アラスカとカナダ北部のユーコン テリトリーの地図。マークしてあるのが私自身が過去に仕事や出稼ぎに、そして今回のトラックキャンパーで行った町。
1969年夏アメリカ2年目の学生だった私め、夏 アラスカへ行けば金になる、、という話を聞いた。そこで、よしオレもアラスカへ行って金を稼ごう、、と計画して6月上旬ここサンフランシスコからグレイハウンドバスに乗って、まずシアトルを目指した。そこから船に乗って、ケチカン、ジュノー、などの港町で仕事を探しながら、アンカレッジを目指して、仕事が取れなければ、ヒッチハイクでサンフランシスコに戻ろうと計画して出発した。この経験は話せば長いことになるのだが、シアトルでアラスカのサーモン キャネリー(鮭の缶詰工場)へ労働者を送る会社があり、運良く2周間待ってそこで仕事が取れて6月後半から8月の終わりまで働いてしっかりと稼いだ。
2ケ月契約で働き、缶詰工場の労働キャンプの従業員はほとんどがフィリピン人の出稼ぎで、普段はシアトル周辺に住んでいて夏の間稼いで、後は適当に仕事をしてるようだった。このサーモンのシーズンが終わると、蟹のシーズンが始まるが、体力のある連中はもう2ケ月働いて稼ぎ、その後は南米あたりの物価の安い国で遊んでいるのが多いと言っていた。
技術を持って機械の修理などをしているのは全部白人で、彼らの話によると、夏の間4ケ月働いて、後の8ケ月はハワイでスキューバやったりして遊んでいるというではないか、そんないい時代が60年代にはあったのだ。そのくらいアメリカは裕福だった。
その頃の平均的なアメリカ人は55歳で定年退職、その後キャンパーなどを買って夫婦で全米やカナダ、メキシコなどへ行って遊んで暮らせたいい時代だったのだ。今のアメリカでは考えられない。家など誰でも買えた。
さて、話は私めの事になるが、2ケ月働いて税金、生活費などすべて引かれてもらったチェックが1360ドル。今でも覚えているが、その時、日本円は365円の固定為替相場。
日本円で50万円稼いだのだった。たった1年前に日本にいた時の月給が約1ケ月働いて2万円の頃のはなし。日本で2ヶ月働いて貯金しても5千円だった。
なんと日本の100倍稼いだのだった。
なんと英語も少しきりできない、しかも観光ビザだった。昔はビザ延長申請が2回6ケ月、合計12ケ月もらえた。観光ビザでもソシアル セキュリテーカードをくれた。
なんと、人間行動すればアメリカではこんなに稼げるのだ。もう日本へ帰るのは絶対に辞めた、、と単純な頭で考えた25歳の夏だった。
下の写真が一緒に働いていたアラスカン ガール。(北欧系移民の子孫だと言っていた)。
1969年の夏、アラスカ コデアック アイランド(アラスカの地図の一番下)。ここでひと夏働いて稼いだ。その資金でカレッジ行きの費用を捻出したな。
アメリカ最北端の町 バロー 人口4,296 人、2014年。
この小さな町の人種別統計を見てみると、以下のようになるので、驚く。
アジア人 10,7%
白人 13,0%
ネイテーブ(現地人エスキモーなど) 60,3% その他0,7%
なんと、アジア系が10%をこえている、10人に1人以上がアジア系なのには驚く。実際にホテルで働いてた中年のオバサン、たぶん韓国人だろう。
この地球最北端の町に日本料理レストラン(韓国人経営)と中華レストランがあった。タクシーの若い小柄な運転手に、どこから来たのか聞いたら タイ と答えた。なぜここにいるのだと聞いたら、仕事 と答えた 金になるのだろうか。
日本食レストラン 大阪 寿司などやってるらしいが、どんなもんだろうか?行っている時間がなかった。
1980年代から90年かけては、日本からのハンターを案内してアラスカ、カナダで狩猟の案内もやっていた。
ブッシュ プレインの前で、アラスカ Bethel 良い猟場だった。9月中旬雪に降り込まれたな。アラスカ ハンテングキャンプ。