文学について —川上未映子さん「乳と卵」を読んで—
たしかこのブログのジャンルは「小説・文学」だったと思うので、そういった方向で少し述べたい。
今年の芥川賞を受賞した川上未映子さんの「乳と卵」を文藝春秋で読み始めた。芥川賞を文藝春秋で読む一番の楽しみは、作品ではなく、石原慎太郎さんの書評である。いつも厳しいことしか言っていない。この人が両手を上げて受賞に賛同する作品が世に出ることはあるのか。ある意味、俺は石原慎太郎さんのコメントのために780円出しているようなものだ。
で、作品たが、最近の「沖で待つ」「ひとり日和」(「アサッテの人」は読んでいない)にも共通することだけど、たしかに描写の手腕はかなり高い。「沖で待つ」は、3、4ページ読んだだけで“ふとっちゃん”の人物がまるで知り合いであるかのように浮かび上がり、「ひとり日和」は情景がありありと目の前に迫り、埃っぽい家や風の匂いが漂ってくる。「乳と卵」は人物の肉体的な動きが、そこに立ち会っているように見えてきて、こちらがおどおどする。しかし、ますます文学というものがわからなくなってきた。文学とは、日常を切り取る手法のことなのか?
たとえば写真、最近では恵比寿ガーデンプレイスの写真美術館?や、六本木ヒルズの青山ブックセンターの写真雑誌コーナーなどで見たけど、あの、切り取られた窓のような1ページ・1枚の向こうに広がる世界の、匂い、風、その一瞬のドラマ、被写体の人間性、そのすべてを一瞬にして、その場に自分がいたとしても味わえないくらい、心に吹き込んでくる感触が楽しい。
文学というのも、そういうものなのだろうか。
ところで、「ケータイ小説」は文学の領域に入るのだろうかというのが最近の関心であって、といってもyoshiの「アユの物語」でこてんぱんに打ちのめされているので最近の「恋空」とか「赤い糸(だっけ?)」も読んでいないけど、あんなの小説じゃなくて映画にした方がいいじゃないか、というのが率直な感想である。小説家よりも、脚本家とかシナリオライターといったほうがいいのではないか。
小林秀雄も批評の中でもらしている通り、小説は時として映画にすると、その魅力が完全に失われることがよくある。小林氏は川端康成の作品が、映画になったら単なる色恋ざたになったと嘆いた。同様に、俺も、田口ランディの「コンセント」は、主人公の女性の神秘性が禿げ、単なる自己満足になってしまい、横山秀夫の「半落ち」はかなり忠実に描かれていたと思うが、真の感慨は小説を読まないとわからないのではないかと感じるように、映像では捉えきれない性質を小説は有している。
その「捉えきれない」ものとは何かというと、読み手の想像力である。デュジャンの、モナリザの顔に髭を描いた作品がどのように評価されているか知らないが、俺は、「作品というのは99%を観る者、読む者の想像力によって補われ、完成させられるものである」という意味じゃないかと考えている。小説は言葉だけによって、読者の想像力をかき立て、そこに風と太陽と血の通った人間と、さらには登場人物の人生さえも匂わせる。たしかに、その意味ではあらゆる小説は小説であり、写真と同様に、あたかも自分がその場に立ち会っている「以上の」感触を与えてくれるものである。
ただし、その感触だけでは、「小説」であっても「文学」ではないのではないか。と、こんなに偉そうに言うと恥ずかしくなるんだけど、最近の小説(ケータイ小説ブームも含め)を見ていると、「小説は手放しでも生き残る、そして文学は死す」と言いたくなる。俺は、現在生きている文学者は大江健三郎さんしかいないのではないか、と思っている。作家全員の作品に触れているわけではないので多分に偏見であろうが、文学とは学問だと信じている。
学問である以上、大きなテーマを背負っていなければならない。すなわち、「人間はどうあるべきか」とか、「いかに生きるか」「人類はどこから来てどこへゆくのか」ということである。ああ、笑ってくれ、こんな偏屈な人間がいてもいいじゃないか。
俺はドフトエフスキーで涙する人間である、朝日新聞の天声人語や日曜日の書評の文章が巧くて爆笑する人間である。だから小説にも、人間の永遠のテーマへの飽くなき探求の姿勢を求めたい。「なぜ俺は1世紀にも満たない短い時間にこの大地に生を受けたのか」ということを。
さらに言えば、心理学、経済学、法学、哲学、神学などなどのあらゆる人文学において捉えきれないものを、文学は見事に表現する。それは、人間の想像力であり人間性ではないか。たしかにすべての学問は学問の先に生身の人間を想定しなれけば成り立たない。ただし、心理学の専門書だけで人間を理解しようとすると、人間が陳腐な生き物であると思えてきてしまうのはどうしてだろうか。
なんだかブログで使用すべき表現方法ではないんだけど、トップの画像からもわかるとおり、これは新書です。ハルヒがただの人間には興味がないと言うのと同様、ただのおもしろおかしい感情論には興味はありません。小説にはどこまでも文学をしてほしい。
追記:ただ、「乳と卵」は現代女性の女性性に関してはすごくおもしろかった。もちろん、突き詰めて煮詰まって、最後に残った核が細胞分裂してある形になった作品に感じるが、それでもアメーバのように芯が感じられなかった。ああ、こんなこと言うと、さらに「お前は何様だ」と言われそうだ。
今年の芥川賞を受賞した川上未映子さんの「乳と卵」を文藝春秋で読み始めた。芥川賞を文藝春秋で読む一番の楽しみは、作品ではなく、石原慎太郎さんの書評である。いつも厳しいことしか言っていない。この人が両手を上げて受賞に賛同する作品が世に出ることはあるのか。ある意味、俺は石原慎太郎さんのコメントのために780円出しているようなものだ。
で、作品たが、最近の「沖で待つ」「ひとり日和」(「アサッテの人」は読んでいない)にも共通することだけど、たしかに描写の手腕はかなり高い。「沖で待つ」は、3、4ページ読んだだけで“ふとっちゃん”の人物がまるで知り合いであるかのように浮かび上がり、「ひとり日和」は情景がありありと目の前に迫り、埃っぽい家や風の匂いが漂ってくる。「乳と卵」は人物の肉体的な動きが、そこに立ち会っているように見えてきて、こちらがおどおどする。しかし、ますます文学というものがわからなくなってきた。文学とは、日常を切り取る手法のことなのか?
