TVのニュースで報じていたんですが、肺腺癌とやら引き起こすとされるTTF-1という遺伝子は

どうやら癌の拡大や転移を抑える特殊な蛋白質をも作り出しているのだそうな。

研究を行っている名古屋大学の教授の

「癌のアクセルを踏みながら、同時にサイドブレーキを引いている」という喩えが印象的でありました。


世の中に「毒にも薬にもならない」といった言い回しがありますけれど、
逆に言えば「毒にも薬にもなる」ようなものがあるというになりましょうか。


ちと的外れかもしれませんけれど、モルヒネというと麻薬と思ってしまうものの医療にも使われたり、
噛まれれば大変なことになる毒を持つハブやマムシも漬け込んでしまえば

滋養強壮の薬用酒になってしまったり。


そういえば、大河ドラマ「江」の中では

徳川家康がマムシ酒と思しきものを飲んでいるシーンがありましたっけ。

家康はかなり健康に気を使っていたという話はどこかで聞いたように思うのですけれど、
「江」に描かれる家康はそうした健康オタクぶりが所々に差し挟まれていたなぁと思い出したのですね。


マムシ酒のところもそうですし、

また別のときには縁側で何やら薬草らしきものをせっせと磨り潰しているシーンがあったりしました。


健康のためにはあれがいいだの、これがいいだのといった情報が

山のようにある現代にもし家康が生きていたら、
それこそあれもこれもといち早く飛びついて試していたかもしれないと想像してしまうところです。


そういう家康とはいえ、若い頃から健康オタクだったのかと言えばそうではないのではないかと。
天下の趨勢を見るにつけ、も少し長生きせねばの思いを抱くようになってからと想像するのですが。


だいたい健康を考えるときに、

体調が「良い ふつう 悪い」てな区分けってなんだかなと思ったりするのですね。

「体調が悪い」という状態は確かにあるわけで、

先日も長の風邪に苛まれておりましたので、よく分かります。


では「体調が良い」と「ふつう」の違いとは何でありましょうか。

「体調が悪くない」ときは「ふつうの体調」であって、実はそれを「体調が良い」と言うのではなかろうかと。

どうも体調が良いとは言えないなぁと思うときに、

だからといって体調が悪いとは言いたくない、思いたくないという気分の問題で
良いと悪いの中間あたりかな…と位置づけておきたいようなことはありましょうけれど。


さりながら、いわゆる「ふつうの状態」以上に

「より健康っぽくってすこぶる体調が良い」ことを目指さねばならんのかというと
そんなこともないんではないかなと思いつつも、

世の中で(テレビ番組や数々のCMで?)あれもいい、これもいいと言われますと、
「みんな!もっともっと健康に、さらに良い体調に向かって進めえ!!」と言われているような。


ただ、ある程度の年齢(ってどのくらいかは個人差があるにせよ)になってきますと、
さすがに精密機械の如き人体でありますからあちらこちらに経年劣化が生じてくるわけですね。
いささかのメンテが必要になってきたりと。


でも、これは若いうちは全く関係ないですし、あれもこれもの健康法やら医薬部外品やらに頼るなら、
そもそもの食事や生活のことを考えた方がいいですよね。


食事や生活パターンがままならないから、対症療法に頼るんだということもありましょうが、
健康が気になるなら一度立ち止まって考えることも必要ではないかと。


一方で、メンテが必要になってきたりといった年齢の場合でありますけれど、
こちらの方もまた違った意味で踊らされてるところがあるような気がしないでもない。
端的に言えば「アンチエイジング」って言葉なんかがそれそのもののような。


これって「年齢なりの姿かたちに抵抗しよう」みたいな話ですよね。
前提として「若いのがいい」という。


成功事例的に「20歳は若く見えますね」みたいな紹介が出てたりすることがありますけれど、
「ほぉ~」と思う背景は多分に珍しいものを見る思いだったりするのではないかと。


むしろ歳相応でいて、若い人たちが歳を重ねた姿を自然に受け入れていくようなふうが
いいかなって思ったりするところでありますよ。


てなこと言いながら、ここでの書き手は年齢不詳のままで来てますが、「それはそれ」ですかね(笑)。

昨日のように地球上での出来事にやるせない思いを抱いたときには、
秋の夜長の星空でも眺めてみますかね。
ということで、宇宙の話でありますけれど、現実逃避以外のナニモノでもないのやも…。


