サービスの構造 ーーこの前の焼き肉の席の続きーー
henhagiさんへ
先日、「世にも奇妙な物語」をDVDでレンタルしたんだけど、その中に「マニュアル警察」ってのがあった。玉置浩二(すげー若いw)が妻を殺し、警察に自首にくるが、マニュアル化しすぎて自首さえできずに話は終わる。
冒頭、窓口で「妻を殺し、自首をしにきました」と告げるが、「それは本署で扱っている事件でしょうか」と言われ、自首をしに来たのだと説明するが取り合ってくれない。結局自分で被害届(?!)を出すとこから始まり、その後、犯人が自首に来ているのに、犯人不明という建前の中で捜査が開始される。途中、「私が殺しました」と言うと、「捜査をしているのにそんなことを言われると困る。なんですぐにもう一度窓口に行って手続きをしてくれなかったのか」と逆に叱咤され、再度警察署に出頭して自首の手続きを取ろうとするが、昼食の時間で窓口は閉まる。
少し古い(10年前くらいかな?)この作品は、単純に過剰なマニュアル化のバカさ加減をブラックユーモアで描いた作品だと思うが、今では実際にこの状況が世間に溢れている。
ところで、henhagiさん、この話を見て俺は、マニュアル化による「サービス=奴隷」は、単に労働者にだけ当てはまる問題ではないように感じた。すなわち、「サービス=奴隷」は利用者に対してもロボット化を要求する。これは先日話した「コーヒーショップの消費者がラインになっている」ということに繋がるが。
ここで、機械と人間の関係を考えてみよう。機械=道具は、利用者がより使いやすいように改良が重ねられる。自動車であれば、縦列駐車システム、前方車両との間隔維持装置、電波による暗闇での障害物認識機能をはじめ、ステアリングの形状、車内環境などなど、至る所にユーザビリティが考慮され、利用者本意の向上がなされている。すなわち、消費者により利用しやすくしてもらおうという「労働者→消費者」という向上心のベクトルを持っていることが、「サービス=奉仕」の構造ではないだろうか。逆に、労働者が働きやすいように(つまりバカでも働けるように)、消費者の行動を制限するという構造「消費者→労働者」というベクトルをもつ働き方においては、労働者のみならず利用者も、「サービス=奴隷」の一部に成り下がるのではないだろうか。そういえば、これは先日henhagiさんが言っていた「究極的にはセルフサービスである」という誰かの言葉をなぞっただけかな。
ところで議論は、「大量生産、大量消費を維持するためにはマニュアル化が必要である、なぜなら質の低い労働者でもそれなりに働いてもらう必要があるから」という状況を受け入れた上で、「では、いかにマニュアル的ではない働き方を創造するか」という視点に移りたい。
(ここで一旦仕事にお戻り下さい 笑)
先日「不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか」(高橋克徳ら/講談社現代新書)という本を買って、産業カウンセラーは企業のどのような部分にアプローチできるかという問いを持って読んでいるところなんだけど、マニュアル的な労働(すなわちロボットのような働き方)が横行する最も大きな問題は、タイトルにもあるように、「協力関係の欠如」であるように思う。もし、「こうしたらもっと顧客(消費者)に満足してもらえるのではないか、売り上げが伸びるのでは?」という考えを職場の仲間で実行し、結果を共有できる環境であれば、もはやロボット的な働き方など入る隙間がないであろう。つまり、目標に向かって全員が関わっていくという主体性を、いかに育むことができるか、それをマニュアル化された職場であっても実施することができれば、労働はサービス=奉仕たりえるのではないだろうか。
ここからは俺の産業カウンセラー論だけれども、産業心理学はホーソン工場の事例から発達してきた。つまり、社員の愚痴を聞くことによってストレスを緩和し、生産性を上げるという構造である。もちろんこれは大切なことだと思うけど、まずそれだけでは対応しきれない。なぜなら、早急な課題は「協力関係の回復」にあるのだから。産業カウンセラーが職場の中に入っていき、コミュニケーションを活性化させる、そして、職場を創造的な活動場所に変えていく。それこそが、企業が求める「生産性の向上」に間接的であってもダイレクトに結びつくのではないだろうか。そんなカウンセラーになりたいな。
先日、「世にも奇妙な物語」をDVDでレンタルしたんだけど、その中に「マニュアル警察」ってのがあった。玉置浩二(すげー若いw)が妻を殺し、警察に自首にくるが、マニュアル化しすぎて自首さえできずに話は終わる。