たとえば写真、最近では恵比寿ガーデンプレイスの写真美術館?や、六本木ヒルズの青山ブックセンターの写真雑誌コーナーなどで見たけど、あの、切り取られた窓のような1ページ・1枚の向こうに広がる世界の、匂い、風、その一瞬のドラマ、被写体の人間性、そのすべてを一瞬にして、その場に自分がいたとしても味わえないくらい、心に吹き込んでくる感触が楽しい。
文学というのも、そういうものなのだろうか。
ところで、「ケータイ小説」は文学の領域に入るのだろうかというのが最近の関心であって、といってもyoshiの「アユの物語」でこてんぱんに打ちのめされているので最近の「恋空」とか「赤い糸(だっけ?)」も読んでいないけど、あんなの小説じゃなくて映画にした方がいいじゃないか、というのが率直な感想である。小説家よりも、脚本家とかシナリオライターといったほうがいいのではないか。
小林秀雄も批評の中でもらしている通り、小説は時として映画にすると、その魅力が完全に失われることがよくある。小林氏は川端康成の作品が、映画になったら単なる色恋ざたになったと嘆いた。同様に、俺も、田口ランディの「コンセント」は、主人公の女性の神秘性が禿げ、単なる自己満足になってしまい、横山秀夫の「半落ち」はかなり忠実に描かれていたと思うが、真の感慨は小説を読まないとわからないのではないかと感じるように、映像では捉えきれない性質を小説は有している。
その「捉えきれない」ものとは何かというと、読み手の想像力である。デュジャンの、モナリザの顔に髭を描いた作品がどのように評価されているか知らないが、俺は、「作品というのは99%を観る者、読む者の想像力によって補われ、完成させられるものである」という意味じゃないかと考えている。小説は言葉だけによって、読者の想像力をかき立て、そこに風と太陽と血の通った人間と、さらには登場人物の人生さえも匂わせる。たしかに、その意味ではあらゆる小説は小説であり、写真と同様に、あたかも自分がその場に立ち会っている「以上の」感触を与えてくれるものである。
ただし、その感触だけでは、「小説」であっても「文学」ではないのではないか。と、こんなに偉そうに言うと恥ずかしくなるんだけど、最近の小説(ケータイ小説ブームも含め)を見ていると、「小説は手放しでも生き残る、そして文学は死す」と言いたくなる。俺は、現在生きている文学者は大江健三郎さんしかいないのではないか、と思っている。作家全員の作品に触れているわけではないので多分に偏見であろうが、文学とは学問だと信じている。
学問である以上、大きなテーマを背負っていなければならない。すなわち、「人間はどうあるべきか」とか、「いかに生きるか」「人類はどこから来てどこへゆくのか」ということである。ああ、笑ってくれ、こんな偏屈な人間がいてもいいじゃないか。
俺はドフトエフスキーで涙する人間である、朝日新聞の天声人語や日曜日の書評の文章が巧くて爆笑する人間である。だから小説にも、人間の永遠のテーマへの飽くなき探求の姿勢を求めたい。「なぜ俺は1世紀にも満たない短い時間にこの大地に生を受けたのか」ということを。
さらに言えば、心理学、経済学、法学、哲学、神学などなどのあらゆる人文学において捉えきれないものを、文学は見事に表現する。それは、人間の想像力であり人間性ではないか。たしかにすべての学問は学問の先に生身の人間を想定しなれけば成り立たない。ただし、心理学の専門書だけで人間を理解しようとすると、人間が陳腐な生き物であると思えてきてしまうのはどうしてだろうか。
なんだかブログで使用すべき表現方法ではないんだけど、トップの画像からもわかるとおり、これは新書です。ハルヒがただの人間には興味がないと言うのと同様、ただのおもしろおかしい感情論には興味はありません。小説にはどこまでも文学をしてほしい。
追記:ただ、「乳と卵」は現代女性の女性性に関してはすごくおもしろかった。もちろん、突き詰めて煮詰まって、最後に残った核が細胞分裂してある形になった作品に感じるが、それでもアメーバのように芯が感じられなかった。ああ、こんなこと言うと、さらに「お前は何様だ」と言われそうだ。