難しいことを書くのに疲れたので
哲学的思想を書こうとするほど書けないので、日々のつぶやきを。
先日、大学予備校の恩師と5年ぶりにお会いし、他愛もないことから人生についてまで話をした。生き方についての質問に、時には熱を込めて真っ正面から向き合ってくれる恩師に感謝。
ところで、人とのつながりが本当に大切だな、と強く感じた。人間は、人間関係の中で生かされているんだな、と。金八先生じゃないけど、人という字は支え合ってできている、なんて、当たり前すぎて表面的にしか理解できていないのかもしれない。
恩師も、仕事以外に自分の趣味として、出版社の編集長らとの付き合いがある。その付き合いがあるからこそ、恩師は自らのやりたいことができているように、僕は感じた。
「個人はもっと独立性を保つべきだ」なんて、近代自我のような考え方をしていたけど、これはこれで危険だね。ていうか無理だ。自分のことなんて、そんなに考えなくてもいいのかもしれない。他者とどう生きるか。「人間」のテーマはそこに尽きるのではないか。
先日、大学予備校の恩師と5年ぶりにお会いし、他愛もないことから人生についてまで話をした。生き方についての質問に、時には熱を込めて真っ正面から向き合ってくれる恩師に感謝。
ところで、人とのつながりが本当に大切だな、と強く感じた。人間は、人間関係の中で生かされているんだな、と。金八先生じゃないけど、人という字は支え合ってできている、なんて、当たり前すぎて表面的にしか理解できていないのかもしれない。
恩師も、仕事以外に自分の趣味として、出版社の編集長らとの付き合いがある。その付き合いがあるからこそ、恩師は自らのやりたいことができているように、僕は感じた。
「個人はもっと独立性を保つべきだ」なんて、近代自我のような考え方をしていたけど、これはこれで危険だね。ていうか無理だ。自分のことなんて、そんなに考えなくてもいいのかもしれない。他者とどう生きるか。「人間」のテーマはそこに尽きるのではないか。
神なき現代における救済とは
はっきりとした。
「可能性とアンチテーゼ」は、俺のこれまでの人生のテーマであり、かつ、超えなければならない課題であった。
多くは語るまい。
デザイン一新。
友よ、再び語り合おう。
いくつか話したいテーマがあるけど、
6/30の毎日新聞朝刊【文化面】
「平野啓一郎さん 長編小説『決壊』を刊行 ネット社会で壊れていく心」
現代の人間関係や死生観を語る上で、「ネット」の存在を抜きにはできない。ネットを中心に描くか、ネットをメタファとして用いるかは別にして。
ストーリーは2つの物語から成る。1人は30代のエリートサラリーマンで、30歳の弟を殺された。もう1人はいじめに遭う中学2年生。彼は「悪魔」と名乗る人物にそそのかされ、犯罪に加担する。
平野氏は、「悪魔」は荒野でキリストを誘惑したように、意外に無力で、人間の心に付け入ることを指摘する。「だから誰でもなれるんです」。
「悪魔」?何か似た話を思い出す。近年大流行(今もだね)のデスノート。あれは本当に現代の「悪魔」を巧妙に描ききった作品なのだろう。
平野氏は、いじめから9.11テロに至まで、現代の「暴力」に焦点を当てているように見受けられたが、俺は「人間関係」に焦点を当てていきたい。
そこで、作品を読んでいないため無関係であるが、悪魔の正体は何かを現時点で、簡単に考察したい。
「ひぐらしのなく頃に」
映画化されたけど、これは、インターネット的人間関係の象徴のようなものじゃないだろうか。突然アグレッションが爆発し、一瞬のうちにいつもの穏やかな顔になる。人格に一貫性がない。
ネットコミュニケーション(ケータイメールも含む)で、最も気を擦り減らすのが、この「リアル(または本音)とバーチャル(または建前)との境界線がわからない」こと。わからなくて、親密な関係だと思っていたら、いきなり裏切られ、疑心暗鬼が膨らみ、悪魔が降りてくる。
ケータイの普及とネットの普及と、それに伴うコミュニケーションの量と質を調査していないから、はっきりは言えないけど、ここでなされる人間関係は、確実に適切な距離感を失っている。
記事は、作中の主人公とドフトエフスキー「悪霊」のスタヴローギンとを比較し、本作品の「決壊」では犯罪に対置する「信仰」が描かれていないなど「現代の荒涼が容赦なく描かれる」と指摘している。
