『知性の構造』・解釈学の歩み | くらえもんの気ままに独り言

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 牛歩の如きペースでお送りしております『知性の構造』のまとめシリーズですが、今回で第5回目になります。本シリーズ未見の方は過去のエントリーも参考にされてください。


第1回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11852064051.html

第2回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11855187261.html

第3回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11857103522.html

第4回http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11858974746.html


今までのまとめ

・知識人が腐ってきている、このままではヤバイ

・人間は真理を追究するようにできており、それを紡ぎ出すのが「言葉」

・真理の追及には信仰・懐疑・感情・論理のバランスが大事

・いかなる表現も仮説である

・仮説は棄却されにくいが、真理をつかむための方策があるはず

・真理に到達するには総合知が必要


 それでは、本編スタートです。


第四章『解釈学の歩み』


「仮説形成においてこそ思想が大切である―

だが、思想は直感によって代位されてしまっている。(P80)」


 人間・社会に関する言説において、仮説―検証の際に異なる諸仮説の優劣を判断するのが困難であることは第3回で述べましたが、それではどうすればよいのか。


 それには仮説の形成(前提の置き方)において、経験的事実とのつながりを密にすべきであるとのこと。まぁ、あり得ない前提をおいたところで現実の問題に対処することはできないということですね。


 しかし、実際には仮説の形成は表現者の直観によって定まるとされてきたのです。いや、それじゃあ経験的事実とのつながりを失ってしまうじゃないかというのが西部先生の言い分なわけです。


 さて、この仮説形成の際に力を発揮するのが第4回で触れられた「総合知」(つまり「思想」)の力なのです。


 種々の言説において、それぞれ前提の置き方が違う(たとえば、主流派経済学、ケインズ経済学、マルクス経済学など、それぞれにおいて設定される前提は変わってくる)のですが、どの前提の置き方が妥当であるかを検証していこうというわけなのです。


 というわけである前提Aを設定しました。そこで、その前提Aの前提となる超前提A´を設定するわけです。そして、超前提A´からどのように命題A(つまり前提A)が実証され、その命題A(つまり前提A)が経験的事実に適合するかを検証するというわけです。この作業もってどの前提がより経験的事実に適合するかを比較すというわけですね。


 ちなみに超前提A´を置いたら、その前提となる超々前提A´´を置くというように、ずっと繰り返していくと、徐々に前提と経験的事実が接近し、真理へと近づくことができるようです。


 また、西部先生は「説明」「解釈」の違いも述べられていますが、「説明」は様々な前提があるということを想定しないで特定の側面についてのみ取り出すのに対し、「解釈」は多様な前提があり、どのように連関しているかを考察することを指しているようです。


 そして、解釈という作業に必要なのが第4回で述べた学際的および超学的な総合知になるというわけです。多様な前提の連関を考察しようとするならば専門主義に走っていては手が出ませんからね(;^_^A


 解釈によっ人々が日常的に使っている言葉の物語と知識人が蓄積させてきた論理的な言葉の歴史が総合化されていくというわけなのですが、解釈を行う際、言葉の意味をずっとたどっていくと最後には伝統と呼ばれるものに行き当たるわけです。つまり、ある解釈に行き当たったとき、その解釈のための前提があり、その前提のための前提があり・・・というわけで、最後は伝統と呼ばれるものに辿り着くということです.


 そう考えると解釈者は保守的に説明者は革新的に傾きやすいというわけですね。


 さて、ここで例によって本章のハイライトを図で示してみます。


解釈学の歩み

 日常言語と科学言語、つまり経験的事実と前提の歩みよりが必要で、日常言語に傾きすぎると、自己限定・日常的イデオロギーに陥り、科学言語に傾きすぎると訓詁学・科学的イデオロギーに陥るということ、そして説明の方に傾くと仮説の優劣が付けられず真理にたどり着けないため、解釈の方へ日常言語・科学言語の接近によって向かうことで真理へと近づこうというわけですね。


 しかし、西部先生曰く、現代では上図の左半分が絶滅しかかっているとのこと。それだから、右半分の革新的なものが保守的なんて見られたりしてしまうと。


 表現をするということが生きるということであるならば、それはすなわち解釈するということが生きるということと言えそうです。


本日のまとめ

 言葉には様々な前提があり、それらを総合知によって前提と経験的事実の結びつきを強くしていくことが解釈であり生きるということである (合ってるかな?)


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(参考)

本エントリーに関連して以前デフレーションという言葉に対する解釈に関する考察を試みました

デフレーションの解釈

http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11872129899.html



くらえもんが至高のギャグマンガ「ドラえもん」を独自の視点でおもしろおかしく解説!興味のある方は下記のエントリーにまとめを作っていますので是非ご覧ください。