『知性の構造』・学問における危機の正体 | くらえもんの気ままに独り言

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 今回は『知性の構造』の第3回になります。

 いやぁ、結構分かりやすく書こうとは思っているのですが、どうしても難しくなってしまいますね(;^_^A。


 前回は人間は真理を追い求め続けなければ生きていけないということと、真理に近づくには懐疑・信仰・感情・合理の4つの要素のバランスが重要だということを書きました。それでは、今回はどういう話になるのでしょうか。まとめていきたいと思います。


 ちなみに『デフレーションの解釈』のエントリーで口酸っぱく前提の問題を取り上げたのも本エントリーと大きく関わってきております。


第二章『学問における危機の正体』


「どんな仮説も棄却されない―

だからといって何を主張してもいいというものではない。(P44)」


 いかなる表現も「前提―推論―結論」という論理構造を有しているので、その本質において仮説であるとのこと。本書の例で言えば「あの花は橙色である」という表現すらも前提があって推論があって結論に至るという意味で仮説であるとのこと。(ちなみに本書での表現・仮説というものは経験的事実に関するものに限定されています。)


 仮説をたてるには、まず前提が必要です。


 前提にもいくつか種類があります。

公理:最も抽象性及び一般性・普遍性が高い。(例:人間は合理的に行動する)

公準:公理と仮定の中間。(例:市場は競争的である。)

仮定:最も具体性及び特殊性・可変性が高い。(例:材は消費財と投資財から成る)


 前提はその人その人で違うものを持っているが、公理は多くの人が持っていて、まぁこれは譲れないだろうと、また、仮定は個々人で違うものを持っていて、意思疎通を円滑にするために譲ることもあるものになりそうです。


 ちなみに公理に含まれるように公準が設定され、公準に含まれるように仮定が設定されることによって、そこそこツジツマの合った前提がようやく出来上がります。


 前提が設定される際には、まず関心ある事実についての感情が存在し、その感情によって前提というものが示唆されるわけですね。(なんか、うまく表現できないな(;^_^A)


 前提が決まったら、感情に誘導されるようにして、当初、検証を予定していた命題へと向かって推論が行われていきます(演繹)。が、その際、派生して色々な命題が派生していきますので、それを除いて当初の命題を導くためには論理的(数学的)な思考過程が必要となってきます。


 さて、経験的事実に基づく感情によって前提が示唆され、その前提をもとにとある命題が実証されました。あとはこの命題が経験的事実に合致するかどうかを検証しなくてはなりません。


 しかし、この作業が難しい!


 言葉・表現とは真理へ近づくための仮説という話を前回しましたが、この検証の意義はそれぞれの仮説優劣をつけるためのものであるからです。

 

 色んな仮説があって、あぁその仮説もいいですね。その仮説も正しいですね。で終わっては、真理へ近づけないわけです。こうなってしまっては言葉・表現の意味がなくなってしまい、狂信・打算・衝動でもってしか言葉を使うことができなくなってしまいます。いやぁ精神衛生上よくないですね。


 ある仮説真理であるという確証を得るのは現実社会において不可能なので、明確な反証がない限りはその仮説疑似真理とするのですが、たとえ反証があがったとしても、統計的に許される範囲ならば反証とはみなさないのがルールになっています。そうすると、こちらも統計的には正しい、こちらも統計的には正しいという感じになって、どちらの仮説がより真理に近いかを判断するのが難しくなるのです。


 そういった事態に陥る原因として

過剰な単純化:モデルを単純化し過ぎて全体像が見えなくなる

観念の固定:単純化を妥当な範囲を超えて施す(MF効果は貨幣需給が逼迫していなくても現れる的なものでしょうかね)

分業体制:それぞれの仮説前提が異なるので比較しようがない

経験的事実がどのようなものか仮説検証されるまで分からない

ということを挙げられています。


 そこで最初の引用にあるように経験的事実はどんなものか分からない、どんな仮説を言っても反証されないとなると、言いたい放題を決め込んでも構わないということになってしまう。結果、理論と現実が大幅に乖離していくことになるというのです。


 それを許してしまったら、結局真理への追究への道は閉ざされ、社会は堕落していくのみとなっていってしまうのではないでしょうか。


 ちなみに本章のハイライトを図でまとめると↓のようになります。


 

 経験的事実から発生した感情をもとに前提が置かれ、論理的に命題を実証し、それが経験的事実に合致するかを検証するという作業が表現であり、真理に近づくための仮説であるわけですが、仮説演繹は論理的に確かなものであるのに対し、仮説形成・仮説検証は不確かなものであるということが、理論と現実の乖離を生み出すということなのかもしれません。


 しかし、どんな仮説も棄却されない―だからといって何を主張してもいいというのを許してよおいわけではなく、棄却されるべき仮説もあるはず。


 では、どうすれば棄却すべき仮説を排除するための基準が見つかるのか?


 というわけで、次回に続きます。


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