土と太陽 -7ページ目

文学について —川上未映子さん「乳と卵」を読んで—

たしかこのブログのジャンルは「小説・文学」だったと思うので、そういった方向で少し述べたい。

今年の芥川賞を受賞した川上未映子さんの「乳と卵」を文藝春秋で読み始めた。芥川賞を文藝春秋で読む一番の楽しみは、作品ではなく、石原慎太郎さんの書評である。いつも厳しいことしか言っていない。この人が両手を上げて受賞に賛同する作品が世に出ることはあるのか。ある意味、俺は石原慎太郎さんのコメントのために780円出しているようなものだ。
で、作品たが、最近の「沖で待つ」「ひとり日和」(「アサッテの人」は読んでいない)にも共通することだけど、たしかに描写の手腕はかなり高い。「沖で待つ」は、3、4ページ読んだだけで“ふとっちゃん”の人物がまるで知り合いであるかのように浮かび上がり、「ひとり日和」は情景がありありと目の前に迫り、埃っぽい家や風の匂いが漂ってくる。「乳と卵」は人物の肉体的な動きが、そこに立ち会っているように見えてきて、こちらがおどおどする。しかし、ますます文学というものがわからなくなってきた。文学とは、日常を切り取る手法のことなのか?
たとえば写真、最近では恵比寿ガーデンプレイスの写真美術館?や、六本木ヒルズの青山ブックセンターの写真雑誌コーナーなどで見たけど、あの、切り取られた窓のような1ページ・1枚の向こうに広がる世界の、匂い、風、その一瞬のドラマ、被写体の人間性、そのすべてを一瞬にして、その場に自分がいたとしても味わえないくらい、心に吹き込んでくる感触が楽しい。
文学というのも、そういうものなのだろうか。
ところで、「ケータイ小説」は文学の領域に入るのだろうかというのが最近の関心であって、といってもyoshiの「アユの物語」でこてんぱんに打ちのめされているので最近の「恋空」とか「赤い糸(だっけ?)」も読んでいないけど、あんなの小説じゃなくて映画にした方がいいじゃないか、というのが率直な感想である。小説家よりも、脚本家とかシナリオライターといったほうがいいのではないか。
小林秀雄も批評の中でもらしている通り、小説は時として映画にすると、その魅力が完全に失われることがよくある。小林氏は川端康成の作品が、映画になったら単なる色恋ざたになったと嘆いた。同様に、俺も、田口ランディの「コンセント」は、主人公の女性の神秘性が禿げ、単なる自己満足になってしまい、横山秀夫の「半落ち」はかなり忠実に描かれていたと思うが、真の感慨は小説を読まないとわからないのではないかと感じるように、映像では捉えきれない性質を小説は有している。
その「捉えきれない」ものとは何かというと、読み手の想像力である。デュジャンの、モナリザの顔に髭を描いた作品がどのように評価されているか知らないが、俺は、「作品というのは99%を観る者、読む者の想像力によって補われ、完成させられるものである」という意味じゃないかと考えている。小説は言葉だけによって、読者の想像力をかき立て、そこに風と太陽と血の通った人間と、さらには登場人物の人生さえも匂わせる。たしかに、その意味ではあらゆる小説は小説であり、写真と同様に、あたかも自分がその場に立ち会っている「以上の」感触を与えてくれるものである。
ただし、その感触だけでは、「小説」であっても「文学」ではないのではないか。と、こんなに偉そうに言うと恥ずかしくなるんだけど、最近の小説(ケータイ小説ブームも含め)を見ていると、「小説は手放しでも生き残る、そして文学は死す」と言いたくなる。俺は、現在生きている文学者は大江健三郎さんしかいないのではないか、と思っている。作家全員の作品に触れているわけではないので多分に偏見であろうが、文学とは学問だと信じている。
学問である以上、大きなテーマを背負っていなければならない。すなわち、「人間はどうあるべきか」とか、「いかに生きるか」「人類はどこから来てどこへゆくのか」ということである。ああ、笑ってくれ、こんな偏屈な人間がいてもいいじゃないか。
俺はドフトエフスキーで涙する人間である、朝日新聞の天声人語や日曜日の書評の文章が巧くて爆笑する人間である。だから小説にも、人間の永遠のテーマへの飽くなき探求の姿勢を求めたい。「なぜ俺は1世紀にも満たない短い時間にこの大地に生を受けたのか」ということを。
さらに言えば、心理学、経済学、法学、哲学、神学などなどのあらゆる人文学において捉えきれないものを、文学は見事に表現する。それは、人間の想像力であり人間性ではないか。たしかにすべての学問は学問の先に生身の人間を想定しなれけば成り立たない。ただし、心理学の専門書だけで人間を理解しようとすると、人間が陳腐な生き物であると思えてきてしまうのはどうしてだろうか。

なんだかブログで使用すべき表現方法ではないんだけど、トップの画像からもわかるとおり、これは新書です。ハルヒがただの人間には興味がないと言うのと同様、ただのおもしろおかしい感情論には興味はありません。小説にはどこまでも文学をしてほしい。

追記:ただ、「乳と卵」は現代女性の女性性に関してはすごくおもしろかった。もちろん、突き詰めて煮詰まって、最後に残った核が細胞分裂してある形になった作品に感じるが、それでもアメーバのように芯が感じられなかった。ああ、こんなこと言うと、さらに「お前は何様だ」と言われそうだ。