以前、江戸時代の「刻」 のことに触れた折に読んだ、国立天文台の

渡部潤一さんがお書きになった天文エッセイとやら。
こたびはより専門分野であろう宇宙のお話だったのでありますね。


とにもかくにも理系オンチ(変な言葉ですが、意味は通じるのではないかと)でありますから、
宇宙の話といっても知らないことばかり。
それでも、宇宙の始まりはビッグバンであって、
そのまんま膨張を続けているということくらいは何となく知っているのですね。
(理屈はさっぱり?ですが…)


そも宇宙が膨張を続けていると、何で分かったのか?
どうやら「光のドップラー効果」というものが決め手のようです。


救急車が目の前を行過ぎるときに、やってくるときと去っていくときとでは
サイレンの音が違って聴こえるのがドップラー効果。
これが「光」にもあるんだそうですよ。


アメリカの天文台だったでしょうか、そこにその名を残す天文学者のハッブルさんが
銀河の星の光を観察しているときに「おお、宇宙って膨張しとるんかいね?」と気付いたのだとか。

これまたうまく説明もできませんけれど、観察された光の色のズレから考えて、
光のドップラー効果を当てはめれば、宇宙は膨張していると考えざるを得ないのだそうです。


もっともアインシュタインは一般相対性理論から宇宙の理屈に関わる方程式を導いたときに、
その方程式を解くと宇宙は膨張しているか、収縮しているかのどっちかになってしまうと
気付いていたのだそうですね。


さりながら、さすがのアインシュタインも「そんなバカな?!」と思ったのか、
宇宙が静止したものであるとするための例外を付け加えたそうな。
後にハッブルの発見に接して「人生最大の過ち」と言ったのだとか。


とまれ、宇宙が膨張してるのはビッグバンの余韻であることになりますけれど、
ビッグバンが宇宙の始まりであるならば、

ビッグバンの前には何がどういうふうにあったのだろうと思うところでありますね。


このエッセイの書き手である渡部さんも講演会などでこうした質問をよく受けるのだそうです。
しかしながら、渡部さんに言わせるとナンセンスな質問なのだそうで、
そこんところを引用させてもらうとしましょう。

実は、これは質問そのものが矛盾している。宇宙というのは時間をも生み出したからだ(古い中国語でも、宇は空間、宙は時間である)。つまり時間そのものがビッグバンとともに始まったので、「時間」が始まる前は、時間そのものが存在しない。ゆえに「宇宙が始まる前」というのが定義できないのである。

わかります?
言わんとするところは分からんでもないですが、時間も空間も何もない完全なる「無」だったんでしょうか。
そんなところからどうして「ビッグバン」が起こりようがあるのか、全く理解も想像もできない…。


結局、文系頭では「んじゃ、やっぱり神様登場ってことに?」みたいな受け止め方しか浮かばない。
どなたかがそのうちに、この辺りも明らかにしてくれるのでありましょうかね。

以前読んだ「ヒエログリフ解読史 」の中に、こんな一節がありました。

10代のころのヤングは、奴隷貿易と結びついているという理由で、砂糖を使わなかった。

ここに出てくるヤングとは

ヒエログリフ解読に大きな役割を果たしたとされる英国人トーマス・ヤングのことでして、
ヒエログリフの解読ではどうしてもシャンポリオンばかりがクローズアップされますが、
英仏間では両者の扱い方にはかなり微妙な配慮が必要なのだそうでありますよ。


という人となりはともかくとしてですが、ヤングはクエーカーであって
「道徳と清廉を重視する宗派で、儀式的なことを嫌い、礼儀を重んじ」ていたことから、
その道徳心の発露でありましょうか、10代といえば甘いものも欲しかろうに、
砂糖プランテーションが奴隷制の上に成り立っていたのを知って、

これを使わないという厳正さがあったようです。


とまあ、こんなことを読んでいたものですから、
「何かしらフェアトレードに絡む本でも読んでみるかいね」と思っていたところ、
ふと目に留まったのが「チョコレートの真実」なる一冊。
そういえば、しばらく前に「コーヒーの真実 」なんつう本も読んだっけと思いだしましたが、
相互の関連はないようで…。


