気温的には平年を上回る形で推移していたと思しきこの秋も、
めっきり「らしく」なってきたふうでありますね。


空気がずいぶんと冷たく感じられる日もあったりなんかするわけですけれど、
そんな冷たさに触れてまたハッと思い出したのでありますよ。
「そうだ、木枯らしだ!」と。


先日外回りの折にちょっとひと休みで立ち寄ったカフェ。
確か柏でインディアン・コーヒーを飲んだときだったと思うのですが、
BGMで流されていた音楽にくくっと来る瞬間があったのですね。


「確かこれはキョンキョンではなかったか…」

♪泣かないで 恋ごころよ

間違いなく知ってる曲だけれど、タイトルがいっこうに浮かんでこない。
小泉今日子さんが歌っているということも、いささか心もとない…。

♪せつない片思い あなたは気付かない

気にはなりつつもすっかりそのままになりかけてましたけれど、
やおら思い出したものですからネット検索をしてみますと、
これがやっぱり「木枯らしに抱かれて」という曲。
間違いなくキョンキョンが歌った1986年の歌でありました。



昔懐かしい音楽をふと耳にする機会というのはままありますけれど、
全てがこんなふうにくくっと来るわけではない。
おそらくこの歌が普通に流れている当時たぶん歌の内容にも絡むような「何かしら」があったんでしょうかね…。


どうにも思い出せませんが、まあ若かったからなぁ…とだけは言えるかもです。
そうやすやすと風邪にとっ捕まったりしませんでしたしねえ、あの頃は…。


ただ、心の風邪にはいともあっさりかかっていたかも。
もの想う秋でありますね…

数ある文学賞の中でも芥川龍之介賞 受賞作品というのは

何とはなし敷居が高い気がしてしまうのですね、読み手を選ぶといいますか…。


さほどの読書巧者でもないものですから、

受賞作で読んだことのあるものと言えば遥か昔に遡って、
それこそ遠藤周作 「白い人」(1955年)あたりがせいぜいだったのではないかと。


されどしばらく前に津村記久子さんの「ポトスライムの舟 」を読んでみて「何とかなった」というのは、
読み手の側が円熟したのか(まさか!)、はたまた賞の傾向が変わったのか…。


それはともかく「文体勝負!」みたいなところもある芥川賞ですが、
このところ「バーデン=バーデンの夏 」だの「狙われたキツネ 」だのと

独特の文体の小説(といっても海外作品の翻訳ですが)を読んでいたものですから、

果敢に挑んだ?のが朝吹真理子さんの「きことわ」でありました。


きことわ/朝吹 真理子

読み始めてまず思うのは、至って平易な文章だということ。

いいですね、こういうのは。


元から日本語で書かれた小説ながら、

海外の専門書を翻訳したかのような文章が続く作品もあったりする中で、
「読み手に理解されてこそ」が根付いているといいましょうか。
「ポトスライムの舟」も同様ではありましたけれど。


ただ、この平易さにうっかりすると騙されてしまうのだなと思ったわけです。
つまりすらすら読めるということは、上っ面をさらりと舐めている間に終わってしまうという。
なにしろ短い話でもありますし。


エンタテインメント性を全面に打ちだしたストーリーを持っているからといって、
それが小説と言えるかどうかは分からないところではありますが(とまた偉そう発言ですが)、
本書は明らかにエンタテインメント性は無く、むしろ大きな起伏もなく流れていく話なわけです。


この大きな起伏もなく流れていく話である点を以て

「ありがたい」小説と言っては余りに短絡的でありますが、
「こときわ」は話を読むのでなくして、情感を感じ取るものだなと思えるだけに、
日本的な文学のなんたるかを体現する末裔のようなものなのかも知れんと思ったりするのですね。


統一感という点では、情感にたっぷり浸かろうとすると

時折違和感を抱く言葉遣いに小波を立てられたりするところがあって
多分こうしたことが(文章の)若さなのだろうと思われたりもしますけれど、
概ねひたひたの状態で最後まで行けるような気がします。


とまれ、こうした情感を醸す文章にあって、

ひとつ作りこんだなと感じる点がひとつのキーワードからでしょうか。
「からまる」ということですね。


貴子(きこ)と永遠子(とわこ)の二人の女性を主人公に、幼い自分には二人がからまりあって遊ぶ、
寝てしまうと髪の毛がからんでいる…といったことに限らず、過去と現在がからまる、
夢と現実がからまる、記憶と実際がからまる状況が浮かび上がってくるわけです。


