ちょいと前に二週間になんなんとする、といっては大袈裟ですが、

週末2回を自宅静養に費やさざるを得ない風邪に見まわれた関係で、

どこそかへ出かけての新鮮な発見のない毎日を送っていたのですね。


それがようやっとアクティブなふうに戻ってきたのですから、

芝居を見に行ったり、演奏会を聴きに行ったり…

そして、今度はちと散歩がてら、小江戸と称される川越へと出かけてきたのでありました。


日帰りであるばかりか、半日程度の散歩でありますから、

「小江戸川越紀行」とは大袈裟の極みですが、まあとりあえず。


やおら川越に行くというのは、ひとつきっかけがあったわけですが、

それにはおいおい触れるとしまして、ついでに何処をぶらりとしようとあれこれ検討しておりますときに、

(…と、この検討段階はすべて風邪ひき前でありますが)

23日まで「菊まつり」というのをやっていることに気がつきましてですね、

どうせなら終わる前に行こうと思っておった次第。


小江戸川越菊まつり2011


実は「菊まつり」と聞いて、即座に浮かんだのが「菊人形」でして、

ずいぶん前に茨城県の笠間日動美術館に行ったおり、笠間稲荷で見たのですが、

衣装を象った菊の花からにょっきり首が出ているという、それはそれは怖ろしいものでありました。

されど実際には菊人形などは全くなく、単純に素直に菊の花の品評会といったらよろしいかと。


普段から花を愛でるタイプでもありませんけれど、

よほどの丹精を込めたのだろうと想像するにやぶさかでない花々がずらりと並んだ様子は、

なかなかに見事なものでありました。


例によって携帯電話の附属機能による限界(もちろん腕のほども)はご容赦いただきつつ、

立派な花々をご覧いただきとう存じまする。


Chain reaction of curiosity


Chain reaction of curiosity



Chain reaction of curiosity



Chain reaction of curiosity



Chain reaction of curiosity


実物のようなふっくら感がまるで出ておりませんけれど、

「大したもんだなぁ…」てなふうにはお感じいただけるやもしれませんですね。


ところで、ふっくら感と言いましたが、この菊まつりを見て思ったことはですね、

「おいしそうだな」ということなんですなぁ。菊の花って食べるではありませんか。

結局、個人的には「花より団子」という情趣を欠いた人間やもしれませぬ。


でも、でもですよ。もう一枚、ご覧くださいね。

おいしそう!とか思ったりしません?…ですかね…。


Chain reaction of curiosity

読響の演奏会を聴いてきたのですけれど、曲目はこんなふう。


ウェーバー/歌劇「オベロン」序曲
シューベルト /交響曲第7番「未完成
ワーグナー /楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
R.シュトラウス /交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら


…という4曲でして、どうも最初のうちは

エンジンの温まり具合が今ひとつのふうに見受けられたものの、
休憩を挟んでのワーグナーで気を取り直し、

締めのティルでは最初の一音から瞠目させられるよもやの展開。
よほどティルばかり練習してたんじゃあなかろうかと思ってしまうところでありました。


ところで、今回の演奏会は
「マエストロ・セレクション・ポピュラー・ピーシーズ」と銘打っているように所謂名曲集の類。
なんだってそんなふうに言うかとなれば、クラシック音楽の演奏会にお馴染みの方はご存知のとおり、
定番のプログラミングを外れているからではないかと。


もちろん外れていけないことなどちいとありはしませんけれど、
ごくごく一般的なパターンというのが、序曲などの10分、15分の小品がまず1曲、
(クラシックでは10分、15分が小品なのですよねえ)
続いて大物だったり新進だったりのソリストを招いて何かしらの協奏曲を1曲、
休憩を挟んで最後に40分、50分はかかろうかという交響曲の類いで締めるという。


