The life is time killing till I die. -129ページ目

花火

星空が堪能できるはずの田舎も、昨日は曇りがちで、雲間からちらちら顔を覗かせるだけ。

しかし昨日、夜空を彩るのは星ではなく、花火。


花火3 花火2

花火1 花火4


携帯で撮ったから、不鮮明だけど。


小千谷市は3尺玉の発祥の地。

たしか明治24年だったかに3尺玉を打ち上げたという記録が残っている。


で、今では日本最大の4尺玉が打ち上がる。

尺が大きくなるにつれて、打ち上げることが難しくなる。

過去には真上に飛ばず、地上で破裂したこともあったらしい。


ちなみに右下の写真が4尺玉。

まず東京では3尺玉でさえもお目にかかれない。


4尺玉が開くと、本当にこれでもかというくらい視界一面に花が広がる。

そして数秒後に空気が振動し、大地が揺らぐほどの爆音が轟く。

その音圧を身体にひしひしと感じながら、空一面に広がるたった一発の大輪を目に焼き付ける。

それが地元の夏の終わりの風物詩。


それと、右上の写真は尺玉の80連発。

といっても写真ではわからないけど、引切り無しに上がる尺玉も、壮観だ。

煙火部の腕の見せ所。

数分間続くその瞬間、おそらくここは日本で一番美しい場所だと思う。


しかし今年は昨年の地震の影響か、以前ほど多く花火が上がらなかったような気がした。

確かに、小千谷市は相当被害を受けていた。

会場に行く途中の道路の電柱は、傾いているままだ。

道路も至る所で工事が行われているし、補修された道も、段差が激しくてスピードが出せない。

まだまだ元に戻るには時間がかかりそうだ。


なんといっても小千谷市は、土砂崩れで親子が生き埋めになったところだ。

それ以外にも何人も犠牲者が出ている。


今年の花火大会は、復興祈願とともに、犠牲者への鎮魂の願いも込められているようだった。


打ち上げられた花火は、夜空を照らし、そして散り、役目を終える。

そんな一面もある。

田舎

昨日は、帰省する新幹線の中、柄にも無く読書とかしながら暇を持て余しつつ、携帯でブログを書いていた。

台風一過の実家は、予想に反して肌寒く、Tシャツしか持ってきていない僕は失敗したと思った。

が、今日は暑い。


昨日の続きでいえば、田舎のコミュニケーションは本当に面倒くさい。

なぜなら、人に流動性がなく、ほぼ完全に固定されてしまうし、基本的にコミュニティが狭すぎる。

そのため、人の噂は縦横無尽に行き交うし、嫌悪感を抱いている人でも容易に遭遇する。


今年うちの町は隣の市と合併した。

公務員の親父は、気がつけば町役場から市役所へ、そして市役所には僕の兄の彼女の親父さんも働いている。

兄も今、小学校の先生をしているが、避難訓練にくる消防署員が中学校の同級生だったり、入学式の父兄に高校の同級生がいたり、授業参観にいつも行くガソリンスタンドの人がいたりと、まぁそんな有様だ。


狭い地域で固定された住民だから、良くも悪くも繋がりが深くなるってこと。


で、家に着いたら案の定、夕餉を摂りながら就職の話。

ジワジワと、プレッシャーがかけられる。

まさに一ノ倉のスッポンディフェンス。

自分の中でも禅問答的に繰り返し自問自答を繰り返してきたのに、今更周囲から言われると、心苦しい。

周囲から発せられるすべての発言が、もう既に自分の中でも出てきている。


ま、これも予想していたことだ。


それより、この余暇をどう過ごそうか、それが問題だ。

周りには何も無いくせに、時間だけは有り余っている。

久しぶりに自然に囲まれているのは気分がいいが、何処に出かけるあてもない。


一応夜には、近くの花火大会に行こうと思っている。

今年初めての花火大会。

2日間で1万5000発、そして日本最大の花火が打ちあがる。

この花火が大好きで、帰省したようなもんだ。


気分的には市の図書館いっていろいろ本を散策するのもいいかなって思っている。

うちの街には珍しい近代建築だったりするし、蔵書も多く、机や椅子、ベンチがいっぱいあるから。

といっても机は大体受験生に占拠されていて、近寄りがたいオーラに包まれているから使えないが。


あと、近くのでかい公園(?)にいってぼーっとする。

一面に広がる芝生が、開放感に溢れていて気持ち良い。

それに、うちの街は、大地の芸術祭なる大規模なイベントを過去にやったことがあり、街の至る所にオブジェやらなんやらのアートがある。

それ、見に行くってのもアリ。


特に、建築家のジェームス・タレルが作った光の館は、すげぇ。

エントランスの間接照明、バスルームのブラックライト、そしてなにより、リビングの天井が開閉式になっていて、屋内から星空が堪能できるようになっている。

といっても地震でどうなったのかは知らないが。

宿泊もできるが、確か一泊ン万円した気がする。

光の館

とまぁ、田舎紹介も飽きたから、とりあえず車に乗ってドライブがてらいろんなところに行こう。

接する心

結局のところ、僕自身も多様なコミュニケーションツールを駆使して、他人とコミュニケーションを取っているわけなんだけれどね。

なんだかんだで、昨日も3時間程友達と電話をしてしまった。
話が途切れず、気が付いたら3時間経っていた。
長時間拘束してしまったにも関わらず、下らない僕の話に付き合ってくれて、本当に申し訳ないと思う。
ま、僕の金、基、親の金がドコモに垂れ流されていたわけだが。

