ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』 | 文学どうでしょう

文学どうでしょう

立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

ユリシーズ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)/ジェイムズ・ジョイス

¥1,200
Amazon.co.jp

ジェイムズ・ジョイス(丸谷才一他訳)『ユリシーズ』(全4巻、集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読みました。Amazonのリンクは1巻だけ貼っておきます。

『ユリシーズ』と聞いて、おそらく2つの反応があるのではないかと思います。初めて聞いたなあという人と、いつか絶対に読みたいと思っている人。『ユリシーズ』というのは、プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀を代表する世界文学の金字塔です。

なので、少しでも文学をかじってる人は、いつか読んでみたいと思っているはずです。特に〈意識の流れ〉という技法が使われているというので、興味津々の方も多いだろうと思います。

『ユリシーズ』がどういう話かを簡単に言うとですね、アイルランドのダブリンを舞台に、ある1日の出来事を描いた小説です。1904年6月16日の出来事。朝に始まり、夜に終わります。

『ユリシーズ』はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』が下敷きになっています。『オデュッセイア』というのは、トロイア戦争の後、英雄オデュッセウスが様々な苦労を超えて、家に帰ろうとする物語です。また近い内に読み直そうと思っているので、その内詳しく紹介できるかもしれません。

オデュッセウス、父親を探すその息子テレマコス、行方しれずの夫に操を立てている妻ペネロペイア。この3人の人物が、『ユリシーズ』では形を変えて、3人の主要人物になっています。

オデュッセウスとペネロペイアに対応するのが、ブルーム夫妻。レオポルド・ブルームとマリアン・ブルーム。マリアン・ブルームは物語では愛称のモリーと書かれます。

息子テレマコスに対応するのが、スティーヴン・ディーダラス。『ユリシーズ』の中では、ブルームとスティーヴンの間に血縁関係はなく、2人の主人公といった方がしっくりくるかもしれません。

『ユリシーズ』は、第1部ではスティーヴンの物語、第2部ではブルームの物語が別々に描かれていきます。2人は出会いそうでなかなか出会いません。第2部の後半で2人が出会うと、幻想的な叙事詩の世界のような感じになります。第3部はそこを抜け出したスティーヴンとブルームの対話が中心になり、物語の最後はマリアンの独白というか、〈意識の流れ〉が書かれて終わります。

ブルームはずっと、自分の妻のモリーが浮気をしているんじゃないかと考え続けます。つまり『オデュッセイア』では貞淑な妻だったペネロペイアが、『ユリシーズ』では貞淑な妻ではないという設定かもしれないわけです。そしてなにより面白い部分は、『オデュッセイア』のオデュッセウスは英雄ですが、ブルームは一般人ということです。

『ユリシーズ』は性的なもののイメージを多く扱っているということもありますが、ブルームは一般人というよりむしろ、ちょっと変態っぽいところがありますね。「13 ナウシカア」はわりと読みやすい章ですが、海岸で少女を見ながら自慰行為をする場面があります。おいおいおい!

ブルームの脳裏にあるのは、自分がユダヤ人であるということ、父親が自殺をしているということ、そして幼くして亡くなってしまった息子ルーディのこと。

あらすじに入る前に少し触れておきたいのは、『ユリシーズ』のなにがそんなに評価されているか、ということです。4巻の解説の中で、池澤夏樹が「『ユリシーズ』の最大の功績は、小説をプロットから解放したことである」(588ページ)と書いているように、『ユリシーズ』の中では、プロットあるいはストーリーは重要ではありません。

その超絶的とも言える文学的技巧が『ユリシーズ』を『ユリシーズ』たらしめているわけで、もうはっきり言ってしまうと、読書として楽しみたい人は、『ユリシーズ』は避けて通ってください。確実に面白いものではないです。

なにしろ訳注がすごくたくさんあって、しかも訳注を読まないと、全く意味が分からないんです。注をじっくり読みながらの読書ほど苦痛のものはないですよ。場所によりますが、文体も難解なものが多く、もうなにがどうしたか分からなくなります。ストーリーは確実に追えないです。

その一方で、いわゆる文学が好きな人、あるいは自分でも小説を書いている人、多少の困難は乗り越えるもんね! という覚悟がある人はぜひ挑戦してみてください。大変ですが、その価値は多いにあります。

超絶技巧としては、かなり興味深いものがあるんです。ヴァージニア・ウルフやフォークナー、あるいはガルシア=マルケスなど、ぶっ飛んだすごさのある作家のルーツはみんなジェイムズ・ジョイスにあると言っても過言ではないです。

ただ、読み直してみて思いましたが、〈意識の流れ〉を知りたいなら、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』の方をおすすめします。そちらの方が分かりやすいですし、『ユリシーズ』は〈意識の流れ〉はあまり使われていないですね。前半のブルームの思考が印象的なくらいでしょうか。

