土と太陽 -4ページ目

「人間性」について

mixiのニュースで、引きこもりの平均年齢が30歳を超えたとあった。俺は引きこもりやニートを擁護する。ただし、将来就職をする形での社会参加を望みながら。
人は、ある時期に自分の内側に閉じこもることが絶対に必要だ。外界からの交流を全て閉ざし、自分が神になるまで精神世界を肥大させ、でも寂しくなり、あるとき、まるでアラブの昔話のように、外から楽しそうな話が聞こえてきて、ふと扉を内側から開けて外界へと足を踏み出す・・・そんなプロセスが。
何か、焦っている気がする。社会も個人も。人材育成、二極化、下流社会とか。もちろんその対策は必要なのだ。でも、0と1の、その間を見落としていないか。
悩み。その悩みこそが、人間である。それは、日常生活という【有限性】に足をつけ、大空と太陽という【無限性】に向かって手を伸ばし、いつかあの空に飛びたいと願う祈りである。しかし飛ぶことはできない。人間は自由ではないから。しかし、奴隷でもない。
俺はそういう人間の一人である。夢をみつつも現実に拘束され、その中でしか生きることができない人間である。そして、そういう人間の波にもまれながらも、まぎれもなく人間であり続け、人の上に立つことも、人の足に踏みつぶされることもせず、誰であっても対等の視線で向き合うことができ、同じ「悩む」人間として、現実と向き合う力を持った、か弱き人間であり続けたい。

戒め

ドフトエフスキーの「悪霊」はまだ読んではいないが、どこかに「神になりたかった人間」として読み解く新書があった気がする。
正直に告白すれば、俺が今まで「人間は」と言っていたその「人間」の中に、自分は含まれていなかったのかもしれない、という恐れがある。客観化し構造化され尽くし現実に根を下ろさず、進められてしまう思想は多分に危険性をはらむ。そして、ネットでの自己主張は、往々にしてその危険性を見えないものにし、自我の肥大化を押し進める……
少し頭を冷やします。明日また更新するかもしれないし、来月末になるかもしれないけど、とりあえずドフトエフスキーの「悪霊」を読み終えたら。ではでは

ていうか太陽の中で寝ている

ブログネタ:豆電球消して寝る?付けて寝る? 参加中

最近は、太陽が昇るのを見届けて眠り、太陽が沈むのを見送るために起きる生活をしている。なんということだ。ただ単に昼と夜が逆転しているのだ。
ところで、なぜこういう生活をしているかというと、4月から始まる大学院までの期間に、自分が会社を辞めて大学院に進学する理由ーーそれは「非人間的な社会システムの中で、いかに人間性を回復させられるか」であるがーーについて、柱になる思想を手に入れなければならないという必要性に迫られ、24時間考え続けていることが原因であります。考えることに昼も夜も関係ないわけなので。
先日は、聖書とフランクルの「夜と霧」を読んで夜を過ごした。また別の日は金原ひとみの「AMEBIC」を読んで。
大学時代もこんな生活をしていた。授業にも行かずに眠り、眠らなければならない時間に起き、とにかく考え続けていたな、と振り返る。そしてある程度考えがまとまり、就職してからは、自分でも驚くほどに、朝定刻に起きて夜2時頃には寝る生活ができた(もちろん無遅刻ではないが)。そして、その生活の間は、何も考えることができなかった。考える必要がなかったのではない、規則性と精神的疲労が、僕から考える力を奪い去ったのだ。
僕は規則性ということを嫌う。たしかに、ストイックなまでに生活のリズムを守ることは大切なことだと思うが、同時に、好きなときに寝て好きなときに起きる生活も奨励したいのだ。考え続ければ眠れなくなる。世界中では当たり前に知られていることであっても、たとえば僕が、「ああ、神とはそういうことだったのか」と”発見”したように、「知る」ということは常に自分にとっては新しくて、興奮するものなのだ。そういうひらめきの中で、さあ寝ようとはいかない。起きてさらに考え続けたり、考えをまとめなければならない。
そういう生活の中では、「昼夜逆転した」なんて嘆くこともなく、「俺が寝ている間は、太陽、お前がこの世界を見守っていてくれよ」なんて馬鹿げた考えを呟きながら、安心して眠ることができるのである。