冒頭、窓口で「妻を殺し、自首をしにきました」と告げるが、「それは本署で扱っている事件でしょうか」と言われ、自首をしに来たのだと説明するが取り合ってくれない。結局自分で被害届(?!)を出すとこから始まり、その後、犯人が自首に来ているのに、犯人不明という建前の中で捜査が開始される。途中、「私が殺しました」と言うと、「捜査をしているのにそんなことを言われると困る。なんですぐにもう一度窓口に行って手続きをしてくれなかったのか」と逆に叱咤され、再度警察署に出頭して自首の手続きを取ろうとするが、昼食の時間で窓口は閉まる。
少し古い(10年前くらいかな?)この作品は、単純に過剰なマニュアル化のバカさ加減をブラックユーモアで描いた作品だと思うが、今では実際にこの状況が世間に溢れている。
ところで、henhagiさん、この話を見て俺は、マニュアル化による「サービス=奴隷」は、単に労働者にだけ当てはまる問題ではないように感じた。すなわち、「サービス=奴隷」は利用者に対してもロボット化を要求する。これは先日話した「コーヒーショップの消費者がラインになっている」ということに繋がるが。
ここで、機械と人間の関係を考えてみよう。機械=道具は、利用者がより使いやすいように改良が重ねられる。自動車であれば、縦列駐車システム、前方車両との間隔維持装置、電波による暗闇での障害物認識機能をはじめ、ステアリングの形状、車内環境などなど、至る所にユーザビリティが考慮され、利用者本意の向上がなされている。すなわち、消費者により利用しやすくしてもらおうという「労働者→消費者」という向上心のベクトルを持っていることが、「サービス=奉仕」の構造ではないだろうか。逆に、労働者が働きやすいように(つまりバカでも働けるように)、消費者の行動を制限するという構造「消費者→労働者」というベクトルをもつ働き方においては、労働者のみならず利用者も、「サービス=奴隷」の一部に成り下がるのではないだろうか。そういえば、これは先日henhagiさんが言っていた「究極的にはセルフサービスである」という誰かの言葉をなぞっただけかな。
ところで議論は、「大量生産、大量消費を維持するためにはマニュアル化が必要である、なぜなら質の低い労働者でもそれなりに働いてもらう必要があるから」という状況を受け入れた上で、「では、いかにマニュアル的ではない働き方を創造するか」という視点に移りたい。
(ここで一旦仕事にお戻り下さい 笑)
先日「不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか」(高橋克徳ら/講談社現代新書)という本を買って、産業カウンセラーは企業のどのような部分にアプローチできるかという問いを持って読んでいるところなんだけど、マニュアル的な労働(すなわちロボットのような働き方)が横行する最も大きな問題は、タイトルにもあるように、「協力関係の欠如」であるように思う。もし、「こうしたらもっと顧客(消費者)に満足してもらえるのではないか、売り上げが伸びるのでは?」という考えを職場の仲間で実行し、結果を共有できる環境であれば、もはやロボット的な働き方など入る隙間がないであろう。つまり、目標に向かって全員が関わっていくという主体性を、いかに育むことができるか、それをマニュアル化された職場であっても実施することができれば、労働はサービス=奉仕たりえるのではないだろうか。
ここからは俺の産業カウンセラー論だけれども、産業心理学はホーソン工場の事例から発達してきた。つまり、社員の愚痴を聞くことによってストレスを緩和し、生産性を上げるという構造である。もちろんこれは大切なことだと思うけど、まずそれだけでは対応しきれない。なぜなら、早急な課題は「協力関係の回復」にあるのだから。産業カウンセラーが職場の中に入っていき、コミュニケーションを活性化させる、そして、職場を創造的な活動場所に変えていく。それこそが、企業が求める「生産性の向上」に間接的であってもダイレクトに結びつくのではないだろうか。そんなカウンセラーになりたいな。
俺が求めていること
走り書き
来週のゼミでは、それぞれが修論のテーマを明確にし、ゼミ生4人で発表し討論するーー
俺は、入学後発表したテーマがあまりにも漠然として土台の危ないものであったかを知り、今までいろいろと悩んできた。今日ゼミで友人に言われたこと、それは、他のゼミ生は明確にこれがやりたいんだってわかるけど、「(俺の名前)さんのは、イメージが掴めない」。そう、はっきり言ってくれてサンキューな。俺もそう思っていたし、そうやってズバリ言ってくれる友人は本当に大切なんだ。
大学から夕方帰ってきて、疲労で眠り、夜起きて考え続けて、はっとした。俺が「アイデンティティ」と「意味・目的意識」を関連させてやりたいと願うのは、根本的に俺が人生に対して求めていることだった。