コミュニケーションは、人間が持っている言葉や表情が禁止されるほど、相手の心情を察することが出来なくなる。
言葉と一言で言っても、そこには声色、音の高低、テンポ、抑揚といった様々な要素が含まれている。
表情と言ったって、目や目線、口といった筋肉の働きから、色や汗といった代謝機能が、相手の感情を伺う重要な要素だ。

中には巧く演技して、自分の本音を探られまいとする人もいるだろうが、幾分か演技の雰囲気を感じ取ることが出来るし、むしろ演じているということは、表面に出ている考えとは逆であると示しているに他ならないのでは?と思うが。

相手の思いを察するその点で、電話は、まだ救いがあるなと思った。
目は口ほどにものを言うと言われるように、心情を察するのに一番いい要素は表情や、それに付随する振舞いだと思う。
だが、声にはそれに近いものがある、そう感じた。

少なくとも、視覚的情報のみで構成されるメールとは、大きな隔たりがある。
メールとメールの間には、お互い関与できない不明な時間が存在し、その時間の中で自分の思いを、突発的ではなく、慎重に言葉を選んで表現することができる。
それでどこまで本心か分からなくなる。
それに、絵文字はあれど、表情はない。

そもそも、人間の感情を、十数パターンの顔文字で表現しようってこと自体おこがましい。
んなことが出来るならユングもフロイトも苦労しねえっての。

でも、電話は受話器を通して相手と同じ時間を共有しているし、一言一言の早さ、高低、抑揚、それに息遣いで気持ちを読み取ることができる。
地理的に同じ場ではないにしても、だ。

ただ現代の人間は人付き合いが苦手と言われている。
当たり前のはずの、コミュニケーション能力が、面接で重きを置かれているほどだからな。

確かに、僕もよく独りきりでいたくなるし、接することが億劫になることもある。

が、人が人と直接関わっていけるうちが大切、相手を思いやる気持ちがあるうちが大切、だと思う。

将来、完全に人と接することなく生活できるようになれば、とりあえず犯罪は増えるだろうな。
下手すりゃ戦争にもなりかねん。

コミュニケーション

自分自身の停滞期やバイオリズムの上下は分かっても、他人のこととなると千差万別だ。
極端なほど浮き沈みが手に取るようにわかる人もいれば、他人と接するときには空元気で弱い部分を見せまいとする人もいる。

後者のような人は、(自分も後者だが)状態を判断するのが非常に困難だ。
ましてや、他人と直に接することのない、例えばメールのような場合は尚更だ。
気の遣いようがない。
しかし何気ない一言が相手を傷つけかねないように、何気ない一文が相手を傷つけかねない。

どんなにヴァーチャルな世界でも、行き着く先は人と人なんだなということに今更気付く。
ま、ヴァーチャルな世界だからIT企業は好きじゃないと言ったけど、その気持ちは変わりませんが。

関連して、表現の難しさっつのもある。
自分では何気ない言葉であっても、受け取り手にとっては気分を害してしまうこともある。
一つの単語(物事)に対して、人が持つ印象が完全に一致することはない。
印象でいえば、すべての物事は限りなく球体に近い多面体だ。

それでも自分の近くに位置する面であれば救われる。
逆に正反対なら、そうと気付かずにうっかり出してしまえば相手の逆鱗に触れるかもしれない。

ヴァーチャルであるからこそ、相手の表情が伺えない。
その事実が恐い。

最終的に世の中の関わりはすべて人と人であること、しかし面と向かうことがない場合があること、そして面と向かうことがないとあまり相手を気遣わないこと、それでも人はそのアクションに対して明らかに喜怒哀楽を持っていること、またそれに気付かないこと、それが人と接することを不安にさせる。
得てして人付き合いは難しい。

コミュニケーションツールが増えたからこそ不安は募り、難しくさせる。

手痛い停滞

僕自身、これまでに死にたいと思ったことはないと言えば嘘になる。
今では大分マシになったけど、昔は相当ネガティブな思考を持っていたからね。

親に怒られたりしたときなんかは、自分は親に愛されてないとか思ったし、生きる意味なんてないと思った。
でも怒ってくれること、それこそが愛だ、なんてことは言葉ではわかってるつもり。
ま、あまり実感したことはないけど。
薄情と思われても、やっぱりそうだし。

んー、どうも僕は、心底人を信頼してないらしい。
誰しもが、心のどこかで欲を持ってるし、結局一番可愛いのは自分自身だと思うから。
いざとなれば時間をかけて築かれた友情なんて一瞬で失われるもんだと思っている。
少なくとも僕自身はそういう面を持ってるから、そういう考えに至っている。

それでも僕は人から信頼されたいという欲を持っている。
完全に人を信頼していない自分がこんなことを言うのはちゃんちゃら可笑しい話であることは自覚している。
分かっていても、僕はそう思う。

そこで、他人を心の底から信頼していないで他人からの信頼を得たいと思っている僕は、僕なりのスタンスを考えた。

信頼しない代わりに、相手を裏切らないというスタンス。

おそらくこれは一見うまくいっている。
が、深い部分ではどこまで繋がっているんだろうか、とも思う。

そして、そのスタンスが、相手に合わせることを生み出し、自己主張を弱くした。
相手の顔色をうかがってばかり。
イエスマンと言われても、正面から否定はできない。

それで最近本当の自分が分からなくなったりする。
で、リセットする意味で死にたいと思うこともあった。

とはいっても、死にたいって軽々しく思うような人間は、死なない。
死ぬ勇気もないから。

ただ、今は停滞期なんだと思う。
んな常にバリバリ絶好調なんて人間はいないんだから。

停滞期だから、今度半年ぶりに実家に帰ることにした。
自分を見つめなおすいい機会だと思って。