品川歴史館に行こうとしたのですけれど、
どうやら品川駅から行くんでなくって大森駅から徒歩10分ということ。


大森ってのは大田区でないの?と思うところですが、

だいたい品川駅の場所は品川区でなく港区、
ついでにいうと目黒駅も目黒区ではなく、新宿駅も実は渋谷区だとか聞いたことがありますねえ。


ところで、大森と聞いてパッと浮かぶのはやっぱり「大森貝塚」ではないかと。
日本史でしょうか、ともかく必ず教科書に載っている遺跡ではなかろうかと。


で、「どうせ大森まで行くのなら」ということで調べてみると、
大森駅から品川歴史館に向かう途中のようですので、立ち寄ってみることにしたのですね。
が、しかし…。


米国からやってきたエドワード・モース博士が横浜~新橋間の汽車に乗っているときに
「お!あれは?!」と大森貝塚を発見したというのは有名な話ですが、
その貝塚の場所が実は二つあるのだとか。


大森駅から池上通りをちょこっと行ったところにある大田区が「ここだ!」という場所。
そして、同じ通りをもそっとしばらく行ったところには品川区が「ここです」という場所が…。


発見されたのは明治10年(1877年)だそうですから、
徳川三代将軍となる家光がこの部屋で生まれた …なんつうことより、
よっぽどはっきりしてそうな気がしますけれど、こういうことがあるのですねえ。
つうことで、どうせですから両方に足を向けてみたという。


まずは大田区側から。
通り沿いに「国史跡」という案内標が立っておりまして、
今ではNTTか何かのビルの脇を抜けていくように矢印が出ていました。


大田区側「大森貝塚」案内標

それに従ってJRの線路際へと近づいていきますと、
「大森貝墟」なる立派な石碑が建っておりまして、
わざわざ「我国最初之發見」とも刻まれています。


大森貝墟之碑


当時と線路の場所が同じなのかどうかはわかりませんけれど、
本当に眼と鼻の先を京浜東北線が行き交っている場所…
なのですが、実にせまあい空間に不似合いなくらい大きな石碑、
これがひとつポツンと建っているだけなのですね。


これ以上の感想はともかくとして、今度は品川区側に向かいます。
歩くことしばし、先ほどの「国史跡」なる案内標のようなものは見当たらないものの、
(大田区側遺跡は、うっかりすると素通りしてしまいそうですから)
広めの区画に大森貝塚遺跡庭園として整備されていますので、
ついうっかりということもおよそなさそう。


大森貝塚遺跡庭園


ここもやっぱり奥の方、つまりは線路際の方に進んで行きますと、
「大森貝塚」と刻まれた石碑がありました。


大森貝塚之碑


土器を象ったものがのっかっているのが何ともユーモラスに思えてしまい、
威厳の点では大田区側の勝ちではないかと思ったり。


されど、園内には貝塚と思しき地層が見られるようにもしてあり、
施設としての整い具合からしても、品川区側にかなり分がいいような気がしてしまうところです。


貝の地層@大森貝塚遺跡庭園


…ということで、帰って来てから改めて調べてみますと、

品川歴史館のHPにこんな記述がありました。

公文書から「モースの大森貝塚」の場所と判明した大森貝塚遺跡庭園付近は、1984年(昭和59)以降、数回発掘されています。その発掘で、考古学的にもモースたちの発掘したのがその場所であることが明らかになりました。

やっぱり品川区側の方だったのだねと。

ちなみに、大田区のHPにはこんな記述が。

明治10年(1877年)、アメリカの動物学者E・S・モースによって発見、発掘された日本考古学上最初の遺跡で、縄文時代後期(約3000年前)の遺物が出土し、国の史跡に指定されています。その発掘記念碑が、大田、品川の両区にそれぞれ建てられています。

幾分おとなしめながら、ライバル関係はいまだ続いているということでしょうか…。

こうしたことにも興味は尽きないながら、

なんでも「縄文」という言葉自体、モース博士が使った言葉の訳語なのだということで、

まさに日本の考古学はここから始まったかと思えば、感慨ひとしおというものでありますよ。

…ということで、ちょこっと出向いたわりにはあれこれ川越のことを書いておりますけれど、
そもそも川越に行こうと思い立ったのは川越市立美術館で開催中の

「ミロ 色踊る版画」展を見に行くためなのでありました。


「ミロ 色踊る版画」展@川越市立美術館


ジョアン・ミロ の作品展はここに記事を書き始めてからも何度か見ているのですけれど、
そうした数あるミロ展の中でも実に楽しい展覧会であったなと思うのですね。


楽しいと言って特別なアトラクションが用意されているわけでもありませけれど、
とにかく見ていて楽しい作品が集められた印象なのでありますよ。


傾向的には「いつものミロ」でありまして、ポップな色遣いとデザインといったふう。
されど、ままある展覧会では「硬軟取り混ぜて」ということでもないのでしょうけれど、
あくまで明るく楽しげにという画面ばかりでは済まないものでありましょう。