この定式?に比べて今回の演奏会が異なるのは一目瞭然でありますね。
されど、先にも言いましたようにここから外れていっかなおかしくない。


もっと短い小品ばかりの数曲でかためたコンサートだってあるわけです。
そうした類にポピュラー名曲集みたいな言い方をするのは、これまたよくあること。


しかしながら、そうであれば尚のことプログラミングの妙が出せるかどうかが
結構気になるところではありますね。


ひとりの作曲家でまとめる手もありますし、ひとつのテーマでまとめる形もあります。
後者では例えばシェイクスピア 劇に絡む音楽を集めるとか。
そうなれば、今回の「オベロン」序曲が入る可能性はありますよね。
何しろオベロンは「真夏の夜の夢 」に出てくる妖精の王でありますから。


そんなふうなことを考えたときに、
こたびのプログラミングはドイツ音楽を集めたということと、
ロマン派の初期から後期への流れを辿ったてなことが言えるのかもしれません。


でも、一緒に行った友人とも話したんですが、
マイスタージンガーはどうしても鉤十字を思い出してしまうところがあった上に、
続いて第三帝国の帝国音楽院総裁 であったR.シュトラウスの曲が出てきてしまうと
「おや?」と思ってしまったり。


音楽に向き合うときに、これはこれで実に偏狭な思い込みだとは思いますけれど、
ウェーバーで始まったことだし、例えばナチスに嫌われたヒンデミットの
ウェーバーの主題による交響的変容 」あたりを最後にもってくるというのもありかな
と思ったりするわけです。


実際のところ、プログラミングはだいたいのところ全部2時間くらいのものにしとくのが
無難な線ですけれど、今回は全体で1時間半ほどで終わってしまったことからすれば、
やはりもうひと捻りあってもよかったのかなと考えてしまうところでありますよ。

もっとも、最初のうちはともかく最後のティルの出来栄えは文句のつけようがないものでしたので、
ないものねだりの感、なきにしもあらずでありますが。


前から思ってたんですけれど、マエストロ・セレクションでなくって、
2時間に収まってかつ全体的にあるイメージのもとにまとまった

リスナー・セレクションのプログラミングをしてはもらえまいかと。


そういうことがあったとしたら、どういう曲目でまとめるか、

これはまた楽しい思案ということになりましょうなあ。

芝居を見てきたのですね。ニコライ・ゴーゴリ 作の「検察官」であります。


劇団NLT公演「検察官」@博品館劇場


しばらく前に映画「その名にちなんで」 とかヤナーチェク の管弦楽曲「タラス・ブーリバ 」とかにも絡んで
いささかのゴーゴリ周辺探究をしましたけれど、そのときにも「検察官」は読んでいませんでしたので、
そうそう上演される機会もなかろうしと見てきたというわけです。


ところで、読んでないということは事前知識無しで、

しかもゴーゴリだし見に行ってみるかというだけのことなればキャスティングも気にしておらず、

途中休憩の段階になって「ああ、あの市長役は原田大二郎だったんだぁねぇ」と。


前半ではいかにも脂ぎった悪徳市長に似つかわしい役者としか思ってなかったですが、
配役に気付いてみると「なるほど、確かに…」と。まあ、後ろの方の座席だったからなおのことでしょうけど。


でもって、それでは「検察官」なるお話は…といくところなんですが、
そもそも原題のロシア語 「レヴィゾール」は「検察」とは全く関係ないのだそうですね。


この公演に使われた翻訳は、

光文社の古典新訳文庫でゴーゴリを訳出された浦雅春さんが担当していましたけれど、
古典新訳文庫では、なるほど「査察官」というタイトルになっている。


先の「レヴィゾール」の意味からすれば、せいぜい「監督官」、「査察官」といったところになるのだとか。

どうした加減か、日本では古来ゴーゴリの「検察官」で馴染まれちゃってますから、
やおら査察官と言われてもピンとこないのですが、

訳者としては「査察官」の定番化を願っているそうでありますよ。


芝居を見ると、確かに話の筋からしても検察官よりは査察官がぴったりきますね。
ロシアのとある田舎町に、首都サンクト・ペテルブルクから
お役人が地方行政の状況を探りにやってくるという噂が流れます。


住民に対して日頃から権力を傘に市政を私物化していた市長をはじめ、
それを取り巻く判事やら病院長やら教育長やら郵便局長やらが集った一派は
普段やりたい放題がばれては大変と、大慌ての様子。