『ユリシーズ』で最も多く使われている技法は、文体模倣だろうと思います。特に「14 太陽神の牛」という章ではそれが顕著で、古代英語から徐々に現代に近づく過程を様々な文体の模倣で描いています。こうした部分は翻訳者泣かせですよね。みなさんだったらどうしますか。少し考えてみてください。

翻訳のアプローチとしては、いくつかの方法があると思います。まずは、そうした古代英語などを気にせず、日本語として読みやすいように訳してしまう方法。たとえば同じ集英社文庫ヘリテージシリーズの『ファウスト』では、詩としての形式を捨てて、読みやすくしていましたよね。

『ユリシーズ』の翻訳者たちがとった方法は、古代英語を古代日本語に対応させる方法です。つまり『古事記』から始まって、『源氏物語』、夏目漱石、宮澤賢治などなどの文体を使って翻訳しています。これはアプローチの仕方としては、なかなかいいのではないかと思います。

もちろん古代英語のものを古代日本語に置き換えることで、また違った意味での読みにくさは出てしまっていますし、本来の意味とは違った印象もプラスされてしまっています。ですが、個人的には正解とは言えないまでも、かなりベターな方法だろうと思います。できれば意味だけとったニュートラルな訳が併録されていれば、もっとよかったとは思います。

作品のあらすじ


作中で使われている、いくつかの技法について触れながら、簡単に物語の流れを追ってみましょう。

第1部、第2部はそれぞれスティーヴンとブルームの朝の行動が描かれていきます。

第1部(「1 テレマコス」「2 ネストル」「3 プロテウス」)の主人公は22歳のスティーヴン・ディーダラス。学校の先生です。詩人でもあるらしく、頭の中で詩の語句について考えたりします。学校に行って授業をして、校長先生と話をします。海辺の道を通りながら、色々なことを考え、新聞社に向かいます。

第2部の前半(「4 カリュプソ」「5 食蓮人たち」「6 ハデス」)の主人公はミスタ・ブルーム。広告取りの仕事をしている中年男。奥さんのモリーのために朝ごはんの支度をします。ミリーという娘がいることや、偽名を使って誰かと文通していることが分かります。知人の葬式に出ます。そこでの周りの対応から、ユダヤ人であること、父親が自殺をしていることが浮き彫りになります。

こうした部分は〈意識の流れ〉の文体なので、読みづらさはあるものの、なんとか読めます。ここの難しさは、一語一語に大きなイメージが重ねあわせられていることです。やはり訳注を参考にして読み進めていくしかないと思いますが、必要以上に気にしないで読んでいくのが吉です。

第2部の後半(「7 アイオロス」「8 ライストリュゴネス族」「9 スキュレとカリュブディス」「10 さまよう岩々」「11 セイレン」)で、ブルームとスティーヴンは新聞社で出会いそうになりますが、出会いません。この辺りは断片的な文体になります。新聞社では様々な議論がなされます。この辺りはブルームもスティーヴンもほとんど姿を消して、様々な人々のことが断片的に紡がれていったりもします。国立図書館やバーでの出来事も描かれます。

「12 キュクロプス」では、よく分かりませんが、〈おれ〉という1人称語り手が突然現れて、酒場での風景が描かれます。

「13 ナウシカア」は上でも少し触れていますが、女性雑誌に載っている小説の文体模倣らしく、わりと読みやすいです。海岸での少女の〈意識の流れ〉が中心になります。ボーイ・フレンドとのこと。ブルームがこの少女を見て自慰を始め、この少女もまた股を広げたりするんです。おいおいおい!

「14 太陽神の牛」では、病院での出産に集まっている人々を描いていますが、上の方でも書いた通り、文体としてすごく凝った難解なものになっています。

「15 キルケ」は戯曲の形式なので、読みやすいですが、書かれている内容がかなり意味不明だったりします。一番読みやすく、一番難しいのがここかもしれません。ゲーテの『ファウスト』に似ている感じです。

出産の場面が終わって、スティーヴンとブルームは一緒に売春宿に行くんですが、幻想が入り込んできて、死んだはずのブルームの父親が出てきたりします。それはいいんですけど、ブルームが女になったりします。そうした様々な人間の変化みたいなものが描かれていて、ちょっとぼくも追いきれない部分がありました。

「16 エウマイオス」では、ブルームとスティーヴンが喫茶店に行き、ブルームは奥さんのモリーの写真をスティーヴンに見せたりします。

「17 イタケ」では、ブルームとスティーヴンがブルームの家に向かうところが、哲学的問答みたいな文体で描かれます。ブルームはモリーに今日起こった出来事の話をします。