もちろん、ミロの作品が明るく楽しげなものばかりではありませんから「むべなるかな」ですが、
時には今回のように割り切って、陽の方に思い切り比重が置かれてもいいのかなと思ったりするわけです。


とはいえ、そのような雰囲気がありますとですね、
「何が描かれているのか」と分かろうとすると「わけ分からんなぁ」と思ってしまいそうになるところを
じぃっと見てみて勝手に絵解きをしてみるようなこともまた実に面白いものだったりするのですよ。


ジョアン・ミロ「黄昏のセント・ジェームズ公園」(部分)


例えばこの「黄昏のセント・ジェームズ公園」なる一枚は、

妙に具体的に風景画風のタイトルが付いておりますけれど、

一見して「黄昏どきのセント・ジェームズ公園ね。いかにも、それらしいね」

なんつうことはちいとも思えないですよね。


ですが、見ているほどに「なるほどねえ」と思えてきたり、否ひとり合点できてきたりするのですね。

「お、いちばん星でてるじゃん」とか、

「街の灯も点り出したね、やっぱり都会らしくブルーライト だね」とか、

(勝手にロンドンのセント・ジェームズ・パークを思い出してますが)

「そういえば、夕間暮れの人影はやっぱりぼんやりしてくるものだぁね」とか。


ジョアン・ミロ「反逆者」


そしてまたこちらの「反逆者」という一枚も、不穏なタイトルなわりには「色踊る版画だな」と。


反逆者らしく右腕を振り上げながらシュプレヒコールでも挙げているでしょうか。

その反対側で左手の方は「小さくガッツポーズ!」が可愛らしくもありますが、

眼は真赤で、顔つきは青くなったりピンクになったりいきり立っているようですし、

頭の周囲にもいろんな激情がスパークしとりますねえ。


という具合に、ひとしきりミロ展でもって想像力を逞しくした後、
ついでのように常設展示室、そして相原求一朗記念室とやらを覗いてみたのですね。
そして、この相原記念室の方で思いも寄らず「ぐお!」という盛り上がりを得たのでありますよ。


浅学にして相原求一朗さんという画家のことは全く知らなかったんですが、
荒涼とした大地を描いて、あたかも
ワイエス を思わせる画面からは
自然の厳しさと同時に、そこではその風景を目の当たりにする自分しか存在しない

何ものの気配もない孤立した世界を思ってしまうのですね。
これには思わず見入ってしまいました。


以前「美術館はやっぱり所蔵作品展で勝負しなくては」みたいなことを書いておきながらなんですが、
ついつい常設展示のコーナーは「ついで感覚」でもって臨んでしまうところながら、
思わぬところでこうした波長の一致を体感することもありましょうから、
「侮ってはならぬなぁ」と思うのでありました。


川越生まれの相原さんは「ゆかりの作家」ということで市立美術館に展示されているのでしょうけれど、

相原求一朗美術館というのはどうやら北海道の帯広あたりにあるらしいのですね。

こりゃ、一度行かねばなぁと思いますねえ。

喜多院 から1kmほど北上したあたりでしょうか、

ちょうどその辺に川越城があったということで、
在りし日を偲ぶ遺構などがいくつか見られるのですね。


ひとつは富士見櫓跡という場所なんですが、川越城は天守閣を持たない平城だったようで、

その点で「城砦」というよりは「城館」というイメージでしょうか。


お城と聞いていかにもな感じのノイシュヴァンシュタインと

ロワール川沿いの古城巡りで訪ねるブロワ城やシャンボール城との違いでありましょうかね、

何も西洋と比べなくても…とは思いますが。


ところで、そうした平城の川越城にあって富士見櫓はといえば、
その名の通り富士山を見通す高台に築かれ、城内では最高所として天守閣代わりでもあったとか。
いまは鬱蒼とした木立の前に案内が建つばかりですけれど。


