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ひっそりマイナーチェンジ(城アバター)

本日、城アバターに「神社」が追加されました。

「もっと特徴的なアイテムを」という声も頂いておりましたので、今後もこの手の特徴あるアバターの追加に力を入れていきますのでご期待下さい。



といっても、今回のブログの本題はその話ではなくて、実はひっそり星空と今日、城アバターの表示画質を改善しました。


あまりに地味な改善なので、お気づきの方も少ないかとは思いますが、アバターの組み合わせによっては、劇的にきれいになる方もいらっしゃいますキラキラ


一度トップページの城アバターを確認してみて下さいませ。

(今までモワモワしていたところとかが、キレイになっているはずです)


また、アバターについては来月のどこかでプチ変更を行うことも考えられています。


あくまで「プチ」なので告知するほどのことでもないのですが、アバターの配置や既存アイテムを少し見直しする予定です。(もちろん、これもみなさんからのリクエストにもとづいたものでして...)

こちらは、またブログでプチ報告させて頂きますパソコン


最近、「ひっそりマイナーチェンジ」系の記事が多いですが、まだもうちょっと続く、と思いますDASH!

もう少しおつきあい下さいませ。


※もし、「ここもついでにひっそり直してくれっ」というご要望ありましたら、リクエストからお送り下さいませ。





ひっそりマイナーチェンジ(歴史クイズ)

1日1問出題させて頂いてます「歴史クイズ」ですが、以前実施しましたアンケートの回答の中で、「難しすぎるよビックリマーク」というご意見がわりと多くありました。


確かに、歴史が好きな人にとっては(わたくし含め)スっと答えられる問題でも、一般的に見れば「聞いたことすらないドクロ」みたいな問題もあったりするかと思います。


そのため、簡単すぎず、難しすぎずというバランスは非常ーに悩ましいおやしらずところではありますが、現在、これまでたまに登場していた【難問】を、いったん出ないように設定しています。


代わりに、通常の問題をこれまで通り1日1問出題していますので、ちょっと状況(=正解率ですね)を見ながら、そのあたりの調整を随時行っていきます。


ちなみに…、何度かブログでも触れましたが、クイズに正解してGETできる「連続正解ボーナス」は、“毎日正解”することではなく、“正解が続くこと”が条件になっていますので、答えに自信がない日はパスすることで、連続正解が途切れることを防げますグッド!


もう1点告知が。


現在は、「戦国時代」または「城」に関するクイズを配信していますが、今後は、“3日間限定”などの期間限定で、「幕末」や「三国志」、「江戸時代」などの問題も登場予定です。

こちらについても、実施する前にはブログでお知らせしますので、迎撃体制ロケットを整えておいて下さい。


さらに最後に。


トップページに「クイズ」というリンクがありますが、「今日解答したのかどうか分かるようにして欲しい」というご要望も頂いておりました。


こちらも近日中に「分かりやすく」なる予定ですので、ご期待下さいませ宝石白


以上、歴史クイズに関する長々としたお知らせでしたメモ

陣屋って何?

ブログ更新が遅くなってしまいまして申し訳ありませんあせる


さて、本日は城めぐりに収録されている城の中にいくつか登場する「陣屋」について。


たまに、「陣屋って何?」、「城と陣屋は何が違うの?」と聞かれることがありますので、おさらいを。


城めぐりに収録されている陣屋は、基本的に江戸時代の陣屋です。

江戸時代には300近い藩が日本にありましたが、藩の政庁として機能していたのが軍事機能も兼ね備えた「」です。


ただ、実際には1~3万石程度の小藩の数も多く、半数近くは城を持たず無城大名だったとも言われます。そのような大名は城ではなく、陣屋を藩庁としていました。


ちなみに、大藩の重臣の城下町外の屋敷や藩の飛地、幕府代官の支配地の代官所も陣屋と呼ばれることがあります。


戦国時代には、敵からの防御を第一に考え、急峻な山の上に城を築くことが一般的でしたが、平和な時代が訪れ、政治の中心が山の上にある不便さから、平地へと移行し、大大名は平城に、小大名は陣屋に居を移すことになります。


陣屋の特徴としては、城のように堅固な堀、櫓、天守など大規模な建築物が築かれることはなく、比較的簡素な屋敷や門、低い石垣などが特徴です。


そんな地味汗さからでしょうか、大々的に観光地化されていることが多い「城」とは対照的に、陣屋の中にはすっかり宅地にとけ込んでしまっているものも少なくありません。

攻城戦が起こりえなかったことや、平和な江戸時代に存在したことも、町のシンボルになりづらいのかもしれません。悲しい現実ですDASH!