はっきりと「からまる」(あるいはこれに類する)言葉や表現が使われている箇所も多々ありますし、
そうでない描写でも「からまっちゃってんなぁ」と感じるところはさらに多いという。
考えてみれば、だいたい「きことわ」というタイトルからして、からまっちゃってますものね。


幼馴染と言える二人があるきっかけでもって25年後に再会し、
「せっかく会ったんだから、また遊ぼうね」で終わる…。


とまあ、ストーリーを言ってしまうと見も蓋も無いお話ように見えてしまうものながら

読ませる理由はあるのでして、なんだか「面白いストーリー」こそが勝負どころみたようなものに

小説が浸食されてしまってるわけではなかったことにいささか安堵したのでありました。

また偉そうな言い方ですけれども…。

先ごろロゼッタ・ストーン のことに触れたり、

はたまたクリスティー古代エジプト・ミステリ を読んだりしたものですから、
久しぶりにクレオパトラの映画を見よっと思いまして、

取り出だしたるは「レジェンド・オブ・エジプト」であります。


レジェンド・オブ・エジプト [DVD]/レオノール・ヴァレラ,ティモシー・ダルトン


エリザベス・テイラー主演のハリウッド 超大作でないところが心憎いところではありませんでしょうか。

実はこの「レジェンド・オブ・エジプト」は劇場用映画ではなくして、

米ABCが作ったテレビ映画ということであります。


DVDの特典映像に入った解説によりますと

「わざわざ映画館まで足を運ばなくていい」といかにもTVらしい手前味噌が語られるものの、
相当に大掛かりなセットを組んだロケとたくさんのエキストラでもって、

劇場用に劣らぬ大作にしようという意気込みは感じられます。


配役ではジュリアス・シーザーを演じるティモシー・ダルトンの実に堂々たること。
ジェームズ・ボンド よりも史劇向きだったのだなぁと思いますね、つくづく。
そして対比されるアントニーはビリー・ゼーンがなんとも言えぬ「とほほ…」ぶりを演じております。


解説の受け売りになりますが、

両者それぞれのアレクサンドリア 入城シーンを見比べてご覧なさいと言われると、
こうしたところも描き分けるのだぁねと思うわけです。


ところで肝心のクレオパトラ役はといえばレオノラ・バレラという女優さんでして、
制作側曰く「有名どころを使うと、クレオパトラ以前にその人らしさを思ってしまう」と
あたかもエリザベス・テイラー版を意識しているかのよう。


でもって、新人を使ったということでありますが、

相当以上に強い印象を残す結果とはなったのではないかと。
あらかじめ女優レオノラ・バレラという人の予備的な印象はないものですから、

むしろクレオパトラとしてということで、この点では制作側の思惑は成功したというべきやもしれませぬ。


ところで、この「レジェンド・オブ・エジプト」の一場面を見てハタ!と思い出したことがあるのですね。
アレクサンドリアの宮廷で女王クレオパトラがシーザーとの間にもうけた一人息子

シーザリオン王子と並んで玉座に座っている場面ですけれど、
時期が時期だけに?大阪城で家臣を迎える淀と秀頼の姿がちらついたわけでありますよ。


時期が時期というは、大河ドラマ「江」をご覧の方はお分かりのとおり、
ちょうど大阪冬の陣、夏の陣を扱った回が放送されたばかりの頃合いだものですから。


今年の初めに「江」を見始めた頃 は、いい大人が子供を演じる姿に「げげっ?!」と思ったものの、
(もっとも上野樹里であれば、なんとか見られてしまうところでありますが)
何となく慣れてしまいそのまま大人が大人を演じる姿を見続けているわけですが、
気付けば11月にもなり、いったい最後はどこで終わらせるつもりだろう…てなことを思う段階になってます。


…と「江」に深入りする必要はないのですが、

とまれ権力者亡き後、その一粒種と母親という点ではまんまだなと思ったわけですね。


そしていずれも敵対する側に比して自分の側が斜陽傾向にあり

いささかというか、かなり分が悪いにも関わらず戦いを避けることなく、死に至る…。
ひとつの王朝の終焉ともいう瞬間に立ち至るわけです。


そうはいってもこの部分が似てるなと思っただけでして、すぐに話は飛びますが、
似てるなという点では(やはり「江」の中のずっと前に放送回ですが)