川越城富士見櫓跡


富士見櫓からはちょうど城の反対側ということになりましょうか、

中ノ門堀の跡を見ることができます。


川越城中ノ門堀


ただ、川越城はどうやら石垣もなく土塁を積んであったということですので、
やっぱり松本城や姫路城といった颯爽とした感じではないような。


こうした櫓跡や堀跡よりは少々まとまった遺構として本丸御殿がありまして、
これもやはり城というより大きな屋敷というような気がしないでもない。


川越城本丸御殿


とまあこうした川越城でありますけれど、
築城には江戸城同様に太田道灌 が関わったとなるとやおら興味が湧いてくるというか何というか。


本丸御殿の近くにある市立博物館では道灌の生い立ちを紹介するビデオ・コーナーもありますし、
山吹伝説 にあやかって川越市の花は山吹になってもいるそうな。


もっとも山吹伝説の場所はといえば新宿の山吹町とか越生とかいう話があるものの、
川越とそれほどの所縁があるものなのかは分からないのですけどね。


とまれ、道灌が主家である扇谷上杉家のために作った城は、やがて小田原北条氏 のものとなり、
やがて徳川幕府になってからは江戸の衛星都市たる位置づけで親藩・譜代が仕切ることになりますね。


川越と聞いてさほど大層なイメージを持っていなかったものですから、
ドラマ「JIN」の中で南方せんせが川越藩に治療に出向くところで周囲がびびりまくるのが
その時にはピンと来なかったのですが、将軍家のご親戚だったわけですね。


そういえば、本丸御殿の展示資料にも「JIN 」のシナリオがあったのですね。
川越のステイタスを広く認知せしめたということでありましょうか。

小江戸という謳い文句が「いいんだかわるいんだか」の川越ではありますけれど、

それなりの歴史は確かにありそうでありますよ。

この間、国語の教科書 のところで触れた「いわおの顔」というお話。
原作がナサニエル・ホーソーンの「The Great Stone Face」だということが分かったものですから、
これを手がかりに探してみましたところ、果たして読むことができました。


ただ、洋販ラダーシリーズの中の一冊でして、
ご存知の方も多かろうと思いますが、英語学習用に限られた語彙に書き改めた文章になっているという。
この「The Great Stone Face」は1000語を使用するレベル、最初歩レベルだそうでありますよ。


大いなる岩の顔(洋販ラダーシリーズLEVEL1)/ナサニエル ホーソーン


なるほど確かに読みやすいとは思うものの、それでも知らない単語がちらりほらり。
さらには熟語的な使い方に至っては相当以上に忘れとるなぁというのが本音でありますね。
ま、全然使いませんからねえ、英語も(と言い訳じみたひと言)。


さはさりながら、話の筋はひと通り理解できたわけですが、

「そっか、こういう話だったか」と。


山間の谷沿いの村に生まれたアーネスト。
谷の向こうに見える岩壁には穏やかな老人の顔とも見えるところがあるのですが、
アーネストはその「いわおの顔」にあれこれを語りかけたりしながら熟考することで
いろいろな物事を学んでいくのでありました。


また、母親から教わった「いつか『いわおの顔』を持つ人がやってきて、みんなを幸せにしてくれる」という
言い伝えを信じて、その日を待ち続けているのでもありました。


あるとき、この村出身で都会へ出、商売で大成功したお金持ちが帰ってくることになり、
出迎える皆が「おお、いわおの顔にそっくりだ」というのですが、
アーネストにはどこも似ているようには見えません。


また別のときには、村出身で兵隊に行って大活躍、将軍になって帰ってきた人も
皆は「いわおの顔!」と言うものの、アーネストにはぴんとこない。
大政治家になった者が帰ってきたときも全くおんなじでした。


…ということで、言い伝えは本当になるのかどうかというところでありますけれど、
結局のところ、村から出ることもなく毎日の仕事に黙々と精を出し、
「いわおの顔」と語り合っては人生を深く考えていったアーネスト自身が、
実は「そっくり」になっていた…ということなわけです。


たぶん、教科書で読んだときには「ふむふむ」と感心したのだと思いますが、
小学生のときに受けた印象とは違う点で考えたいところでありますね。


それというのも、どうもこのお話というのは「アメリカっぽくないんではないかいね」ということなのでして。
極めてステレオタイプでアメリカを捉えた印象かもですが。


この話の中でアーネストがちっとも「いわおの顔」に似てないと考える人物たちが、
例えば金持ちの商人、将軍、政治家…と次々登場しますけれど、
アメリカン・ドリームと言っては的外れかもですが、