とはいえ、旧城郭跡を陣屋として利用したり、山城のふもとに陣屋を構えたところなど、「城」と「陣屋」は切っても切れない関係にあり、江戸時代の建築美を十分堪能できる陣屋もたくさんありますので、ぜひ城めぐりの際に、陣屋にもスポットを当ててみて下さい音譜

日本の城名ランキング

昨日とある名字の本を読んでいたのですが(最近、ややマイブームひらめき電球)、「鈴木」や「佐藤」、「高橋」など、日本の名字ベスト10的なものがありました。(これ、だいたいの名字本にあります...)


で、ふと、じゃあ日本の城名ベスト10はなんだろう、と思いまして、城めぐりに収録の城+それに漏れてしまった城でさっそく集計してみました。


もちろん、ババッと簡単に集計したものなので、別名がちゃんとカウントされてなかったり、そもそもデータベースになかったりで、完璧なものではないですが、傾向としては十分参考になるでしょう音譜


ちなみに、我ながらこんなランキングをやっているところはなかなかないかと。


では、さっそく↓


10位 岡城

瀧廉太郎「荒城の月」でも有名なのも「岡城」(大分県竹田市)ですね。他には、埼玉県朝霞市、福岡県岡垣町などにもあります。


9位 山崎城

別名「宝寺城」で、かの豊臣秀吉が一時期本拠にしていたのが「山崎城」です。あとは、千葉県野田市や、鳥取県鳥取市などにも存在します。


8位 天神山城

そもそも天神山っていう山が多いのかもですね。「天地人で小泉孝太郎が演じた大国実頼が城主だった」と、新潟市がイチオシ の城が「天神山城」です。他に、岡山県和気町の城や、神奈川県川崎市の小沢城の別名も「天神山城」です。


7位 松山城

これは現存天守で有名すぎる愛媛の「松山城」がありますね。「松山城」に関しては不思議なことに、「●●松山城」という名で通っている事が多いです。「備中松山城」(岡山県高梁市)、「武蔵松山城」(埼玉県吉見町)、「宇陀松山城」(奈良県宇陀市)などです。


6位 丸山城

これも、丸山という山が多いからなのでしょうか。「丸山城」と言われてパッとすぐに有名な城が思い浮かびませんでしたが、偶然かそれとも理由があるのか、圧倒的に“西日本”に集中していました。大阪、兵庫などの近畿から中国地方にかけて、かなりありました。


5位 大野城

「大野城」と聞いて思い浮かぶのは、やはり福岡の神籠石式山城「大野城」(大野城市)か、「越前大野城」(福井県大野市)でしょうか。福岡の「大野城」だけ時代がだいぶさかのぼるので、“元祖”ですね。


4位 松尾城

真田氏の本城の別名がまさに「松尾城」ですね。近くには「松尾古城」もあります。あと、「松尾城」は比較的別名としての活躍?が目立ちます。掛川城、横須賀城、七尾城の別名も「松尾城」です。


3位 山田城

「山田城」は、沖縄にもあります。“山田グスク”です。「山田」は名字ランキングでも上位に入っていますが、長野県高山村、奈良県天理市、長崎県雲仙市など、全国的に存在します。


2位 勝山城

「勝山城」は、山梨県都留市と甲府市や、新潟県糸魚川市など、これも全国的にかなり多いです。別名として持っている城も結構ありました。文字面的に、「」が入っているので、戦国時代には好まれたのかな、と勝手に推測。



