働くことについて
溜池山王で下車し、銀座線ホームを通った。夕方6時、会社帰りの人ごみが一気に、到着した電車に乗り込み、駅員が「閉めまーす」と叫んだ。その叫び声は勇ましく、雑然と混み合う周囲を一瞬にして整備するほど気持ちのよい響きをしていた。
僕は彼の仕事について考えた。というのも、僕はその日、昼の12時に電話で起され、さあ、国会図書館に行ってアントナン・アルトーやフランシス・キングを読もうかと思ったが、あと少し眠っていてもいいし、特別今日は、いや、もう何ヶ月も、予定という予定はないのだから、と甘え、再度眠りに落ちた。時計は2時を打ち3時を打ち、僕はもう起きなくてはいけないと考え、汗のしみ込んだ万年布団の中でタバコを吸ってから、起き出したのだ。仕事をしていた頃には考えられないような、まるで大学時代に戻ったような、こんな生活の中で、僕は「働く」ということにしばしば思いを巡らせていた。駅員はきっと朝から、もしくは交代制であろうから昼頃からかもしれないが、制服を着てメトロの運行を管理しているのだ。長い下りのエスカレーターに乗り、ゆっくりと下降してゆく中で、僕はこの東京という街の地下に張り巡らされた東京メトロという地下鉄の運行の管理とは、なんてやりがいのある仕事だろうと思った。
広告代理店に勤めていた頃僕は、仕事とはなんてつまらない作業だろうと思っていた。もちろんクライアントから広告の発注をもらった時や、良いレスポンスがあった際の喜びの声など、嬉しいこともたくさんあった。それに、自分が何か小さなことでも動かしているんだという充実感も、なかったわけではない。しかし、ただそれだけだ。世界ーーこの「世界」というのもなかなか奥の深い言葉であり、「存在する世界は変わらなくても、自分が変われば見える世界も変わる」ということは往々にしてあるがーーは、ほとんど変わらない。やりがいとか、はした金のような給料なんていうちっぽけなもので満足するのが、生活、生きることなんだろう。そんな諦めも感じていた。
しかし、メトロの運行という仕事を考えると、すごく壮大で、働く動機としては十分すぎるくらい夢のある役割に思えた。と同時に僕は、心理学者のユングが体験した、アフリカかどこかの先住民族の話を思い出した。ユングは、「自分たちはお祈りをして太陽の運行を行っている」と言う先住民族に会った。先進国的科学かぶれした我々にとっては、なんだそりゃと呆れるような話であるが、彼らは「自分たちがお祈りを止めたら、天上から太陽が落ちてくるかもしれない」と本気で信じているのだ。
ところで、メトロであるが、管理しているのはメトロの社員たちであるかもしれないが、動かしているのは彼らではない。東京の地下に、毛細血管のように張り巡らされ、時刻表を持たなくても便利に利用できるのは、我々が望んだことである。お金を払ってメトロを毎日何千何万の人が利用する。つまりメトロを動かしているのは我々である。
そうなると、メトロの運行管理という仕事は、先住民族がお祈りをして太陽を動かしているのと、何の変わりがあるだろうか。もちろん、太陽の場合はお祈りをしてもしなくても落ちてくることはないとあなたは言うだろう。ならば、メトロの場合であっても、彼らが運行管理をしなくても、訓練を受けた他の人ならば誰だってできるという、人間を交換可能な部品として考える寂しい思想に陥ってしまうのではないだろうか。人間の存在意味を薄れさせてしまわないか。
仕事とは、何かを祈ることである。メトロの社員は、何の事故もなく地下鉄が運行することを祈っている。なかには利用する人が取引先に遅れないことを祈っている人もいるかもしれないし、電車を利用する恋人が安全に目的地に着けることを祈っている人もいるだろう。さらには東京という都市の発展を祈る人もいるだろう。先住民族は、太陽が昇り、また沈むことを祈っている。この祈りこそが、仕事そのものではないだろうか。
僕は彼の仕事について考えた。というのも、僕はその日、昼の12時に電話で起され、さあ、国会図書館に行ってアントナン・アルトーやフランシス・キングを読もうかと思ったが、あと少し眠っていてもいいし、特別今日は、いや、もう何ヶ月も、予定という予定はないのだから、と甘え、再度眠りに落ちた。時計は2時を打ち3時を打ち、僕はもう起きなくてはいけないと考え、汗のしみ込んだ万年布団の中でタバコを吸ってから、起き出したのだ。仕事をしていた頃には考えられないような、まるで大学時代に戻ったような、こんな生活の中で、僕は「働く」ということにしばしば思いを巡らせていた。駅員はきっと朝から、もしくは交代制であろうから昼頃からかもしれないが、制服を着てメトロの運行を管理しているのだ。長い下りのエスカレーターに乗り、ゆっくりと下降してゆく中で、僕はこの東京という街の地下に張り巡らされた東京メトロという地下鉄の運行の管理とは、なんてやりがいのある仕事だろうと思った。
広告代理店に勤めていた頃僕は、仕事とはなんてつまらない作業だろうと思っていた。もちろんクライアントから広告の発注をもらった時や、良いレスポンスがあった際の喜びの声など、嬉しいこともたくさんあった。それに、自分が何か小さなことでも動かしているんだという充実感も、なかったわけではない。しかし、ただそれだけだ。世界ーーこの「世界」というのもなかなか奥の深い言葉であり、「存在する世界は変わらなくても、自分が変われば見える世界も変わる」ということは往々にしてあるがーーは、ほとんど変わらない。やりがいとか、はした金のような給料なんていうちっぽけなもので満足するのが、生活、生きることなんだろう。そんな諦めも感じていた。
しかし、メトロの運行という仕事を考えると、すごく壮大で、働く動機としては十分すぎるくらい夢のある役割に思えた。と同時に僕は、心理学者のユングが体験した、アフリカかどこかの先住民族の話を思い出した。ユングは、「自分たちはお祈りをして太陽の運行を行っている」と言う先住民族に会った。先進国的科学かぶれした我々にとっては、なんだそりゃと呆れるような話であるが、彼らは「自分たちがお祈りを止めたら、天上から太陽が落ちてくるかもしれない」と本気で信じているのだ。
ところで、メトロであるが、管理しているのはメトロの社員たちであるかもしれないが、動かしているのは彼らではない。東京の地下に、毛細血管のように張り巡らされ、時刻表を持たなくても便利に利用できるのは、我々が望んだことである。お金を払ってメトロを毎日何千何万の人が利用する。つまりメトロを動かしているのは我々である。
そうなると、メトロの運行管理という仕事は、先住民族がお祈りをして太陽を動かしているのと、何の変わりがあるだろうか。もちろん、太陽の場合はお祈りをしてもしなくても落ちてくることはないとあなたは言うだろう。ならば、メトロの場合であっても、彼らが運行管理をしなくても、訓練を受けた他の人ならば誰だってできるという、人間を交換可能な部品として考える寂しい思想に陥ってしまうのではないだろうか。人間の存在意味を薄れさせてしまわないか。
仕事とは、何かを祈ることである。メトロの社員は、何の事故もなく地下鉄が運行することを祈っている。なかには利用する人が取引先に遅れないことを祈っている人もいるかもしれないし、電車を利用する恋人が安全に目的地に着けることを祈っている人もいるだろう。さらには東京という都市の発展を祈る人もいるだろう。先住民族は、太陽が昇り、また沈むことを祈っている。この祈りこそが、仕事そのものではないだろうか。