土と太陽 -6ページ目

友よ、人間であり続けよう

思想を共有する友へ
昨日買った聖書を読みながら夜が明けた。ソドムとゴモラは焼き払われた。
ふと、なぜかフランクルの「夜と霧」が読みたくなって本棚から引っ張ってきた。読みながら笑ってしまった。看視兵の矛盾した理不尽な罵倒を読み、今、君のいる会社、そして俺も勤めていたそこと重ね合わせたのだ。そう、今君の隣にいる人だよ。

比べるまでもなく、ナチの強制収容所よりもずいぶん恵まれている。しかし俺たちは(たちは、と過去形にするが)、奴隷であった。そして周りを見渡せば誰もが、フロムが指摘したことを引用するまでもなく、自ら望んで非人間的なシステムの中に飛び込んでいる。
俺たちは本当に恵まれているのか。たしかに、「食べ物のことしか考えられなかった」彼らほどではない。しかし、本当に人間的な生活ができているか。わずかなパンとスープで過酷な労働を強いられている彼らと同等な精神活動しか許されていないではないか。
「精神を豊かに」なんていう言葉をよく聞くが、短絡的すぎる。神は精神が生んだ存在ではないし、キリストを信じれば救われるわけでもないのと同様に、人間であり続けたい俺たちが求めているのは精神性以上のものなんだと思う。君は現場でサービスを考え、俺は学問で哲学的真実を追求しよう。

女女女、この不可思議な存在

ブログネタ:性別が入れ替わったら何する? 参加中
俺が女になったら、なんて、突然ですが、口コミ番付?ブログネタ?に参加してみました。
若い頃は、女になったらバイブを入れたまま服を来て外出して、24時間絶頂したいとかエロいことばっかりだったけど、もう十分すぎるくらい女性と接していると、性的なものなんてどうでもいいや。

女になったら、女の友だちとショッピングして、カラオケして、お茶して、男をナンパして、付き合って、「なんでわかってくれないの!」とか「本当にあたしのこと好き?」とか甘えてみたい。
というのも、女にしかわからないものがあると思う。最近、女とは何か、ということを、切実に感じていて、といっても女になれるわけでもなく、所詮男の目から見た女なんて、かなりバイアスかかっていて本質的な女というものとは違った概念でしかなく、女がわからない。
金原ひとみの「アッシュベイビー」(集英社文庫)の解説で、精神科医の斉藤環さん(心理学者が金原の解説を書くということも興味深い)が述べている。

これまでの「小説」は畢竟、女性のリアリティを、その非定型性、もっと言えば、その不在性に求めるほかはありませんでした。「女性を描く」とは「いかに女性を描き尽くせないかを描く」ということを意味します。(中略)それらはあくまでも男性のへテロな欲望を前提とした、男性視点の「女性性」にとどまります。(中略)しかし、「金原ひとみは、そうした人達とはまた異なったベクトルを持って、そうした「女性性」と対峙します。

まったくその通りで、俺も会社に入って女の上司と関わる中で、それまで理想化してきた女という金メッキがはがれ落ち、「ああ、女とは単に生殖器が違う同じ人間か」と悟るに至ったが、メッキが剥がれたあとに現れてくる、生身の女性性、というものもあるわけで。金原ひとみや川上未映子さんの作品を読むと、ああ、女だ、女だ!と叫びたくなる、そして、男は十分に理解できないもの、それは毎日俺が電話している12年付き合っている彼女からも感じることでもあり、女とは何なのか、どういう生き物なのか、と、まるで「人間とは何か」を考えるのと同じくらい考えてしまうのである。

それを知るためには、女になって、女らしい生活をしてみるしかない。でも、もしそうなったら、「男って一体何?!」ということが、最大の悩みになるわけで、結論としては、夫と妻が入れ替わって、お互いの仕事や家事の大変さを理解し合うことはできても、性別が入れ替わって、男と女が分かり合えることはない、ってことですね。

小説について

ケータイのメールは、「手紙」という意味が薄れ、むしろ会話に近い。そう考えると、少し前に新聞に掲載されていた記事、「女子高生(中学生だっけな?)の1日に交わすメールは平均200通」というのも、納得できる。1回のメールの内容を読み上げた場合、10秒だとすると、2000秒=33.333…分、つまりだいたい30分~1時間にも満たない時間、電話をしているのと同じことになる。しかし、1通メールを送るのに、1分かかるとすると、その6倍、200分=3時間20分もメールの返信に費やしていることになる。そうなるとさすがに、暇さえあればケータイ画面に釘付けになって文字を打ち込み続けなければならず、切ない。

ケータイ小説が人気になっているが、ケータイ小説としてタイプされる文章も一人でするお喋りのようだ。もちろん、表現というもの自体が、一人でする、誰かに向けたお喋りであり、このブログだって独り言以上でも以下でもないかもしれない。しかし、そういった反論は、文字を費やせば文章になり、文章をつなげれば小説になるだろうという主張と変わらない。5・7・5の形式をふんでいれば、短歌になるだろうと言っているのと同じく不毛である。

『現代日本の小説』(尾崎真理子/ちくまプリズマー新書/p69)にも引用されている、批評家・浅田彰氏の発言をここでは取り上げたい。

『朝日新聞』の時評は、退屈を我慢して吐きそうになりながら、あの2巻本を読み通してでもやらなならんほどの原稿料はもらっていない(笑)。(中略)私は退屈なんです。言葉を読んでいる楽しみが全然ないから。村上さんだけじゃなくて他の人のも退屈だったのは、虚構の文章になっていないからだと思うんです。声だって訓練しなければオペラも浄瑠璃も無理でしょう。部屋で友だち数人としゃべっている声で彼らだけに通じるお話をだらだらされたら、部屋の外にいる者は退屈に決まっています。(「村上春樹・吉本ばななと消費社会の気分」「朝日ジャーナル」1989年2月3日号)

小説はおしゃべりになった。おおよそ、つまらない小説と僕が感じるのは、年齢やジェンダーや価値観によって、もしかしたら単に僕が世界観を共有できないだけかもしれないが、女子高生や主婦が「最近嫌ねー」とか「まじ超ブルーなんだけど」みたいに、お喋りをしているだけに思えてしまうからだ。そんな話、聞きたくないし、電車に乗ってもバスの停留所でも、喫茶店でさえ嫌でも聞こえてくる。喋れない、喋れない、誰にも話せない、誰もわかってくれない、そういう気持ちを裡に押し込め、おしこめ、自分の中で時間をかけて精製し、ぽたりと、まるで熟れた果実が地面に落ちるくらい、自然に垂れてきた一滴を、俺は飲みたい。
ただし、こうしてブログや自身のHPで、誰もが表現者になれる今、さらにミクロな視点では、メールやチャットでいつでも誰かと話せる今、そしてネットでは常に新しいケータイ小説が魔法のなんたらとかのサイトで生まれている今、そんな内向的な苦しみ、誰も選択はしまい。
そして最も大きな問題は、その中で、俺は何を書けるのか、ということだ。