1位 茶臼山城

堂々の一位は、「茶臼山城」です。

これを予想できた人は果たしているのでしょうか。もし当てた方はすでに神の領域アップです。

ちなみに、わたくしは“予想だに”していませんでした汗


しかも、「茶臼山城」は2位との差もかなり開いていて、ダントツです。この不思議な結果にいろいろと調べてみると…


日本の山で一番多い名前が「丸山」(出たっ、丸山。やっぱり)とされているものの、実際には「茶臼山」が圧倒的に多いとか。


で、なんで「茶臼」なのかというと、茶臼は「引きでは落ちず」に、「敵を粉にする」ので、その縁起の良さが多くの武将に好まれる理由だったようで。他にも、形が「茶臼」に似ているから、という説も。


ともかく(強引にまとめに入ります)、全国的にかなりの数の「茶臼山城」がありました。

大坂の冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が本陣を置いたのも、「茶臼山」なのです。



今回のランキング、お楽しみ頂けましたでしょうか。

またランキングものは、良いネタがありましたらお届けしますビックリマーク

ひっそりマイナーチェンジ(城の写真)

突然ですが、各お城の写真機能についてマイナーチェンジがちょこちょこ行われていますので、ご報告を音譜


まずは、実は城に対してアップされている写真が1枚しかない場合、削除できないという不便さがありましたので、これを解消しましたひらめき電球

これで、自分でアップした写真なら、どれでも削除することができるようになりました。


今までにアップした写真で、「カメラ写真を差し替えたい!」というものがありましたら、いつでも削除&再アップ可能ですので、お試し下さいませ。


また、これは以前にもブログで書きましたお願いなのですが、残念ながらシステムが自動的に写真の「タテ」「ヨコ」の構図を判断することができません汗ので、「アップしたら写真が横向きになってたっビックリマーク」という方は、ぜひ削除&再アップをして頂けると非常に嬉しいのです。


携帯新しめのケータイなら、撮った写真をデータフォルダ上で、「切り出し」や「回転」などの編集ができると思います。


あと、城郭詳細ページで表示される、お城の写真一覧(フォトギャラリー)で表示される写真を、オリジナルのサイズ(=撮影されたままのサイズ)で表示するようにしました。


これまでは、アップされた大きさにかかわらず、画面ぴったりに表示していましたが、拡大されて結構ぼんやりしてしまっていたケースがあったので、「画面サイズより大きかった場合のみ縮小」して、画面サイズ以下の場合は、そのまま表示しています。


サイズとしては、ヨコ240ピクセルのいわゆる「壁紙モード」で撮影頂いた大きさだと、ほとんどの場合ぴったりになるかと思います。


今回は、あつかましいお願いあせるばかりしてしまいましたが、写真をアップすることで獲得できる異名もあるというもありますので、ぜひ自慢の一枚をアップして頂ければと思います

『官位』ついにスタート!!

またまた遅くなってしまいまして申し訳ございませんあせる

さきほど、官位機能がスタートしました。


これまでに獲得条件を満たしている方は、TOPページに官位●個と表示されていると思います。


前にブログでもご説明した通り、官位には2種類あります。


1つは、単純な攻略城数に応じて得られる官位です。挙げればキリがないですが、個人的には、「宮内少輔」なんかが気に入ってます。長宗我部盛親ファンなので。

(といっても、獲得まではまだまだ道のり遠いですが汗


2つめは、地域制覇ごとに得られる官位です。「●●守」というやつですね。

旧国名に従って設定されていますので、少ない城の数で得られる官位もあれば、かなり難易度の高い官位もあります。


こちらは、個人的にいろいろ欲しいところですが、今のところわたくし0個でしたー。

すぐ欲しいので「志摩」に旅行行こうかな…。


ということで、ついに始まってしまいましたが、異名の時と同じく、リクエストなどありましたら、バシバシお送り下さいませ!!