そうはいってもこの人たちはそれぞれに立身出世を果たした人たちではありましょう。


そうした人たちを「この人たちは『来るべき人物』ではない」と否定しておいて、
(最初の商人の名前がMr.Gathergoldという名前であることを補足しておきます)
実はその人物は立身出世とは全く縁の無い暮らしをしてきたアーネストでしたという。


もっとも皆が皆、立身出世を目指してるのがアメリカだというつもりはありませんが、
別の喩えで言えば「転石、苔を生ぜず」(A rolling stone gathers no moss.)のアメリカ的受け止め方で
「苔生しちゃうのはよろしくないから、元気に転がる石でいましょうね」というところからも
アーネストの生き方が結果的にも称揚されるのはアメリカ的でないような気がしたのですが、
はていかがでありましょうや。


ときに、Wikipediaの「ナサニエル・ホーソーン」の項にはこんな記述がありましたので、

ちとお借りいたしますと…

彼が『緋文字』を発表し注目を集め始めていたころ、アメリカでは市場主義経済が発達し文学作品も「商品」としての色合いが強くなる。これにより文学の芸術的価値より大衆の評判が重要視され始めホーソーンはこのギャップに苦しむことになる。実際に彼の作品である『七破風の館』では登場人物にこの心境を投影してうわべの作品が大衆にはうける、といったことを訴えており、芸術家としての作家という考えを持っていた彼がその才能を存分に発揮できないジレンマや葛藤が認められる。

もしかしたら、大衆受けするということが

実は中身をよく見ることもなしに見かけによって左右されてしまっているようなことを
ホーソーンは易しい物語に込めたのかもしれんなぁと、思ったりしたのでありますよ。

川越と言えば喜多院…ということで行ってきたというよりも、
まあ、「菊まつり 」が境内で行われていたもんですから。


天台宗のお寺さんですけれど、天海僧正が住職だったことからも徳川将軍家との所縁があるわけでして、
大河ドラマ「江」で二代将軍・秀忠の世嗣をどうするかといったあたりに話が来ている折も折り、
ドラマがらみで訪ねる人も多いのでありましょう。


喜多院本堂

ちなみに本堂とは渡り廊下で繋がる形で隣接したひと棟の建物で見えるのですが、
これが江戸城から移築されたものであり、秀忠の長男である竹千代(後の家光)の生まれた部屋とか
竹千代付きの乳母・福(後の春日局)の化粧部屋とかがあるという。


拝観料400円なりを払って中に入りますと
(ここも拝観というんですかね、渡り廊下を通って本堂まで行けるからか…)
「そうですか、この部屋でねえ」みたいな感想を抱いたりするわけです。


ただ、その部屋を見て有難がることもないんですが、
福の化粧部屋というところが四室くらいあってですね、
かつて住まったアパートの倍はゆうにあるのを「化粧部屋とはねえ、しかも乳母だのにねえ」と思ったり。


ところで、こうしたことを見て回るときにいささか注意を要するなあと思いましたのは、
たまたま見て回るタイミングを同じうしたどこぞの家族から聞こえてきたひと言でありますよ。

「家光って、江戸で生まれたんじゃないんだね…」


おいおいおい、江戸城で生まれたんだよ。
その建物をここに移築したんだって、解説板にも書いてあるではないの。
…とまあ、つくづく見てきただけにたちの悪い思い込みが出来てしまう可能性ありと思うと、
「おや?」と思ったらちゃんと解説見ないといけんですね。


ところで、先に購入した入場券では
売店の裏側の一角にひしめいております(?)五百羅漢も見られるというので、覗いてみました。


喜多院五百羅漢


それぞれに面相やしぐさの違う羅漢さんがずら~りでありますが、
どうやら元より蔭りがちな場所のようで苔むしたようすは、

風情が…というよりあまり構われてないような印象が。


いくら煩悩を表しているにせよ、からりとした晴れやかさの中で屈託ない表情を見せてくれた方が
ありがたいような気がしてしまうのでありました。

とまれ、ユニークなお姿をいくつか見ながら、おのが煩悩を払うといたしましょうか。

Chain reaction of curiosity Chain reaction of curiosity

Chain reaction of curiosity Chain reaction of curiosity