俺が求めていること
走り書き
来週のゼミでは、それぞれが修論のテーマを明確にし、ゼミ生4人で発表し討論するーー
俺は、入学後発表したテーマがあまりにも漠然として土台の危ないものであったかを知り、今までいろいろと悩んできた。今日ゼミで友人に言われたこと、それは、他のゼミ生は明確にこれがやりたいんだってわかるけど、「(俺の名前)さんのは、イメージが掴めない」。そう、はっきり言ってくれてサンキューな。俺もそう思っていたし、そうやってズバリ言ってくれる友人は本当に大切なんだ。
大学から夕方帰ってきて、疲労で眠り、夜起きて考え続けて、はっとした。俺が「アイデンティティ」と「意味・目的意識」を関連させてやりたいと願うのは、根本的に俺が人生に対して求めていることだった。
生きていくにつれて、可能性は次第に限定されてゆく。自分の限界を知ることでもあり、また未来の可能性も時間的/金銭的に限られていく。そういった人生というものに生物学的な「漸進的発達」という視点から光を当て、青年期に得たアイデンティティを中心に、人生周期を考えるのがアイデンティティ理論であるが、佐藤(2001)も指摘する通り、アイデンティティの発達とは「社会の価値体系をを受け入れ」ることである。すなわち、自分の限界を認め、社会に自分を適合させること、社会と自分の同一視といえよう。
ただ、俺はそれでは満足できないし、全面的に受け入れるのは拒みたい。たしかに自分の限界を認め、社会化することは大切だと思うけど、状況(または逆境)を受け入れれば受け入れただけ、可能性が減れば減るほど、人生に対してより積極的に関わることができるのではないか、そんな逆説的ともいえる可能性を、俺は信じ続けたい。というか、俺はそれを見いだせないと許せないんだ。生物的な制約から自由になること、社会的拘束から自由になること、それは生理的な動物としての身体性、感情や思考・認知という心理性、だけでなく、意思という「精神性」を持った人間だからこそなし得ることのできる領域ではないか。それが、フランクルの述べる「態度価値」(すなわち、いかなる状況ーー死を目前にして病床に就くがん患者のようにーーでも意味を求め、人生に主体的に関わることができるということ)に他ならないだろう。
そういった視点を、終末医療現場、老人ホーム、または産業ーーもしどのフィールドも確保できなければもっと小さく現実的な場所に落ち着くかもしれないけどーーにスポットを当て、人生の可能性を見いだしていきたい。
修論では、そのくらい大きな目標を掲げ、大河に小石を投じる。水面に波紋が広がらなくてもいい。大きな海へ小石を運んでくれることを願いながらーー
引用文献ーー
2001,佐藤文子,大学生の人生の意味・目的意識と自我同一性形成について(1)ーー理論的前提とこれまでの研究の検討ーー いわき明星大学人文学部研究紀要 15,Pp.99-115
来週のゼミでは、それぞれが修論のテーマを明確にし、ゼミ生4人で発表し討論するーー
俺は、入学後発表したテーマがあまりにも漠然として土台の危ないものであったかを知り、今までいろいろと悩んできた。今日ゼミで友人に言われたこと、それは、他のゼミ生は明確にこれがやりたいんだってわかるけど、「(俺の名前)さんのは、イメージが掴めない」。そう、はっきり言ってくれてサンキューな。俺もそう思っていたし、そうやってズバリ言ってくれる友人は本当に大切なんだ。
大学から夕方帰ってきて、疲労で眠り、夜起きて考え続けて、はっとした。俺が「アイデンティティ」と「意味・目的意識」を関連させてやりたいと願うのは、根本的に俺が人生に対して求めていることだった。
生きていくにつれて、可能性は次第に限定されてゆく。自分の限界を知ることでもあり、また未来の可能性も時間的/金銭的に限られていく。そういった人生というものに生物学的な「漸進的発達」という視点から光を当て、青年期に得たアイデンティティを中心に、人生周期を考えるのがアイデンティティ理論であるが、佐藤(2001)も指摘する通り、アイデンティティの発達とは「社会の価値体系をを受け入れ」ることである。すなわち、自分の限界を認め、社会に自分を適合させること、社会と自分の同一視といえよう。
ただ、俺はそれでは満足できないし、全面的に受け入れるのは拒みたい。たしかに自分の限界を認め、社会化することは大切だと思うけど、状況(または逆境)を受け入れれば受け入れただけ、可能性が減れば減るほど、人生に対してより積極的に関わることができるのではないか、そんな逆説的ともいえる可能性を、俺は信じ続けたい。というか、俺はそれを見いだせないと許せないんだ。生物的な制約から自由になること、社会的拘束から自由になること、それは生理的な動物としての身体性、感情や思考・認知という心理性、だけでなく、意思という「精神性」を持った人間だからこそなし得ることのできる領域ではないか。それが、フランクルの述べる「態度価値」(すなわち、いかなる状況ーー死を目前にして病床に就くがん患者のようにーーでも意味を求め、人生に主体的に関わることができるということ)に他ならないだろう。
そういった視点を、終末医療現場、老人ホーム、または産業ーーもしどのフィールドも確保できなければもっと小さく現実的な場所に落ち着くかもしれないけどーーにスポットを当て、人生の可能性を見いだしていきたい。
修論では、そのくらい大きな目標を掲げ、大河に小石を投じる。水面に波紋が広がらなくてもいい。大きな海へ小石を運んでくれることを願いながらーー
引用文献ーー
2001,佐藤文子,大学生の人生の意味・目的意識と自我同一性形成について(1)ーー理論的前提とこれまでの研究の検討ーー いわき明星大学人文学部研究紀要 15,Pp.99-115