生きていくにつれて、可能性は次第に限定されてゆく。自分の限界を知ることでもあり、また未来の可能性も時間的/金銭的に限られていく。そういった人生というものに生物学的な「漸進的発達」という視点から光を当て、青年期に得たアイデンティティを中心に、人生周期を考えるのがアイデンティティ理論であるが、佐藤(2001)も指摘する通り、アイデンティティの発達とは「社会の価値体系をを受け入れ」ることである。すなわち、自分の限界を認め、社会に自分を適合させること、社会と自分の同一視といえよう。
ただ、俺はそれでは満足できないし、全面的に受け入れるのは拒みたい。たしかに自分の限界を認め、社会化することは大切だと思うけど、状況(または逆境)を受け入れれば受け入れただけ、可能性が減れば減るほど、人生に対してより積極的に関わることができるのではないか、そんな逆説的ともいえる可能性を、俺は信じ続けたい。というか、俺はそれを見いだせないと許せないんだ。生物的な制約から自由になること、社会的拘束から自由になること、それは生理的な動物としての身体性、感情や思考・認知という心理性、だけでなく、意思という「精神性」を持った人間だからこそなし得ることのできる領域ではないか。それが、フランクルの述べる「態度価値」(すなわち、いかなる状況ーー死を目前にして病床に就くがん患者のようにーーでも意味を求め、人生に主体的に関わることができるということ)に他ならないだろう。
そういった視点を、終末医療現場、老人ホーム、または産業ーーもしどのフィールドも確保できなければもっと小さく現実的な場所に落ち着くかもしれないけどーーにスポットを当て、人生の可能性を見いだしていきたい。
修論では、そのくらい大きな目標を掲げ、大河に小石を投じる。水面に波紋が広がらなくてもいい。大きな海へ小石を運んでくれることを願いながらーー
引用文献ーー
2001,佐藤文子,大学生の人生の意味・目的意識と自我同一性形成について(1)ーー理論的前提とこれまでの研究の検討ーー いわき明星大学人文学部研究紀要 15,Pp.99-115
来週のゼミでは、それぞれが修論のテーマを明確にし、ゼミ生4人で発表し討論するーー
俺は、入学後発表したテーマがあまりにも漠然として土台の危ないものであったかを知り、今までいろいろと悩んできた。今日ゼミで友人に言われたこと、それは、他のゼミ生は明確にこれがやりたいんだってわかるけど、「(俺の名前)さんのは、イメージが掴めない」。そう、はっきり言ってくれてサンキューな。俺もそう思っていたし、そうやってズバリ言ってくれる友人は本当に大切なんだ。
大学から夕方帰ってきて、疲労で眠り、夜起きて考え続けて、はっとした。俺が「アイデンティティ」と「意味・目的意識」を関連させてやりたいと願うのは、根本的に俺が人生に対して求めていることだった。
生きていくにつれて、可能性は次第に限定されてゆく。自分の限界を知ることでもあり、また未来の可能性も時間的/金銭的に限られていく。そういった人生というものに生物学的な「漸進的発達」という視点から光を当て、青年期に得たアイデンティティを中心に、人生周期を考えるのがアイデンティティ理論であるが、佐藤(2001)も指摘する通り、アイデンティティの発達とは「社会の価値体系をを受け入れ」ることである。すなわち、自分の限界を認め、社会に自分を適合させること、社会と自分の同一視といえよう。
ただ、俺はそれでは満足できないし、全面的に受け入れるのは拒みたい。たしかに自分の限界を認め、社会化することは大切だと思うけど、状況(または逆境)を受け入れれば受け入れただけ、可能性が減れば減るほど、人生に対してより積極的に関わることができるのではないか、そんな逆説的ともいえる可能性を、俺は信じ続けたい。というか、俺はそれを見いだせないと許せないんだ。生物的な制約から自由になること、社会的拘束から自由になること、それは生理的な動物としての身体性、感情や思考・認知という心理性、だけでなく、意思という「精神性」を持った人間だからこそなし得ることのできる領域ではないか。それが、フランクルの述べる「態度価値」(すなわち、いかなる状況ーー死を目前にして病床に就くがん患者のようにーーでも意味を求め、人生に主体的に関わることができるということ)に他ならないだろう。
そういった視点を、終末医療現場、老人ホーム、または産業ーーもしどのフィールドも確保できなければもっと小さく現実的な場所に落ち着くかもしれないけどーーにスポットを当て、人生の可能性を見いだしていきたい。
修論では、そのくらい大きな目標を掲げ、大河に小石を投じる。水面に波紋が広がらなくてもいい。大きな海へ小石を運んでくれることを願いながらーー
引用文献ーー
2001,佐藤文子,大学生の人生の意味・目的意識と自我同一性形成について(1)ーー理論的前提とこれまでの研究の検討ーー いわき明星大学人文学部研究紀要 15,Pp.99-115
本当に時をかけていたのは、僕たちでした
「時をかける少女」
細田守監督/声・仲里依紗ほか
たまらない、たまりません!!
