昨晩TVで「日曜美術館」の「アートシーン」を見ておりまして、
「言われてみれば、なるほどなぁ」と思うことがあったのですね。
資生堂ギャラリーで開催中の写真展、といっても臥せってましたから見てはいないんですが、
そこに展示された作品の送り手、つまり写真家のダヤニータ・シンさんが
番組のインタビューでこんなことを言っていたのですよ。
写真はフィクションです。
この通りの言葉ではなかったとは思いますけれど、趣旨はこういうことですね。
そも写真とは「真を写す」ものですから、そこにあるのは真実の姿であって、
虚構性(いわばフィクション)とは対極にあるというふうに、自然に思い込んでいたわけです。
ところが、いざ「写真はフィクションです」と言われると「なるほど!」と唸らざるを得ない。
もちろん写真家の方の中には
「とぉんでもない!迫真性で勝負しとるんだ!」という方もおられましょうねえ。
それもそうでありましょうけれど、
では写真作品に虚構性(作りごと)が無いか…と言えば、そんなことはない。
少なくとも「そんなことはない」と思った方がよほど理解しやすいということもあるのではないかと。
例えば、番組でも紹介されたベッドに倒れこんだ少女をダヤニータ・シンさんが写した一枚。
(こちらの資生堂ギャラリーのHP でご覧ください)
「不機嫌な少女の様子が伝わってくるようです…」といった「日曜美術館」での解説に
「ほんとだよなぁ、そうとうすねちゃってるね、この子は…」と思うのでして、
「ほんのちょっとした姿からそうのが伝わるんだから凄いね、リアルな一瞬を切りとったんだぁね」
などとも思うわけです。
でも、ここに写された姿が一見しただけで「演出されたものではない」と言い切れましょうかね。
この作品が計算づくの演出で作られたものかどうかは分かりませんけれど、
少なくともこれまでそういう視点で眺めたことがなかったような。
例えば、明らかに作為が見て取れるものの多い植田正治
さんの作品などは別としても、
どうも端から「写真はリアリズム
」と思い込んでしまっていたところへ揺すぶりを掛けられた感があるという。
この有名な「勝利のキス」という写真でも、
確かに決定的な一瞬という点では間違いなくリアリティの切り取ったものながら、
見る者からすればそこに物語(フィクション)を想像してしまう…。
もしかして作者の側で「見る者がきっとそれぞれに物語を想像するだろう」と思っていたとしたら、
それだけでも作為的な虚構を大いに意識した作品ということになりましょうし。
他にも前にいささか探究したアンリ・カルティエ=ブレッソン
の作品では、
水溜りを飛び越える男の人が現れるのをひたすら待ち続け、
あるいはひたすらにシャッターを押し続ける中で「これぞ!」という一枚があったのかもしれず、
その点に作為性を持ち込む余地はありませんけれど、逆にこの一瞬というのは
人間の眼にはあっという間に過ぎ去ってしまう一連の切り離せない動作の中でしか捉えようが無いのでして、
さすれば「これをリアルであるかどうか」を判断する術を実は持っていないことになりますね。
そうであればこそ、人間が中に浮いて泊まった一瞬というのは現実の世界ではあり得ないだけに、
それを示してみせること(そして、それを見た人が何かを思うことも含めて)虚構に限りなく近づくような…。
なるほど、写真はフィクション!か…
