神なき現代における救済とは | 土と太陽

神なき現代における救済とは

はっきりとした。
「可能性とアンチテーゼ」は、俺のこれまでの人生のテーマであり、かつ、超えなければならない課題であった。
多くは語るまい。
デザイン一新。
友よ、再び語り合おう。

いくつか話したいテーマがあるけど、
6/30の毎日新聞朝刊【文化面】
「平野啓一郎さん 長編小説『決壊』を刊行 ネット社会で壊れていく心」
現代の人間関係や死生観を語る上で、「ネット」の存在を抜きにはできない。ネットを中心に描くか、ネットをメタファとして用いるかは別にして。

ストーリーは2つの物語から成る。1人は30代のエリートサラリーマンで、30歳の弟を殺された。もう1人はいじめに遭う中学2年生。彼は「悪魔」と名乗る人物にそそのかされ、犯罪に加担する。

平野氏は、「悪魔」は荒野でキリストを誘惑したように、意外に無力で、人間の心に付け入ることを指摘する。「だから誰でもなれるんです」。
「悪魔」?何か似た話を思い出す。近年大流行(今もだね)のデスノート。あれは本当に現代の「悪魔」を巧妙に描ききった作品なのだろう。

平野氏は、いじめから9.11テロに至まで、現代の「暴力」に焦点を当てているように見受けられたが、俺は「人間関係」に焦点を当てていきたい。
そこで、作品を読んでいないため無関係であるが、悪魔の正体は何かを現時点で、簡単に考察したい。
「ひぐらしのなく頃に」
映画化されたけど、これは、インターネット的人間関係の象徴のようなものじゃないだろうか。突然アグレッションが爆発し、一瞬のうちにいつもの穏やかな顔になる。人格に一貫性がない。
ネットコミュニケーション(ケータイメールも含む)で、最も気を擦り減らすのが、この「リアル(または本音)とバーチャル(または建前)との境界線がわからない」こと。わからなくて、親密な関係だと思っていたら、いきなり裏切られ、疑心暗鬼が膨らみ、悪魔が降りてくる。
ケータイの普及とネットの普及と、それに伴うコミュニケーションの量と質を調査していないから、はっきりは言えないけど、ここでなされる人間関係は、確実に適切な距離感を失っている。

記事は、作中の主人公とドフトエフスキー「悪霊」のスタヴローギンとを比較し、本作品の「決壊」では犯罪に対置する「信仰」が描かれていないなど「現代の荒涼が容赦なく描かれる」と指摘している。
平野氏は、結末を決めずに書き、最後まで迷ったという。「希望を残す終わり方にするか、絶望に直面する結末にするか」。

もう既に、俺たちはネット社会の絶望に打ちひしがれている。改めて現実を突きつけられるよりも、未来に向けた人間愛に満ちた洞察がほしい。
俺は過去の「信仰」に並ぶ現代的な神を見てみたい。

「神なき現代における救済はいかにして可能なのか」
平野氏が述べている言葉だが、もはやこのフレーズも少々手あかが付きすぎている気もする。ただ、この問いこそ21世紀的問いであり、答えなければならないだろう。