人間はなぜ「ロボット」に成り下がったのか

友人のブログへの人間学的考察ーー(リンク元参照)

映画「ライフ イズ ビューティフル」の中に、こんな台詞がある。
主人公のグイドが叔父のレストランで働き、給仕の姿勢について彼から助言を受ける。

「給仕は従者ではない。奉仕者なのだ。神は人間に奉仕するが、人間の従者ではない」

友人がしばしば語る、宗教と科学の関係性ーー昔、宗教と科学は同一のものであったが、科学は宗教を排除し、宗教はよくわからない閉鎖的な存在へと変わってしまったーーという話は、まさに「はたらく」ことを、サービス=slave=奴隷と成り下がらせた諸悪の根源であろう。

宗教と科学が同一のものであり、我々が神とともに存在していた頃、はたらくことは、「奉仕」であった。しかし、科学がわれわれの生活に浸透し、それこそが絶対的に信頼のおける「普遍的」法則のように考えられている今、われわれにとっての神は機械、または合理性であろう。機械が行うことは、奉仕ではない。そこに意思がない。それゆえ「奴隷」となり、われわれは「能率」と「合理化」のみを要求されてしまう。

この文脈で、ドラえもんの比較的新しい映画「のび太とロボット王国」を見てみてほしい。人間と機械が仲良くしようなんていう表面的な夢物語を超えて、現代社会の問題が皮膚に突き刺さるだろう。

この悪しき現状を超越するためにはどうしたらよいか。
その点についてのトラックバックを求める。

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FROM
http://ameblo.jp/serviceeconomy/entry-10068004018.html

働くことについて

溜池山王で下車し、銀座線ホームを通った。夕方6時、会社帰りの人ごみが一気に、到着した電車に乗り込み、駅員が「閉めまーす」と叫んだ。その叫び声は勇ましく、雑然と混み合う周囲を一瞬にして整備するほど気持ちのよい響きをしていた。
僕は彼の仕事について考えた。というのも、僕はその日、昼の12時に電話で起され、さあ、国会図書館に行ってアントナン・アルトーやフランシス・キングを読もうかと思ったが、あと少し眠っていてもいいし、特別今日は、いや、もう何ヶ月も、予定という予定はないのだから、と甘え、再度眠りに落ちた。時計は2時を打ち3時を打ち、僕はもう起きなくてはいけないと考え、汗のしみ込んだ万年布団の中でタバコを吸ってから、起き出したのだ。仕事をしていた頃には考えられないような、まるで大学時代に戻ったような、こんな生活の中で、僕は「働く」ということにしばしば思いを巡らせていた。駅員はきっと朝から、もしくは交代制であろうから昼頃からかもしれないが、制服を着てメトロの運行を管理しているのだ。長い下りのエスカレーターに乗り、ゆっくりと下降してゆく中で、僕はこの東京という街の地下に張り巡らされた東京メトロという地下鉄の運行の管理とは、なんてやりがいのある仕事だろうと思った。
広告代理店に勤めていた頃僕は、仕事とはなんてつまらない作業だろうと思っていた。もちろんクライアントから広告の発注をもらった時や、良いレスポンスがあった際の喜びの声など、嬉しいこともたくさんあった。それに、自分が何か小さなことでも動かしているんだという充実感も、なかったわけではない。しかし、ただそれだけだ。世界ーーこの「世界」というのもなかなか奥の深い言葉であり、「存在する世界は変わらなくても、自分が変われば見える世界も変わる」ということは往々にしてあるがーーは、ほとんど変わらない。やりがいとか、はした金のような給料なんていうちっぽけなもので満足するのが、生活、生きることなんだろう。そんな諦めも感じていた。

しかし、メトロの運行という仕事を考えると、すごく壮大で、働く動機としては十分すぎるくらい夢のある役割に思えた。と同時に僕は、心理学者のユングが体験した、アフリカかどこかの先住民族の話を思い出した。ユングは、「自分たちはお祈りをして太陽の運行を行っている」と言う先住民族に会った。先進国的科学かぶれした我々にとっては、なんだそりゃと呆れるような話であるが、彼らは「自分たちがお祈りを止めたら、天上から太陽が落ちてくるかもしれない」と本気で信じているのだ。
ところで、メトロであるが、管理しているのはメトロの社員たちであるかもしれないが、動かしているのは彼らではない。東京の地下に、毛細血管のように張り巡らされ、時刻表を持たなくても便利に利用できるのは、我々が望んだことである。お金を払ってメトロを毎日何千何万の人が利用する。つまりメトロを動かしているのは我々である。
そうなると、メトロの運行管理という仕事は、先住民族がお祈りをして太陽を動かしているのと、何の変わりがあるだろうか。もちろん、太陽の場合はお祈りをしてもしなくても落ちてくることはないとあなたは言うだろう。ならば、メトロの場合であっても、彼らが運行管理をしなくても、訓練を受けた他の人ならば誰だってできるという、人間を交換可能な部品として考える寂しい思想に陥ってしまうのではないだろうか。人間の存在意味を薄れさせてしまわないか。

仕事とは、何かを祈ることである。メトロの社員は、何の事故もなく地下鉄が運行することを祈っている。なかには利用する人が取引先に遅れないことを祈っている人もいるかもしれないし、電車を利用する恋人が安全に目的地に着けることを祈っている人もいるだろう。さらには東京という都市の発展を祈る人もいるだろう。先住民族は、太陽が昇り、また沈むことを祈っている。この祈りこそが、仕事そのものではないだろうか。