そんなところへ、すでに査察官はお忍びで到着しており、宿屋に逗留しているという話が舞い込みます。

…ということからして、やっぱり「査察」のイメージがぴったり来るなと思いつつ続きを見るわけですが、
宿屋に様子を伺いにいった市長は「これは査察官に違いない」と思い込み、
ありとあらゆるおもてなし攻勢をかけ始めることに。


ところが査察官と思われたのはたまたま旅の途上で立ち寄っただけの14等官で、
官吏の等級では最下位レベルの木っ端役人でしたけれど、
勘違いされてることを言いことにあれこれの大ぼらを吹きまくり、
市長の娘との婚約まで取り付けるというところまで進んでいくのですね。


まあ、最終的には査察官ではなかったことが露見して…となりますが、
全部書いてしまっては面白くなくなってしまいますよね。


芝居の仕立てとしては、いささか現代風を意識したのか、
台詞回しがかなり速いテンポで、ロシア人の名前 を聞き取るのに難儀するくらい。
(もちろん、日本語の中で言ってるんですが、それでも)


それに、木っ端役人役が相当に軽佻浮薄そのものの人物(早口がこれに輪をかける)との部分が
とっても強調されていたのでしょうけれど、何やら浮ついた感が全体を支配する状態だったような気がします。


市長の娘と婚約に至ることを前提に、木っ端役人の役は元々若者の設定なのかもしれませんけれど、
もそっとずる賢さ、狡猾さ(それに伴う重々しさ)が欲しかったかなと思うところではないかと。


見たところ「コメディ」とも言えますけれど、「諷刺」の方こそ当たっているところでしょうし。

諷刺と考えてみれば、最後に勘違いしてもてなした連中も悪い奴なら、
もてなしに預かるだけ預かった方もやっぱり悪い奴。
いずれも庶民感覚と大いにずれたところがあって、そこを笑ってやろうということでもありましょう。


さりながら、あっちもこっちも悪い奴となってときに、
その一部始終を見ていた「あなた」は、さてどうする?という具合に、
観客(本の場合には読者)が実は検察の役割を振られているのかも…と考えてしまいましたよ。


もちろん、ゴーゴリがそうした意図であったというよりも、
最初にこの作品を「検察官」とした人はそんな思いがあったのかなと、
自由に想像させていただいた次第でありました。

国語の教科書に出てたちょっと好きな話  ブログネタ:国語の教科書に出てたちょっと好きな話  参加中
本文はここから

本来このお題というのは国語の教科書に載っていたもので、
本人にとっては印象深いが故に長の年月をモノともせずによく記憶に残っている、
そんなお話を紹介するというのが趣旨なんでありましょうね。

そうだとすると、お門違いのことを書こうとしていることになるのでして、
なにしろ「確か国語の教科書に出てたんだよな…」というところから始まって、
筋書きはもちろんのこと、タイトルでさえ記憶のおくぅの方で立ちこめた靄の中を手さぐりで進むがごとし…
つまり、紹介できるほどのことを覚えていないわけなのですよ。

さりながら、この機会ですからそんなカケラほどの記憶をたぐって、
しかも文明の利器であるネット検索も併用して、
少々良い話(であったと思しきもの)の記憶を呼び覚ましてみることにいたしましょう。

まず、ひとつ目。
タイトルはたしか…「夏みかん」であったような。
今、検索してみます。

キーワードを「夏みかん 国語 教科書」で入れてみましたが、
1件だけ「国語の教科書に載っていた『夏みかん』というお話が好きでした」との記述があって、
たぶん同じことを言っておられるのだろうなと。

その方によりますと
「小学生の女の子が、妊娠中でつわりのひどいお母さんの為に夏みかんを探しに行くお話」
となっていて、「そうそう、そんな話だったなぁ」とふっと視界が開けた感じ。

子供心に(という言い方も妙かもですが)
「赤ちゃんがおなかにいると、お母さんは夏みかんが欲しくなるのか…」みたいなことを
考えたりしたような…。

お次は、これはタイトルには間違いないという自信があるんですが、「いわおの顔」というもの。
これも話の内容はさっぱり覚えておりませんが。
ということで、また検索です。