平野氏は、結末を決めずに書き、最後まで迷ったという。「希望を残す終わり方にするか、絶望に直面する結末にするか」。
もう既に、俺たちはネット社会の絶望に打ちひしがれている。改めて現実を突きつけられるよりも、未来に向けた人間愛に満ちた洞察がほしい。
俺は過去の「信仰」に並ぶ現代的な神を見てみたい。
「神なき現代における救済はいかにして可能なのか」
平野氏が述べている言葉だが、もはやこのフレーズも少々手あかが付きすぎている気もする。ただ、この問いこそ21世紀的問いであり、答えなければならないだろう。
「可能性とアンチテーゼ」は、俺のこれまでの人生のテーマであり、かつ、超えなければならない課題であった。
多くは語るまい。
デザイン一新。
友よ、再び語り合おう。
いくつか話したいテーマがあるけど、
6/30の毎日新聞朝刊【文化面】
「平野啓一郎さん 長編小説『決壊』を刊行 ネット社会で壊れていく心」
現代の人間関係や死生観を語る上で、「ネット」の存在を抜きにはできない。ネットを中心に描くか、ネットをメタファとして用いるかは別にして。
ストーリーは2つの物語から成る。1人は30代のエリートサラリーマンで、30歳の弟を殺された。もう1人はいじめに遭う中学2年生。彼は「悪魔」と名乗る人物にそそのかされ、犯罪に加担する。
平野氏は、「悪魔」は荒野でキリストを誘惑したように、意外に無力で、人間の心に付け入ることを指摘する。「だから誰でもなれるんです」。
「悪魔」?何か似た話を思い出す。近年大流行(今もだね)のデスノート。あれは本当に現代の「悪魔」を巧妙に描ききった作品なのだろう。
平野氏は、いじめから9.11テロに至まで、現代の「暴力」に焦点を当てているように見受けられたが、俺は「人間関係」に焦点を当てていきたい。
そこで、作品を読んでいないため無関係であるが、悪魔の正体は何かを現時点で、簡単に考察したい。
「ひぐらしのなく頃に」
映画化されたけど、これは、インターネット的人間関係の象徴のようなものじゃないだろうか。突然アグレッションが爆発し、一瞬のうちにいつもの穏やかな顔になる。人格に一貫性がない。
ネットコミュニケーション(ケータイメールも含む)で、最も気を擦り減らすのが、この「リアル(または本音)とバーチャル(または建前)との境界線がわからない」こと。わからなくて、親密な関係だと思っていたら、いきなり裏切られ、疑心暗鬼が膨らみ、悪魔が降りてくる。
ケータイの普及とネットの普及と、それに伴うコミュニケーションの量と質を調査していないから、はっきりは言えないけど、ここでなされる人間関係は、確実に適切な距離感を失っている。
記事は、作中の主人公とドフトエフスキー「悪霊」のスタヴローギンとを比較し、本作品の「決壊」では犯罪に対置する「信仰」が描かれていないなど「現代の荒涼が容赦なく描かれる」と指摘している。
平野氏は、結末を決めずに書き、最後まで迷ったという。「希望を残す終わり方にするか、絶望に直面する結末にするか」。
もう既に、俺たちはネット社会の絶望に打ちひしがれている。改めて現実を突きつけられるよりも、未来に向けた人間愛に満ちた洞察がほしい。
俺は過去の「信仰」に並ぶ現代的な神を見てみたい。
「神なき現代における救済はいかにして可能なのか」
平野氏が述べている言葉だが、もはやこのフレーズも少々手あかが付きすぎている気もする。ただ、この問いこそ21世紀的問いであり、答えなければならないだろう。
ユニセフに頼んで北朝鮮の人にあげる
ブログネタ:どこでもドアを一回だけ使えるとしたらどこへ行く? 参加中ちょっと待って、現実的すぎて申し訳ないんだけど、「俺、ブラジルに行きたい!」って言って、行ったとしても、絶対戻って来れなくないか?!だって1回しか使えないんでしょ?いくらビザがあっても、入国手続きしてなくて帰国できるのかなぁ。ま、片道切符で済む、脱北希望者に送ってあげるのが一番かな。
もし自分で使うなら、「彼女の誕生日の日の夜、電話しながら
俺『ごめんな、今日会えなくて』
彼女『いいよ。だって平日だもんね。東京からここまで遠いし』
俺『なあ、俺に会いたい、って、強く念じて』
彼女『何言ってるの?』
俺『目を閉じて。』
彼女『うん、(目を閉じる彼女)会いたい、会いたい、』
俺『ハッピーバースデー』
部屋の扉を開け、花束を持って入っていき、彼女を抱く」
とかがベストかな。
だめ?キザか。