チョコレートの真実 [DIPシリーズ]/キャロル・オフ


さて、チョコレートのことであります。
チョコレートの原料はといえば、カカオでありますね。


そのカカオはいったいどこで生産されているのかといえば、
某メーカーに刷り込まれたわけではありませんが、てっきりガーナだと思っていたのですね。
なにしろ、製品の名称になっているくらいですから。


でも違うんですなぁ、予想はされたと思いますけど。

外務省(日本のです)による子供向けサイト(キッズ外務省)の中に

「世界いろいろ雑学ランキング」というページがありますけれど、そこにいろんな統計が載っておりまして、

やはり子供を意識してのことか「チョコレートなどの原料になるカカオ豆をたくさん作っている国」ランキングが出ています。


1位はコートジボワール、2位がインドネシア、3位にようやくガーナが出てきます。
コーヒー豆が熱帯エリアのコーヒー・ベルトといわれるようなあたりで生産されているのと同様に、
カカオ豆もカカオ・ベルトという一定のエリア内でなら生育可能のようで、

やっぱり熱帯のあたりに集中しているのですね。


ということで条件があえばカカオ豆を育てられるにしても、では原産地はどこなんでしょう?ガーナ?
やっぱり違うのでして、どうやら中米のようでありますね。


なんでもヨーロッパ世界とカカオの出会いはコロンブスの航海にあったとも言われているようです。

その後、スペイン領となった地域では、カカオから作られるチョコレート・ドリンクの原型のような飲料を
「神の飲み物」として重用し、原料のカカオはあたかも貨幣のように流通していたのだとか。
なにしろこれさえ飲めば、嘘のように疲れも吹っ飛ぶ!というようなあたりが理由であるかと。


こうしたドリンクがスペインに渡って、やがて「砂糖を加えると甘くておいし~!」と気付かれるや、
欧州全域に広がっていったのですけれど、こうなると需要に供給が追いつかない。
となれば、労働力をつぎ込もうと黒人を押し込んだ奴隷船が

中米を目指して大西洋を渡っていったのですね。
(このあたりは、先の砂糖プランテーションや綿花なんかでも同じなのでしょう)


ただ、はたと気付くと黒人を運ぶんだったら、

カカオをアフリカに持ってきて植えた方がいいと気付く人がいるわけですね。
そこで、カカオ生産は大西洋の反対側にやってきます。


最初は小さな島であるサントメ・プリンシペ、やがてガーナ、

そしてコートジボワールと主生産地域が移っていくわけです。


で、カカオ生産の歴史がアフリカ側に移っても常に奴隷制が付きまとうわけですが、
これは「現在に至るもいまだ」と言わざるを得ないような。


かつてのような白人が黒人を奴隷として使うといった構図ではなくして、
コートジボアール人がより貧しい隣国のブルキナファソやマリの子供たちを
一応労働契約の名の下にほとんど奴隷と同じように使うといった点であるようです。


大規模企業がカカオを安く買い叩く。しかも安定供給を求められる。
こうなると、人件費がタダ同然の労働力が欲しいとカカオ農園の者は考えてしまう。


一方で、コートジボワールで働き、やがては故郷に錦を飾ることを思い描いて
貧しい隣国からやってくる子供たちがいる。
(故郷に錦を飾るひとつの例が、自転車を家に持ち帰るといったレベルの話…)


そこで、あたかも人身売買のような、両者の間を取り持つ斡旋業者が現れる。
結局子供たちに賃金が払われることなく、家に帰ることもできず、
怪我をしたり病気をすればほったらかしておかれる。


こうした労働があって、どんどんとカカオは輸出され、チョコレートとして製品化されていく。
働く子供たちは製品化されたチョコレートなど見たこともない…という話になるわけです。


カカオの流通を取り巻く構造はこれほどに単純なものではありませんけれど、
複雑な部分はおよそ傍目で考えても、良い要素は見受けられないですね。


唯一言えるのは、こうした状況があって、

チョコレートを買う側の人々は安定的に安価で購入できるということでしょうか。


人は必要なものが常に安定的に安価で入手できるようにと考えてきたのだと思います。
そうするには、競争によって切磋琢磨しあうところから

より有効な方法が生まれるはずと信じていたのだと思うのですね。


性悪説に依拠すると言っていいのかは分かりませんが、

競争しあわないとより良いものは生み出せないと。
それが資本主義の利点と考えてきたのでありましょう。


競争にはどうしても勝つ側と負ける側が出るわけですね。
勝った側は多くのもの得、負けた側は得るものが少ない、

あるいは何も得られない、ともすれば損失が出る。
だから負けないように頑張りましょう!と。


でも、本当の負けはより立場の弱い側に回ってくることになりますよね。
ですから「チョコレートを買わなきゃいいんだね」という話には必ずしもならないわけですけれど、
こうしたことが起こってしまう資本主義というシステムに限界があるんだねと思ったり、
かといって別のシステムの実験はやはり人間が原因で破綻を来たしたしと思ったり…。