おおっと、これは意外な事実が判明いたしました。
どうやら原作はナサニエル・ホーソーンの「The Great Stone Face」というものらしいのですね。
こりゃもしかしたら、また読む機会を得られるやもしれませんですねえ。
また、改めて探してみよう。

そして最後に…これはですね、タイトルも話の筋もまるで覚えていない。
そうでありながら、主人公の少年の名前だけが手掛かりであって、
しかも絶対に国語の教科書で見たという、妙な自信があるのですよ。

よく考えるというと、こういうのは反って記憶の断片が勝手に自分の頭の中で
ありもしないストーリーを作り上げてしまって思いこんでいるだけなのかも…とも思えてしまうのですが。

まあ、それでも個人的インパクトはかなり大であったと思われるのでして、
これまた子供ながらに「自分が子供を持ったら、この名前をつけるんだもんね」と思ったという。

果たして、この主人公の少年の名前は?
そしてどういうお話で、何と言うタイトルだったのか?
さらには「子供にその名をつける」という誓いの行方は?

続きは、アメンバー記事で…と言っても、
アメンバー記事とかいう読み手を限った記事は書いたことないですし、
今後も書かないとは思いますが…。

横尾忠則さんのエッセイに曰く「目下黒い絵を描くことにこだわっている」のだそうでありますよ。


美術館なんかでも、取り分け現代ものの展覧会だったりすると、
時折「黒い絵」に出くわすことがありますね。


しばらく前にブリヂストン美術館のアンフォルメル展 を見たときにも
ピエール・スーラージュの「黒い絵」を見て、これはこれで見方をひとり合点したりしたものです。


さりながら、スーラージュの黒い絵というのはいわゆる抽象世界でありますから、
何かしら具象物の写し身ではないわけでして、真っ黒だからと
「闇夜の世界」みたいなタイトルをつけて理解しようとする必要もない。


さりながら、横尾さんがトライしているのは
「見えるものを見えないように描けないか」ということなんだそうです。


こうした試みの背景はといえば、こんなことのようですね。

誰がいい出したのか、「見えないものを描くのがアートだ」みたいなことがアート界の常識みたいになってしまったらしい。だったらその反対をやろうとじゃないかと考えた

とまあ、そういうわけなんですが、絵画の歴史を見てみれば
シュルレアリスム にしても抽象画にしても決して現前と眼に見えるものを描いてるわけでないよなぁと。
(横尾さんの考えがそういうことなのかどうかは分かりませんが)


そこで、横尾さんは「見えないものを描く」のではなくして、
「見えるものをわざわざ見えないように描く」ということをやろうとしているという。


具体的な手法はイメージしにくいながら、まず横尾さんのとったやり方というが、
「見えるものを描きながらどんどん消していく」というもの。
だから、結果的に黒い絵が出来上がってしまうのだとか。


ここで「見えるものを見えないように」ということを
シンプルに捉えると夕闇が濃くなってモノの判別がつかなくなる瞬間みたいなことなのかなと。


よく美人と見間違う条件?として「夜目遠目傘の内」というのがありますけれど、
その「夜目」にあたるような朧の状態でありましょうか。


ただ言葉に正確に従うと、これでは「見えないように」は描いてないですね。
おぼろながらも見えてるのであれば。


しかも描く対象は「見えるもの」ということであって、現に「見えているもの」とは言ってませんし。

例えば光が当たっているという条件下なら当たり前に見えるもの。
それを、見えないように描くというのですから。


あれこれ言いながら、結構思考はごちゃごちゃになりかかってますが、
それは挑む横尾さん自身も同じようで、あんまり真剣に対峙してこだわりすぎると

ポロック やロスコのように死ぬしかなくなってしまう…だからほどほどにしとこうかみたいな。


なんだかこれってひと筆にも異常なほどの執着をもつ芸術家魂みたいなのと

ずいぶん離れてあっさりしたふうでもありますけれど、

とまれいつの日か「見えるものを見えないように描く」作品を
ぜひぜひ仕上げていただいて、見てみたいものでありますね。