理論とか社会とか、そんなの飛びました。
何度でもやり直しができた、戻れない17歳の夏。はっきりした未来に進むのではなく、現在にいつまでも留まっていることができるように思えていたあの頃。当たり前のように太陽が昇り、当たり前のように太陽が沈んでいた。いわば、まだ人生が始まっていなかった頃。主人公の真琴はある日突然身につけたタイムリープによって、その当たり前の時間を自分の意志によって動かし、未来を変えようとし始める。それは単純に自分の時間を楽しむことや、他人の恋の手助けがきっかけではあったが。そして、初恋と向き合うことによって、現実的に自分の未来を歩みだす・・・
彼女の「未来」が、初恋によって始まったのは単に話の展開上のことではもちろんなく、恋愛によって「人生が始まった」、つまり「未来なき今」から「未来への今」に変化したことを意味するように感じる。
googleで「時をかける少女」と検索すると、7月にブルーレイで発売らしいとのこと。
キャッチは「待ってられない未来がある」となっているけど、違う!!ターゲットは青春を忘れた俺たちだ。でもいいコピーが思いつかない・・・
ちなみに、1983年の原田知世主演の「時をかける少女」と比べると、非常にうまく現代版にリメイクされていること、そして見せ所がすごいというか、クライマックスが入れ込んでいる(これ以上言ったらネタばれなので割愛)ため二重丸!
ところで、昔はSFが相当説得力をもっていたんだなぁ・・・ドラえもんの映画でも、初期はSFの世界観がよく使用されていたけど、もうそんな舞台背景、通用しないもんな。リメイクのアニメ版は、そのシナリオは維持したまま、本当に巧妙にラストシーンへと観る者を誘っていたなぁ・・・
細田守監督/声・仲里依紗ほか
たまらない、たまりません!!
理論とか社会とか、そんなの飛びました。
何度でもやり直しができた、戻れない17歳の夏。はっきりした未来に進むのではなく、現在にいつまでも留まっていることができるように思えていたあの頃。当たり前のように太陽が昇り、当たり前のように太陽が沈んでいた。いわば、まだ人生が始まっていなかった頃。主人公の真琴はある日突然身につけたタイムリープによって、その当たり前の時間を自分の意志によって動かし、未来を変えようとし始める。それは単純に自分の時間を楽しむことや、他人の恋の手助けがきっかけではあったが。そして、初恋と向き合うことによって、現実的に自分の未来を歩みだす・・・
彼女の「未来」が、初恋によって始まったのは単に話の展開上のことではもちろんなく、恋愛によって「人生が始まった」、つまり「未来なき今」から「未来への今」に変化したことを意味するように感じる。
googleで「時をかける少女」と検索すると、7月にブルーレイで発売らしいとのこと。
キャッチは「待ってられない未来がある」となっているけど、違う!!ターゲットは青春を忘れた俺たちだ。でもいいコピーが思いつかない・・・
ちなみに、1983年の原田知世主演の「時をかける少女」と比べると、非常にうまく現代版にリメイクされていること、そして見せ所がすごいというか、クライマックスが入れ込んでいる(これ以上言ったらネタばれなので割愛)ため二重丸!
ところで、昔はSFが相当説得力をもっていたんだなぁ・・・ドラえもんの映画でも、初期はSFの世界観がよく使用されていたけど、もうそんな舞台背景、通用しないもんな。リメイクのアニメ版は、そのシナリオは維持したまま、本当に巧妙にラストシーンへと観る者を誘っていたなぁ・・・