ブルマーがすきだ
ブルマーがハーフパンツになって、さらにスカートがスラックスになるなんて!と思いきや、意外にスカート支持が多いことにほっとした。というのも、(記事やコメントの感情的・近視眼的低能さには目をつぶり)社会における男と女=ジェンダーあるいはセックスについての伝統文化と合理主義とのせめぎ合いに負けず、女は女であり続けてほしいと願っているからだ。
参照:
札幌女子中生・ズボン制服へ 他の雪国女子中生の意見
雪国だろうが南国だろうが女子中学生女子高生と言えばスカートが基本だが、札幌ではスラックス姿の女子中学生が登場しそうだ。.........≪続きを読む≫
人間がどこまでも人間になろうとするならば、動物的な宿命から逃れなければならない。少子化が叫ばれているが、伝統的な女性性の拘束が解け、誰もが自分の人生を自由に求めることのできる中で、「子どもを産む」というのも、自分の人生を生きるための「一つの選択肢」でしかなくなるのは当然である。女性も男性も、自分自身を求め続けること、あるいは仕事で社会を作り上げるということが可能となり(金銭的にそうせざるをえないということもあるが)、より「人間的に」生きることができるようになった。
しかし、どこまでも人間になることは望ましいのだろうか。
伝統的・文化的拘束というジェンダーは、人間の動物的宿命を維持する装置でもある。女性は働かずに専業主婦になることが望まれていたのは、子孫を残す必要があるからであろう。といっても、伝統や文化やジェンダーの復権を!と叫ぶことは馬鹿げているのでもちろん言わない。現代の結婚で大切なのは、「いかに自分自身であり続けることができるか、男女が」ということは知っているから。
そして、そういった伝統が崩れ、今、人間はより自由になりつつある、つまり、動物的な習性から解き放たれ、人間的欲求によって行動を選択することがかなりできるようになってきた。合理性を追求するならば、スカートよりもスラックスのほうがいいし、さらに言えば制服よりも私服のほうがいい。しかしそこで、どんな理由であれ、スカートを選択するという非合理性に身を委ねることに、何かしら価値があるように思えてならない。
僕は少し前から、多くの二元論は一元化しつつあるかもしれないが、男と女というセックスが一元化した場合、何者になることができるのかということを考えてきた。今、ジェンダーがなくなり、社会的には男と女の差は(隅々を見ればあるが)あまりない。男と女というジェンダーが一元化すると何になるかというと、「その人自身」であるだろう。しかし、セックスに関しては決して一元化することができず、いつまでも男は男であり、女は女であるという結論に辿り着いた。そしてこれこそが、人間が性別というものにおいてどんなに合理化しても捨てることのできない動物的な宿命であるように思う。そして、人間は合理化して反動物的な行動を求めることばかりでなく、動物的な宿命の中で生きていってほしいと願う。
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札幌女子中生・ズボン制服へ 他の雪国女子中生の意見
雪国だろうが南国だろうが女子中学生女子高生と言えばスカートが基本だが、札幌ではスラックス姿の女子中学生が登場しそうだ。.........≪続きを読む≫
人間がどこまでも人間になろうとするならば、動物的な宿命から逃れなければならない。少子化が叫ばれているが、伝統的な女性性の拘束が解け、誰もが自分の人生を自由に求めることのできる中で、「子どもを産む」というのも、自分の人生を生きるための「一つの選択肢」でしかなくなるのは当然である。女性も男性も、自分自身を求め続けること、あるいは仕事で社会を作り上げるということが可能となり(金銭的にそうせざるをえないということもあるが)、より「人間的に」生きることができるようになった。
しかし、どこまでも人間になることは望ましいのだろうか。
伝統的・文化的拘束というジェンダーは、人間の動物的宿命を維持する装置でもある。女性は働かずに専業主婦になることが望まれていたのは、子孫を残す必要があるからであろう。といっても、伝統や文化やジェンダーの復権を!と叫ぶことは馬鹿げているのでもちろん言わない。現代の結婚で大切なのは、「いかに自分自身であり続けることができるか、男女が」ということは知っているから。
そして、そういった伝統が崩れ、今、人間はより自由になりつつある、つまり、動物的な習性から解き放たれ、人間的欲求によって行動を選択することがかなりできるようになってきた。合理性を追求するならば、スカートよりもスラックスのほうがいいし、さらに言えば制服よりも私服のほうがいい。しかしそこで、どんな理由であれ、スカートを選択するという非合理性に身を委ねることに、何かしら価値があるように思えてならない。
僕は少し前から、多くの二元論は一元化しつつあるかもしれないが、男と女というセックスが一元化した場合、何者になることができるのかということを考えてきた。今、ジェンダーがなくなり、社会的には男と女の差は(隅々を見ればあるが)あまりない。男と女というジェンダーが一元化すると何になるかというと、「その人自身」であるだろう。しかし、セックスに関しては決して一元化することができず、いつまでも男は男であり、女は女であるという結論に辿り着いた。そしてこれこそが、人間が性別というものにおいてどんなに合理化しても捨てることのできない動物的な宿命であるように思う。そして、人間は合理化して反動物的な行動を求めることばかりでなく、動物的な宿命の中で生きていってほしいと願う。