかし、どこまでも人間になることは望ましいのだろうか。
伝統的・文化的拘束というジェンダーは、人間の動物的宿命を維持する装置でもある。女性は働かずに専業主婦になることが望まれていたのは、子孫を残す必要があるからであろう。といっても、伝統や文化やジェンダーの復権を!と叫ぶことは馬鹿げているのでもちろん言わない。現代の結婚で大切なのは、「いかに自分自身であり続けることができるか、男女が」ということは知っているから。
そして、そういった伝統が崩れ、今、人間はより自由になりつつある、つまり、動物的な習性から解き放たれ、人間的欲求によって行動を選択することがかなりできるようになってきた。合理性を追求するならば、スカートよりもスラックスのほうがいいし、さらに言えば制服よりも私服のほうがいい。しかしそこで、どんな理由であれ、スカートを選択するという非合理性に身を委ねることに、何かしら価値があるように思えてならない。

僕は少し前から、多くの二元論は一元化しつつあるかもしれないが、男と女というセックスが一元化した場合、何者になることができるのかということを考えてきた。今、ジェンダーがなくなり、社会的には男と女の差は(隅々を見ればあるが)あまりない。男と女というジェンダーが一元化すると何になるかというと、「その人自身」であるだろう。しかし、セックスに関しては決して一元化することができず、いつまでも男は男であり、女は女であるという結論に辿り着いた。そしてこれこそが、人間が性別というものにおいてどんなに合理化しても捨てることのできない動物的な宿命であるように思う。そして、人間は合理化して反動物的な行動を求めることばかりでなく、動物的な宿命の中で生きていってほしいと願う。

日本でサービスを発展させるためにー祈りの視点からー

ーー社会と経済について考えていくブログよりーー
はじめに:これは友人に向けた返答であるため、一般の方は読みにくいかもしれないが、ふと訪れてくれた人にもわかってもらえるように書いているつもりである。しかしどうやっても友人以外は多分に読みにくい文章にしかならないことを謝りたい。

神なんて言うと、どこかの新興宗教と思われてしまうが、ここで述べる神とは、本質的で広義の「神」という概念として捉えてもらいたい。
henhagi氏は、「システム化された非人間的社会構造の中で、本来あるべき人間と人間の関わり合いを作り維持する作業(“取り戻す”とも言えるだろう)が、サービスである」と述べていて、全くその通りであり、格差、ワーキングプア、うつ病、自殺と、人間性が崩壊している今、強く求められている姿勢であると考えられる。

ところで、それを作り上げるためには、何かしら大衆に根付いた文化的な背景、そして「核」がないと難しいが、しかし日本にそれがあるのだろうか。球根が埋まっていない土からチューリップが芽を出すことを期待することはできないように。
「奉仕」というと、以前書いたように、映画「ライフ イズ ビューティフル」の一節、主人公のグイドが叔父から給仕とは何かを教わる場面で、「給仕は従者ではない。奉仕者なのだ。神は人間に奉仕するが、人間の従者ではない」という叔父の言葉を思い出す。
神という概念を掴まない限り、人間は奉仕者にはなれないと最近考える。いや、違う、逆に,奉仕者になれる人は神という概念を掴んでいるのではないか、と思う。もちろん、日本人だから「いや、神なんて知らないし信じてない」と言うだろう。しかし、人間を本当に愛する人は、変わらない悪しき風潮、流されるだけの大衆、未来の見えない社会性などに対して、憤り、この現状をどうにかしようと考えるはずだ。しかし、一人の力はあまりにも小さく、どうすることもできないか、血のにじむ思いで草の根運動をするしかない。それでも求め続ける。それが僕が「働くことについて」で書いた「祈り」であり、神なき日本において神に代わる概念として主張したいものである。

