何もない時代の限界と可能性
芥川賞の書評で村上龍が『カツラ美容室個室』について
まさに「スカスカで何もない」時代状況を映し出す優れたドキュメントとして読むことができるのだが
と述べているが、その類いの言葉が使われすぎたためか、どこか陳腐な印象を受ける。
たしかに、今は何もない時代かもしれない。ただ、何もない荒れ地から神は誕生した。
「求めない」という詩集が僕は嫌いなのだが、先日銀座の本屋で、著者の加島祥造氏が、荘子の思想についても書いていることに気づき、ああ、そういうことか、と納得した。
荘子を僕は大好きだけれども、「求めない」の詩集はやっぱり嫌いだ。なぜなら、大衆はそもそも、「本質的には」何も求めてなどいないのだから。たしかに、加島氏の詩集は、本質的なものを得るために、雑多な誘惑を求めないようにしよう、と言いたいのかもしれないけど、それが「正確に」読者に伝わるはずがない。他人に対して求めすぎないこと。たしかにその通り。他人を変えることなど、どんな優秀な心理学者でも、どんな深い歴史をもつ宗教でも、できはしない。なぜなら、人は「その人が変わるのを待つ」ことしかできないのだから(カウンセリングもそういう仕事だ)。
ただし、そうであっても「周りには何もないんだから、期待するのはやめましょう、待ちましょう。ね、落ち着くでしょ」程度のことしか、おそらく読者には伝わらないだろうし、その姿勢は、自分の人生に対しても何も求めないことがカッコいい生き方であるといった(もうすでにそうなっているが)悲劇に結びつきやすい。そういう人間に、俺は憤慨する。悟りということを、あるいは現世の煩悩を断つとか、あるいは死を考えながら生きるということを、俺は知らないだけかもしれない、しかし、何も求めないところからは何も生まない。悟りも、現世の煩悩を断つことも、死を考えて生きることも、そこに辿り着くまでに、どれほどの苦悩、つまり自分の全身全霊を総動員させて求め続ける作業が行われたことか。だが、どんなに求めても手に入れることができない、どんなにあがいても、この「人生」という怪物にかなわない、そこでもまだ諦めず、人生、そして世界と関わりあおうとし続ける姿勢、それが悟りであって、現世の煩悩を断つことであり、死を見つめて生きることではないのか。
今は「死」ブームである。スピリチュアルやら「千の風になって」やら、死や魂が身近な概念としてそこにある時代である。精神が荒廃した今、「求めない」こと、つまり「無=なにもない=全てがある気がする」という無限性の幻覚を得ることが目的化しているように感じる。ただし、キルケゴールも述べている通り、無限性が獲得されることは、絶望を通してしかあり得ないのである(「死に至る病」岩波文庫/斉藤信治 訳/p43)。そして(キルケゴールとは違う読み方かもしれないけど)、絶望するためには「自分の全存在を賭けて」求め続けなければならないのである。
まさに「スカスカで何もない」時代状況を映し出す優れたドキュメントとして読むことができるのだが
と述べているが、その類いの言葉が使われすぎたためか、どこか陳腐な印象を受ける。
たしかに、今は何もない時代かもしれない。ただ、何もない荒れ地から神は誕生した。
「求めない」という詩集が僕は嫌いなのだが、先日銀座の本屋で、著者の加島祥造氏が、荘子の思想についても書いていることに気づき、ああ、そういうことか、と納得した。
荘子を僕は大好きだけれども、「求めない」の詩集はやっぱり嫌いだ。なぜなら、大衆はそもそも、「本質的には」何も求めてなどいないのだから。たしかに、加島氏の詩集は、本質的なものを得るために、雑多な誘惑を求めないようにしよう、と言いたいのかもしれないけど、それが「正確に」読者に伝わるはずがない。他人に対して求めすぎないこと。たしかにその通り。他人を変えることなど、どんな優秀な心理学者でも、どんな深い歴史をもつ宗教でも、できはしない。なぜなら、人は「その人が変わるのを待つ」ことしかできないのだから(カウンセリングもそういう仕事だ)。
ただし、そうであっても「周りには何もないんだから、期待するのはやめましょう、待ちましょう。ね、落ち着くでしょ」程度のことしか、おそらく読者には伝わらないだろうし、その姿勢は、自分の人生に対しても何も求めないことがカッコいい生き方であるといった(もうすでにそうなっているが)悲劇に結びつきやすい。そういう人間に、俺は憤慨する。悟りということを、あるいは現世の煩悩を断つとか、あるいは死を考えながら生きるということを、俺は知らないだけかもしれない、しかし、何も求めないところからは何も生まない。悟りも、現世の煩悩を断つことも、死を考えて生きることも、そこに辿り着くまでに、どれほどの苦悩、つまり自分の全身全霊を総動員させて求め続ける作業が行われたことか。だが、どんなに求めても手に入れることができない、どんなにあがいても、この「人生」という怪物にかなわない、そこでもまだ諦めず、人生、そして世界と関わりあおうとし続ける姿勢、それが悟りであって、現世の煩悩を断つことであり、死を見つめて生きることではないのか。
今は「死」ブームである。スピリチュアルやら「千の風になって」やら、死や魂が身近な概念としてそこにある時代である。精神が荒廃した今、「求めない」こと、つまり「無=なにもない=全てがある気がする」という無限性の幻覚を得ることが目的化しているように感じる。ただし、キルケゴールも述べている通り、無限性が獲得されることは、絶望を通してしかあり得ないのである(「死に至る病」岩波文庫/斉藤信治 訳/p43)。そして(キルケゴールとは違う読み方かもしれないけど)、絶望するためには「自分の全存在を賭けて」求め続けなければならないのである。