マクロで見ると「とかく人間ってやつは…」みたいに思う一方、
大企業で原料を買い叩いてる人もおそらく自宅というミクロの世界ではいいお父さんだったりするのかもと。


ちょっと視野を広く持ってもらうだけで変わることもあるだろうになぁと、
思ったところで何の解決にもならないのですけれど…。


そうそう、いちばん最初に引いた言葉はヤングがクエーカーだからこそでたものと思いましたけれど、

ヴィクトリア朝の英国でチョコレート産業が拡大していく時代に、

この産業を牽引したのはもっぱらクエーカーのファミリーであったそうな。


産業革命で工場労働者の長時間労働やら児童労働やらが当たり前になっていた当時の英国としては

画期的なほどに労働者の福利厚生等を考えた工場運営をしたそうですけれど、

原料がどういうふうにやってくるのかには目をつぶってしまったんでしょうか。

この辺りはまたの機会に探究が必要かもでありますよ。

ちょっと前に町田の版画美術館やら文学館に出向いたおり、
帰りがけにディスク・ユニオンを覗いてみたのですね。

ちょうどその時分カステルヌオーヴォ=テデスコのギター五重奏曲を繰り返し聴いていたのもですから、
何とはなしギター音楽のCDを探してしまったりしたところが、
これも巡り合わせですかね、そうそうたくさん中古で出回ることもなかろうに見つかってしまうのですよね。

ということで、2枚組2セット計4枚を買ってきたのですけれど、
ワンセットはいわゆるリサイタル・レパートリー的な小品集、もうひとつは
ギター協奏曲集というものでありました。


Guitar Passion/VariousGreat Guitar Concertos/John Williams

でもって、以降はこれを聴きまくりという具合になっておりまして、
そうなると、やっぱり何かしら書いてしまいたくなるわけでありますよ。

これまでギター音楽に目を向けるということがなかったのですけれど、
改めて耳を傾けてみると、これがまた何とも豊穣な世界ではありませんか。

「食わず嫌い」とまでは言いませんが、おそらくは何らかのきっかけでもないと近寄らないもので、
気付いてみれば「知らずにいたら、もったいないことをしたと思ったろうな」ということがままあるのではないかと。
音楽のみならず、美術や文学やその他もろもろにも同様なことですね、きっと。

ということで、誰もが知ってるとも思われるものの、もしご存知なかったらもったいない!
という大きなお世話でタレガの「アルハンブラの思い出」を聴いてみるといたしましょう。



グラナダにあるアルハンブラ宮殿。
スペインが昔むかし、その勢力下にあったイスラムの残り香を
たっぷりと漂わせた高台の宮殿から眼下に広がる夕景を眺めやる…
てなことを思い起こさせるのではないですかね。

行ったのは9月でしたけれど、盛夏に行こうものなら暑くてかなわん!となりましょうから、
やっぱり夕景がいいかなとは思いますけれど。


ところで、ギター協奏曲の方でもとりわけ有名なのはロドリーゴのアランフェス協奏曲でありますね。
特に第2楽章アダージョは「恋のアランフェス」なんつう俗なタイトルで
ポップス・アレンジされたりしてたりしますけれど、これもやっぱり原曲で。



不思議といずれも古えの宮殿にインスパイアされてるあたり、
「兵どもが夢の跡」的なところから憂愁を湛えるところにも繋がっていくんでしょうか。
とまれ、妙なるメロディであることは間違いないですなあ。

ただ、計4枚に収録されたギターの音楽を聴いておりますと、
有名どころのアルハンブラ、アランフェスばかりが素敵な音楽ではないことに
遅まきながら気がつくわけですね。
繰り返しになりますが、ホントに気付かなかったら、もったいないと。