日本に神はいない。しかしサービスは奉仕になりえる。たしかにアメリカでは、資本家はいかに社会に対して、自分の使い切れないほどの財産を還元できるかを悩むと聞くが、その「カネ」と「福祉」の対極軸は日本にはない。スウェーデンのように福祉国家化するまでの歴史的反省もない。
しかし、土壌がある。そして水と空気と太陽があれば、どんなに弱々しくても草が生えてくる。水は金かもしれない。金は生きるために必要だから、そして与えすぎれば根を腐らす。空気は震えて声を伝える媒介、つまりコミュニケーションであろう。太陽は目標であり願いであり希望であり、祈りの対象である。そして、土壌は何か。人間の人間的感情である。現代の非人間的な生活に憤りを感じる人、本当に自分らしく生きたい人、さらには社会的な侮辱を受けた人,自殺を考えている人、相手を殺したいという衝動、不幸のどん底に叩き落とされた人生への憎しみ、その全てが、土壌になる。
友よ、アスファルトで舗装された強固なシステムさえ打ち砕く、小さな雑草になろう。

何もない時代の限界と可能性

芥川賞の書評で村上龍が『カツラ美容室個室』について

まさに「スカスカで何もない」時代状況を映し出す優れたドキュメントとして読むことができるのだが

と述べているが、その類いの言葉が使われすぎたためか、どこか陳腐な印象を受ける。
たしかに、今は何もない時代かもしれない。ただ、何もない荒れ地から神は誕生した。

「求めない」という詩集が僕は嫌いなのだが、先日銀座の本屋で、著者の加島祥造氏が、荘子の思想についても書いていることに気づき、ああ、そういうことか、と納得した。
荘子を僕は大好きだけれども、「求めない」の詩集はやっぱり嫌いだ。なぜなら、大衆はそもそも、「本質的には」何も求めてなどいないのだから。たしかに、加島氏の詩集は、本質的なものを得るために、雑多な誘惑を求めないようにしよう、と言いたいのかもしれないけど、それが「正確に」読者に伝わるはずがない。他人に対して求めすぎないこと。たしかにその通り。他人を変えることなど、どんな優秀な心理学者でも、どんな深い歴史をもつ宗教でも、できはしない。なぜなら、人は「その人が変わるのを待つ」ことしかできないのだから(カウンセリングもそういう仕事だ)。
ただし、そうであっても「周りには何もないんだから、期待するのはやめましょう、待ちましょう。ね、落ち着くでしょ」程度のことしか、おそらく読者には伝わらないだろうし、その姿勢は、自分の人生に対しても何も求めないことがカッコいい生き方であるといった(もうすでにそうなっているが)悲劇に結びつきやすい。そういう人間に、俺は憤慨する。悟りということを、あるいは現世の煩悩を断つとか、あるいは死を考えながら生きるということを、俺は知らないだけかもしれない、しかし、何も求めないところからは何も生まない。悟りも、現世の煩悩を断つことも、死を考えて生きることも、そこに辿り着くまでに、どれほどの苦悩、つまり自分の全身全霊を総動員させて求め続ける作業が行われたことか。だが、どんなに求めても手に入れることができない、どんなにあがいても、この「人生」という怪物にかなわない、そこでもまだ諦めず、人生、そして世界と関わりあおうとし続ける姿勢、それが悟りであって、現世の煩悩を断つことであり、死を見つめて生きることではないのか。

今は「死」ブームである。スピリチュアルやら「千の風になって」やら、死や魂が身近な概念としてそこにある時代である。精神が荒廃した今、「求めない」こと、つまり「無=なにもない=全てがある気がする」という無限性の幻覚を得ることが目的化しているように感じる。ただし、キルケゴールも述べている通り、無限性が獲得されることは、絶望を通してしかあり得ないのである(「死に至る病」岩波文庫/斉藤信治 訳/p43)。そして(キルケゴールとは違う読み方かもしれないけど)、絶望するためには「自分の全存在を賭けて」求め続けなければならないのである。