官位と殿堂

いよいよあさって、官位機能がはじまりますね。すごくコアな機能なので、受け入れられるのかが不安汗になってきました、今さらながら…。


当然、異名の時もそうでしたが、テキトーな内容でスタートするのが嫌だったので、ここ一ヶ月くらい、歴史の本をひっくり返したり、図書館に忍び込んだり手裏剣と、改めて官位について調べましたが、おかげさまで、官位についてだいぶ詳しくなってしまいました。


この知識、果たして今後の人生で活かせるシーンがあるのでしょうかはてなマーク履歴書に書けるかな...。


さて、先月末のブログで、異名と官位のおまけ機能として告知しました「殿堂(仮)」機能ですが、ちょっとスタートを保留させて頂くことになりました。


期待して頂いていた方申し訳ございませんあせる


というのも、「殿堂」機能は、各ランキング1位の方が殿堂入りするというものですが、すでに異名でもランキング1位の方がGETできる異名があったりと、重複する部分があるため、少し見直しすることになったのです。


その分、前回のブログでも書きましたマイナー改善だったり、新しい機能の開発などを先に進めていきます。


とはいえ、なくなったわけではありませんし、過去のランキングデータが消えてしまうわけではありませんので、ご安心下さいませ。


今回は言い訳じみたブログですいませんでしたm(_ _ )m

これからも新機能情報をお届けして参りますので、ご期待頂ければと思います。

マイナーなお知らせと異名ヒント

すでにお気付きの方もいらっしゃると思いますが、ゲーム内をちょこちょこマイナーチェンジしてます。


マイナーチェンジと言っても、主に使い勝手の改善説明の追加という地味あせるなものですが。


先日のアンケートでさまざまなご意見を頂きましたが、大きめの機能追加は十分検討するとして、とりあえず「すぐできることはすぐやろう」という信長ばりの行動力で取り組むことになったのです。


特に異名や官位の追加で、シンプルがウリだった(ただ機能が少なかっただけという話も汗)城めぐりが徐々にややこしくなってきたので、細かい部分のクオリティを高めて、使いやすくしたいと思った次第です。


なので、「何か知らん間にリンクが増えてるよっ」みたいなことがちょくちょく発生すると思いますが、少しの間お付き合い下さいませ。


宝石ブルー例えば…】

城攻めした後のページで、現在地周辺にある城の写真と情報が出ていましたが、「この地点にある城」というリンクが押せるようになりました。それをクリックすると、城攻めした現在地から直近5城の地図が見れるようになりました。



ところで、異名についてですが、伝言板など見させて頂いておりますと、順調に獲得条件が暴かれていっています(笑)


以前のブログ で、たまに獲得条件のヒントをリークしていきます的なことを書きましたので、今日はひとつヒントを。


現在、異名の詳細を見ると、その異名を持っている人の数がでますが、実はまだ誰も獲得していない異名があるのですひらめき電球


いくつかあるのですが、そのうちのひとつは「経過日数」に関係しているとか。

これについては、過去の実績は関係なく、異名機能が始まってからのカウントになりますので、あともう少しで獲得する人が出てくるはずです。


獲得のポイントはズバリ、「毎日の位置登録」です。


で、これ以上言ってしまうと、また赤壁の黄蓋よりひどい棒叩きの刑にあってしまうので(三国志の話です…)、今日はこのあたりでビックリマーク

関ヶ原

本日9月15日は、旧暦で関ヶ原の戦いが行われた日です。

(そういえば、9月1日のブログ で書いた現代の関ヶ原は西軍?の勝利に終わりましたね。史実と違って裏切り・傍観もなく…)


関ヶ原の戦いについては、今年はちょうど410周年にあたり、関ケ原町(岐阜県)でも「関ケ原合戦410年祭」が開催されます。

ひらめき電球マメ知識

関ケ原町は「関ヶ原町」ではなく「関ケ原町」という表記が正しいそうです。え、一緒じゃん(-_-メ と思った方。

正しいほうは、「」が大きいのです目


ところでわたくし、先日関ケ原町が東京で行った「関ケ原合戦410年祭」のキャンペーンイベントへ、別のサイトの取材(という名目という噂も耳)で行って参りました。


新宿の戦国居酒屋「大河の舞」というところで行われたのですが、店内は戦国ファン(密偵からの報告によると、ほとんどが西軍ファンらしい)で埋め尽くされてました。


通常は飲食店なのですが、その中のテーブルや個室や座敷が、イベントスペースや物販スペースに生まれ変わりイベントを演出。トークショーやライブまであり、短い時間に戦国が凝縮されてました。


