先ごろロゼッタ・ストーン
のことに触れたり、
はたまたクリスティー
の古代エジプト・ミステリ
を読んだりしたものですから、
久しぶりにクレオパトラの映画を見よっと思いまして、
取り出だしたるは「レジェンド・オブ・エジプト」であります。
エリザベス・テイラー主演のハリウッド
超大作でないところが心憎いところではありませんでしょうか。
実はこの「レジェンド・オブ・エジプト」は劇場用映画ではなくして、
米ABCが作ったテレビ映画ということであります。
DVDの特典映像に入った解説によりますと
「わざわざ映画館まで足を運ばなくていい」といかにもTVらしい手前味噌が語られるものの、
相当に大掛かりなセットを組んだロケとたくさんのエキストラでもって、
劇場用に劣らぬ大作にしようという意気込みは感じられます。
配役ではジュリアス・シーザーを演じるティモシー・ダルトンの実に堂々たること。
ジェームズ・ボンド
よりも史劇向きだったのだなぁと思いますね、つくづく。
そして対比されるアントニーはビリー・ゼーンがなんとも言えぬ「とほほ…」ぶりを演じております。
解説の受け売りになりますが、
両者それぞれのアレクサンドリア
入城シーンを見比べてご覧なさいと言われると、
こうしたところも描き分けるのだぁねと思うわけです。
ところで肝心のクレオパトラ役はといえばレオノラ・バレラという女優さんでして、
制作側曰く「有名どころを使うと、クレオパトラ以前にその人らしさを思ってしまう」と
あたかもエリザベス・テイラー版を意識しているかのよう。
でもって、新人を使ったということでありますが、
相当以上に強い印象を残す結果とはなったのではないかと。
あらかじめ女優レオノラ・バレラという人の予備的な印象はないものですから、
むしろクレオパトラとしてということで、この点では制作側の思惑は成功したというべきやもしれませぬ。
ところで、この「レジェンド・オブ・エジプト」の一場面を見てハタ!と思い出したことがあるのですね。
アレクサンドリアの宮廷で女王クレオパトラがシーザーとの間にもうけた一人息子
シーザリオン王子と並んで玉座に座っている場面ですけれど、
時期が時期だけに?大阪城で家臣を迎える淀と秀頼の姿がちらついたわけでありますよ。
時期が時期というは、大河ドラマ「江」をご覧の方はお分かりのとおり、
ちょうど大阪冬の陣、夏の陣を扱った回が放送されたばかりの頃合いだものですから。
今年の初めに「江」を見始めた頃
は、いい大人が子供を演じる姿に「げげっ?!」と思ったものの、
(もっとも上野樹里であれば、なんとか見られてしまうところでありますが)
何となく慣れてしまいそのまま大人が大人を演じる姿を見続けているわけですが、
気付けば11月にもなり、いったい最後はどこで終わらせるつもりだろう…てなことを思う段階になってます。
…と「江」に深入りする必要はないのですが、
とまれ権力者亡き後、その一粒種と母親という点ではまんまだなと思ったわけですね。
そしていずれも敵対する側に比して自分の側が斜陽傾向にあり
いささかというか、かなり分が悪いにも関わらず戦いを避けることなく、死に至る…。
ひとつの王朝の終焉ともいう瞬間に立ち至るわけです。
そうはいってもこの部分が似てるなと思っただけでして、すぐに話は飛びますが、
似てるなという点では(やはり「江」の中のずっと前に放送回ですが)
結果的に秀吉の飛び込んでいく茶々(後の淀殿)を見たときには
シェイクスピア
の「リチャード三世
」を思い出したのですね。
夫を殺められて嫌い抜いているはずながらリチャードの甘言に、
ついには篭絡されてしまうエドワード皇太子妃アンの姿であります。
茶々にとっての秀吉も、アンにとってのグロスター公リチャード(後に即位してリチャード三世)も
いかほど憎んでも余りある存在であるにも関わらず、
この展開は「可愛さ余って憎さ百倍」の反対バージョンでありましょうか。
ちなみにリチャードの甘言とは、こんなふうでありますね。
そのように唇にさげすみをお教えになるな、それは
軽蔑にゆがめるためではなく口づけのためにあるもの。
あなたの復讐にはやるお心が許せぬというのであれば、
さあ、この研ぎすまされた鋭い剣をお貸ししよう。
もしそれを、この真心のこもる胸深く突き刺し、
あなたに憧れる魂を迷い出させたいと言われるなら、
このように私は胸をあらわにし、ひざまずき、
あなたの手によって死を賜るようにお願いする。
ためらわれるな、ヘンリー王を殺したのはこの私だ、
だが私にそれをさせたのはあなたの美しさだ。
さあ、早く、王子エドワードを刺したのはこの私だ、
だが私をその気にさせたのはその天使のような顔だ、
その剣をとられるか、それとも私をとられるか。
ちと長くなりましたが、小田島雄志訳を引いてみました。
モーツァルト
から持ってきて「女はみなこうしたもの(Cosi fan tutte)」てなふうなことを
言うつもりもありませんけれど、女性を描かれ方はこんなふうだったんでしょうか。
シェイクスピアは史実に必ずしも忠実な劇作をしたわけではないとは思うものの、
クレオパトラにしても淀殿にしても、その後の語り手(作家、脚本家)が
こうだろうなと思ったものを見ているわけですから、
歴史の中の女性像(ときにはそれが批判されて反対色が強いこともありましょう)だと
いささかの冷静さをもってドラマに見入ることも必要かなと思ったり。
もっともそうすると、かなり詰まらなくなってしまったりする可能性もありますが…。