で最後に引っぱり出してくるのは、やっぱりカステルヌオーヴォ=テデスコのギター協奏曲であります。
先に聴いた五重奏曲の清冽な印象とは打って変わって、
なんだかにやりとしてしまうくらい可愛らしい曲なんですよ、第1楽章が。
騙されたと思ってぜひ聴いてみてくださいませ。



最終楽章には勇壮な音楽になりますので、
いささかのちぐはく感無きにしもあらずではありますが、
またまた思いがけずも楽しい曲にめぐりあったなぁと。

なんでもやっぱり試してみなくては!ですね。

人間ドック に行っとりました。
しつこさ極まる風邪の残り香がいまだにある中でしたので、
肺活量の検査ともなれば、およそ抵抗のない筒の中に
「思い切り息を吹き込んでください。ふぅ~!!!」なんつうふうにインストラクションされるものの、
静かに寝ていた咳き込みの元をたたき起こすようなことになるわけですね。


「ふ、ふぅ~、げほ、げほ、げほ…」
「あっと、少なかったようですね。では、もう一回!」
「え?」


てなことだったりしたわけでして、
その他もろもろさぞかし結果は芳しからざるものがあろうと思うところでありますよ。


…と、そういう話でなくしてですね、
検査と検査の合間の待ち時間に読んでいて雑誌に市川染五郎さんのエッセイ?が載っていて、
その中に「わかりにくいものが芸術なのか?」てなひと言があったのですね。


本文の中味はともかくとして、この部分で先日ネットでちらりと読んだニュースを思い出したわけです。
確かドイツはドルトムントの現代美術館だったでしょうか、
展示作品が清掃員に掃除されてしまったとかいうお話。
うろ覚えでどうこうするよりは、また検索してみますので、少々お待ちを。


・・・


やっぱりドルトムントのオストヴァル美術館でしたですね。

マルティン・キッペンベルガーというアーティストの製作した

「When it starts dripping from the ceiling」という造形作品でありました。


作品の一部として床に置かれた器状のものに、

しずくがついた痕のような模様が描かれていたのだそうです。
これをてっきり汚れと勘違いした清掃員がぴっかぴか!に磨き上げてしまったのだそうな。


最初に見たサイトでは、このニュースにたくさんの書き込みがしてありました。

清掃員が汚れてると思ってしまうようなものが「作品」なのか?

しかも、80万ユーロもの金額で評価されるものなのか?云々…。


金額がどうだかは分かりませんけれど、

「これが作品なのか?」といったことを叩き始めると、

およそ現代美術館は成り立たないのではないかなと思ったりしたわけです。


鑑賞者にとって分かりにくい、もっとはっきり言うと「わけわかんねぇ…」という作品には

よく行きあたりますですね。


でも、一見「なんだ、こりゃ?」というものを、

「分かる、分からない」から離れて(無理やり解釈しようとするんでなくって)、

虚心に眺めてみますと意外な発想に繋がったりすることもあります。

ま、全てではありませんし、それこそ好みもありましょうけれど。


先の書き込みの中では「清掃員、えらい!よくやった」的なのもありましたですね。

汚れを見逃さない職人魂みたいな受け止め方でしょうか。

でも、個人的にはどうしてもそういうふうには思えないですねぇ。


やるべきこととそうでないことの判断ラインを独断で超えてしまったような。

少なくとも場所は美術館ですし、その人にとってはただの桶にでも見えたとしても、

どうやらフロアの真ん中でデンと置いてあった以上、もしかしたら作品かも…と想像することは

必要だったのではないかと。


繰り返しますが、金額に見合ったものかどうかは分かりませんし、

どんなに高価なものでも興味のない人には何の価値もないということ何にでもありますから、

「金額に見合うとは思えないから掃除されちゃってもいい」みたいな話ではないですよね。


ここではむしろそれよりも、

やっぱり芸術なるものがどんどん分からない世界に行っちゃってることを

考えた方がいいかもしれないですね。


さっき「分かる、分からない」じゃなくってと言ったばかりではありますけれど、

そしてどうやらアーティストの側もともすると、「分かる、分からない」の理性でなく

感性で見てほしいてな言い分もあったりするのかもですが、

どうもそれにしては「なんでもありなのかな」とも思ったりもすることもないではない。


見極めはむつかしいですけどね。

もしかしたら100年後に評価されることになる作品なのかもしれませんし。

リアルタイムで作品に接する人はおそらくその評価のほどを知る由もありませんけれど…。