結果的に秀吉の飛び込んでいく茶々(後の淀殿)を見たときには
シェイクスピア の「リチャード三世 」を思い出したのですね。


夫を殺められて嫌い抜いているはずながらリチャードの甘言に、

ついには篭絡されてしまうエドワード皇太子妃アンの姿であります。


茶々にとっての秀吉も、アンにとってのグロスター公リチャード(後に即位してリチャード三世)も
いかほど憎んでも余りある存在であるにも関わらず、

この展開は「可愛さ余って憎さ百倍」の反対バージョンでありましょうか。
ちなみにリチャードの甘言とは、こんなふうでありますね。


そのように唇にさげすみをお教えになるな、それは

軽蔑にゆがめるためではなく口づけのためにあるもの。

あなたの復讐にはやるお心が許せぬというのであれば、

さあ、この研ぎすまされた鋭い剣をお貸ししよう。

もしそれを、この真心のこもる胸深く突き刺し、

あなたに憧れる魂を迷い出させたいと言われるなら、

このように私は胸をあらわにし、ひざまずき、

あなたの手によって死を賜るようにお願いする。


ためらわれるな、ヘンリー王を殺したのはこの私だ、

だが私にそれをさせたのはあなたの美しさだ。

さあ、早く、王子エドワードを刺したのはこの私だ、

だが私をその気にさせたのはその天使のような顔だ、

その剣をとられるか、それとも私をとられるか。

ちと長くなりましたが、小田島雄志訳を引いてみました。

モーツァルト から持ってきて「女はみなこうしたもの(Cosi fan tutte)」てなふうなことを

言うつもりもありませんけれど、女性を描かれ方はこんなふうだったんでしょうか。


シェイクスピアは史実に必ずしも忠実な劇作をしたわけではないとは思うものの、

クレオパトラにしても淀殿にしても、その後の語り手(作家、脚本家)が

こうだろうなと思ったものを見ているわけですから、

歴史の中の女性像(ときにはそれが批判されて反対色が強いこともありましょう)だと

いささかの冷静さをもってドラマに見入ることも必要かなと思ったり。


もっともそうすると、かなり詰まらなくなってしまったりする可能性もありますが…。

先に読んだ「バーデン=バーデンの夏 」はおよそ句点が出てこないという独特の

文体を持った小説でしたけれど、こうした変わった形式に突き当たるときは続くものなんでしょうか、

このたび読み終えたヘルタ・ミュラー作の「狙われたキツネ」もまたなかなかに

個性的な文体であったものだと思うのですね。


狙われたキツネ 新装版/ヘルタ・ミュラー

「読み終えた」とは言ったものの、

実は一度は読み通すのを諦めてしばらく放っておいたのですけれど、
しばらくして「も少し読んでみようかね」と思ったときに「これは?!」と気付くことがあり、
その後はほぼ一気読みで進んだという。

でもって、いったい転機は何かといいますと…。


物語はチェウシェスク政権下のルーマニア、

ハンガリー国境に程近いティミショアラを舞台に展開します。


と言っても、その「展開」が難物なのでありまして、

主人公と思しきアディーナとその友人クララを軸に自分たちの周囲の事々、仕事の話、ご近所の話、

思い出話などなどが綴られていく中で、いっかな展開がないようにも思えてくるわけです。


展開がないというよりも、小さな小さなエピソードの断片が唐突に継ぎ合わさっている感じなのですね。
「もしかして、どこまで行ってもこの調子なのかいねえ?」と思ったときに、
どうしても一度は本を置いてしまうということになったのでありますよ。


さりながら、しばし後にいささか気を取り直して読み進めてみたときに気付いたことは言えば、
「これは絵巻物のような小説なんだぁね」ということでありました。


絵巻物は文字通り長い長い巻物の体裁をとっていますから

ひと目で全体像を見渡すことは至難の業なわけですけれど、
すこぉしずつずらしながら場面を見ていくと、

一場一場の様子はなるほどなという書き込みがされていますね。


ではありますが、その一場一場を漫画のコマわりのように区切ることなく、

だからこそ場面転換の境界はあいまいなままに次の場面へとなだれ込んでいくことが繰り返されるという。


この小説の、小さなエピソードのつながりに唐突さを感じたのは、
こうした絵巻物風の構成を文章でやっているからだったのだなと、こんなふうに思ったわけです。


そして全体像として気付いてみれば、

独裁政権下の日常生活というものがいかに歪められているかを思い知ることになりますが、
率直に「ねえ、酷いでしょ」と言われるよりも読み手の側が「これは…」と思うようなことが