キャンペーンイベントのレポートはこちら (PCのみ)でチェックできますので、ご興味あれば見てみて下さい。


そして祭りの本番は10月16日&17日です。

天下分け目の戦いに挑みたい方はぜひ現地を訪れてみて下さい。


あ、ちなみに、関ケ原周辺だと城めぐりで大垣城垂井城など攻略できますので、そちらの攻略もお忘れなくビックリマーク

【籠城戦】信玄が見せた非情な戦い

9月になったというのに暑いです晴れカエル


こんなに暑いと、涼しくなったら行こうと思っていたリアル城めぐりもなかなか実現しません。




この前テレビを見ていたら稲川淳二が出ていましたが、まだまだそんな季節なのです。




稲川淳二と言えば怖い話オバケ。怖い話といえば、凄惨な籠城戦。


と、強引に持ってきましたが、実際、心霊スポットで有名なところが城跡だったりするんですね、これが。




ということで、今回は武田信玄に攻められて落城してしまった、「志賀城の戦い」(長野県)をピックアップです。


(志賀城が心霊スポット、というわけではありませんのであせる




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信玄が見せた非情な戦い


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父である信虎を追放し、甲斐を統一した武田信玄(当時晴信)は、信濃へ触手を伸ばした。


諏訪や伊那地方に侵攻し、徐々に支配地域を拡げていた信玄だが、在地性の高い信濃の小領主たちの反発を招き、特に武田領と接する佐久地方においては反武田の色が濃くなりつつあった。




1546年、南佐久の内山城に籠もった大井貞清を攻め降した信玄だったが、北佐久では志賀城に拠る笠原清繁が徹底抗戦の構えを示していた。




清繁が日の出の勢いの信玄相手に屈しなかったのは、信濃の豪族としての誇りもあったであろうが、佐久という土地柄も関連している。




佐久は、信濃でありながら上野国と接しており、碓氷峠を越えればそこは西上野である。


上野では、衰えたとはいえ、関東管領である上杉憲政がいまだ強い影響力を保持している。




信玄の西上野への侵攻を防ぐ意味でも、清繁は防波堤の役割を担っており、憲政からの十分な支援が期待できるという打算があったのである。


事実、憲政は清繁と縁戚とも言われる家臣の高田憲頼を志賀城へ入れ、防御を固めている。




1547年閏7月、信玄は城を包囲するとすぐさま水の手を断つことに成功し、清繁は早くも窮地に立たされたかに見えた。




この窮状に対して憲政は、家臣の金井秀景を総大将とする3000とも言われる後詰めを増派してきた。




援軍迫るの報に接した信玄は、挟み撃ちにされることを避けるため、後詰めを先に叩くことを決定。


2000の兵で城を監視したまま、残る5000の兵を重臣である板垣信方、甘利虎泰らに指揮させ迎撃に向かわせた。




両軍は、浅間山麓の小田井原で激突。


小田井原の戦いと呼ばれるこの戦いでは、戦さ巧者の板垣、甘利に率いられた武田軍が、その兵力差もあって上杉勢を圧倒。一方的な勝利を収め、数多の将兵を討ち取った。




後詰め軍が壊滅し、救援の望みを絶たれた志賀城に向け、信玄は誰もが予想しなかった行動を取る。


小田井原で討ち取った首300ほどを、城の周りを取り囲むように並べさせたのである。




この地獄のような光景に、籠城兵は完全に士気を阻喪する者、狂乱して城外へ出撃し討たれる者などが続出、ほどなくして行われた武田軍の総攻撃によって落城。城主清繁以下、多数の兵が討ち取られた。




しかし、志賀城の悲劇はこれで終わりではなかった。




信玄は城内に残った女子供を全て生け捕りとし、本拠である甲府へ運ばせた。


彼女たちは褒美として家臣へ与えられ、残った者は人身売買にかけられ、各地へと売り飛ばされたのである。




夫や子供を失った上に捕虜となった女性達の悲痛な声が聞こえてくるようだが、これも戦国の世の厳しさであり、信玄が今後信濃を支配していく上での非情な決意の表れでもあったのである。




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情景を想像するだけでもおぞましいドクロです。


温厚なイメージを持つ武田信玄の意外な一面でした。