「18 ペネロペイア」では、モリーの〈意識の流れ〉が句読点(、と。)もなく、平仮名が多い文体で延々続きます。夫であるブルームと出会う前、ブルームのこと、そして他の男性のことが思いつくままに書かれていき、物語を全体的に包み込む構成になっています。つまり、ブルームが見てきたもの、考えてきたことが、モリーの意識の中でもう一度とらえなおされるということです。

こうしてオデュッセウスの長い長い旅と同じ構造を持った、ダブリンの一日である『ユリシーズ』は幕を閉じます。

最後に『ユリシーズ』にいつか挑戦したいと思っている方に。

『ユリシーズ』を読む前に、ある程度の知識があるに越したことはありません。スティーヴンというのは、ジェイムズ・ジョイスの『若い芸術家の肖像』の主人公ですし、『ユリシーズ』に登場してくる様々な脇役たちは、『ダブリナーズ』という短編集との関わりが強いです。

そして『オデュッセイア』はもちろん、それだけにとどまらない幅広いギリシャ神話、聖書、アイルランドの歴史など、様々な知識が必要になります。ハードルはかなり高いです。

でも、ぼくはそうした知識をつけてから『ユリシーズ』に挑んだ方がいいと言いたいわけではないんですよ、実は。『ユリシーズ』はそうした参考資料を手元に置きながら、何度も何度も繰り返して読むことのできる本だろうとは思います。暗号解読のように。

でもそれってもうある意味無理なんですよ。そんなにたくさん知識をつけるのなんて無理無理。諦めましょう。いつまでたっても『ユリシーズ』が読めるようになる準備なんて整いません。なので、思い立ったらもう読み始めちゃいましょうよ。

『ユリシーズ』が難解であるというのは、ある意味においてラッキーなことで、この小説は誰かは分かって、自分には分からないという本ではなくて、おそらく誰にとっても難解さが残り続ける本なわけです。それならもういっそ開き直って、分からないままに読んでいけばいいんですよ。

いったん腹をくくって読み始めたら、意外となんとかなります。ほんとです。もう最初から読めない本だろうということで、章ごとに要約と登場人物、使われている様々な技法が載っています。親切ですねえ。

それを参照しながら読んでいけば、時間はかかっても物語からおいていかれることはないです。そもそもストーリーらしいストーリーなんてないので、大丈夫です。

訳注も多いですし、途中で本読んでるんだか暗号解読してるんだか分からなくなって茫然とすることもあるだろうと思います。それでもやっぱり、読むことに価値がある本ですよ。

いつか、ではなく思い立ったらすぐに読み始めてください。きっと大丈夫です。忘れられない読書体験になるであろう小説です。

おすすめの関連作品


リンクとして映画を3つ紹介します。

『オデュッセイア』を下敷きに、囚人が脱獄するという映画があります。コーエン兄弟監督の『オー・ブラザー!』です。音楽もすごく印象的です。

オー・ブラザー! [DVD]/ジョージ・クルーニー,ジョン・タトゥーロ,ティム・ブレイク・ネルソン

¥3,990
Amazon.co.jp

コーエン兄弟監督は、独特のコメディセンスがある映画監督で、いわゆるコメディの形式はとっていないですし、あははと笑える感じでもないんですが、静かなカットの中に奇妙でブラックな笑いの要素があります。ちょっと不思議な感覚の映画監督です。機会があればぜひぜひ。

『オデュッセイア』からは少し離れますが、同じく囚人の脱獄ものと言ったら、ジム・ジャームッシュ監督の『ダウン・バイ・ロー』も印象的です。

ダウン・バイ・ロー [DVD]/トム・ウェイツ,ジョン・ルーリー,ロベルト・ベニーニ

¥1,890
Amazon.co.jp

『ダウン・バイ・ロー』と『オー・ブラザー!』は似たような部分があります。でも実は『ダウン・バイ・ロー』がおすすめなのではなく、ジム・ジャームッシュ監督で一番のおすすめは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』です。

ストレンジャー・ザン・パラダイス [DVD]/ジョン・ルーリー,エスター・バリント,リチャード・エドソン

¥1,890
Amazon.co.jp

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は今みても新鮮な感じがします。登場人物は3人くらいと少ないですし、カメラはほとんど動かない。いわゆる大作とは真逆の映画です。でもそれだけに、映画の面白さが詰まった映画の気がするんです。

ぼくはいつも小説の映像化で失われてしまうもののことを考えます。ところがこの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、文章にしてしまうと失われてしまうなにかが確実にあります。機会があればぜひ観てみてください。おすすめの映画です。

明日は夏目漱石の『草枕』を紹介する予定です。