小出しに繰り返されていくというのは、何だかじんわりと漬け込まれたかのように染み渡るものであるなと。

やはり、この文体は意図されたもの(当たり前かもですが)であったのですねえ。


それにしても、この時期のルーマニアは酷い状況だったのでしょうね。

登場人物のこんなふうなひと言だけでも、十分に重いなぁという気がしたりするのですよ。

この国を世界から遮断してくれているドナウ川があるおかげで、世界はずいぶん幸せな思いをしているんだよ。

どうにもならない状況で、自分たちで自分を貶めることでもないと「やってらんないね」という感じ。

具体的にはどんなだったかという一端は、訳者あとがきから引いてみるとしましょう。

国内で消費すべき食糧を外貨稼ぎのために輸出(飢餓輸出)に回したせいで、深刻な食糧不足に陥っていた。報道によれば、氷点下の寒さのなか個人の住宅は一日四時間しか暖房をしてはならなかったし、食料の配給も、一日パン三百グラム、月に豚肉五百グラム、卵五個などであったという。しかもパンや肉を手に入れるには夜明け前から行列に並ばなければならなかったし、並んでも手に入るかどうかはわからなかった。

こうした状況をストレートでなく描きだせるのが小説でありますね。

しかも、いささか不謹慎にも聴こえるやもですが、こうした厳しい環境下にあっても

結構人間はしたたかで、時にはあっけらかんとしてもいる。


それが反って怖かったりするんですが、

そうした状況を読み手の想像力によって増幅させるような力があるのが小説なのだなと思うのでありました。

昨晩TVで「日曜美術館」の「アートシーン」を見ておりまして、
「言われてみれば、なるほどなぁ」と思うことがあったのですね。


資生堂ギャラリーで開催中の写真展、といっても臥せってましたから見てはいないんですが、
そこに展示された作品の送り手、つまり写真家のダヤニータ・シンさんが

番組のインタビューでこんなことを言っていたのですよ。

写真はフィクションです。

この通りの言葉ではなかったとは思いますけれど、趣旨はこういうことですね。
そも写真とは「真を写す」ものですから、そこにあるのは真実の姿であって、
虚構性(いわばフィクション)とは対極にあるというふうに、自然に思い込んでいたわけです。

ところが、いざ「写真はフィクションです」と言われると「なるほど!」と唸らざるを得ない。


もちろん写真家の方の中には

「とぉんでもない!迫真性で勝負しとるんだ!」という方もおられましょうねえ。


それもそうでありましょうけれど、

では写真作品に虚構性(作りごと)が無いか…と言えば、そんなことはない。
少なくとも「そんなことはない」と思った方がよほど理解しやすいということもあるのではないかと。


例えば、番組でも紹介されたベッドに倒れこんだ少女をダヤニータ・シンさんが写した一枚。

(こちらの資生堂ギャラリーのHP でご覧ください)


「不機嫌な少女の様子が伝わってくるようです…」といった「日曜美術館」での解説に
「ほんとだよなぁ、そうとうすねちゃってるね、この子は…」と思うのでして、
「ほんのちょっとした姿からそうのが伝わるんだから凄いね、リアルな一瞬を切りとったんだぁね」

などとも思うわけです。


でも、ここに写された姿が一見しただけで「演出されたものではない」と言い切れましょうかね。

この作品が計算づくの演出で作られたものかどうかは分かりませんけれど、
少なくともこれまでそういう視点で眺めたことがなかったような。


例えば、明らかに作為が見て取れるものの多い植田正治 さんの作品などは別としても、
どうも端から「写真はリアリズム 」と思い込んでしまっていたところへ揺すぶりを掛けられた感があるという。


勝利のキス


この有名な「勝利のキス」という写真でも、
確かに決定的な一瞬という点では間違いなくリアリティの切り取ったものながら、
見る者からすればそこに物語(フィクション)を想像してしまう…。


もしかして作者の側で「見る者がきっとそれぞれに物語を想像するだろう」と思っていたとしたら、
それだけでも作為的な虚構を大いに意識した作品ということになりましょうし。


他にも前にいささか探究したアンリ・カルティエ=ブレッソン の作品では、
水溜りを飛び越える男の人が現れるのをひたすら待ち続け、

あるいはひたすらにシャッターを押し続ける中で「これぞ!」という一枚があったのかもしれず、

その点に作為性を持ち込む余地はありませんけれど、逆にこの一瞬というのは

人間の眼にはあっという間に過ぎ去ってしまう一連の切り離せない動作の中でしか捉えようが無いのでして、
さすれば「これをリアルであるかどうか」を判断する術を実は持っていないことになりますね。


そうであればこそ、人間が中に浮いて泊まった一瞬というのは現実の世界ではあり得ないだけに、
それを示してみせること(そして、それを見た人が何かを思うことも含めて)虚構に限りなく近づくような…。


なるほど、写真はフィクション!か…