以前はよく見ていたNHKの大河ドラマも、歳のせいか、はたまた単に興味がないせいか、

登場人物のキャストがいつの間にか知らない名前ばかりになって、
ずいぶんと遠ざかったおりました。ここ十年近く見ていないような…。


それが、今年の「江」は「久しぶりに見ちゃおかねえ」という気分になっておりまして、
初回に続き昨日の2回目もしっかり見ていたわけです。


これは先日少しばかり俵屋宗達 を探究しました折に、
「こんな繋がりが…?!」ということに出くわしたことにもよるのですよ。


俵屋宗達、本阿弥光悦「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(部分)


俵屋宗達と本阿弥光悦とは、

例えば「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を共作していますように深いつながりがあったのですが、
その本阿弥光悦はといえば、光悦の姉が京で呉服商を営む雁金屋(つまりは尾形家ですが)に嫁いで、
尾形宗伯の母となりますから、光悦と宗伯は叔父甥の関係。


そして、宗伯は尾形光琳の祖父に当たると言うことで、
後に光琳が宗達に私淑する素地といいますか、構図が浮かび上がるのですね。


ところでその雁金屋を起こした初代の尾形道伯という人は

実は浅井家の元家臣だったようでありますね。


後に御所まわりにも出入りが許されるようになるそうなんですが、
これは後水尾天皇に徳川秀忠の娘(和子、後の東福門院)が輿入れした後に、
秀忠の正室となっていた江が、浅井家と尾形家との浅からぬ縁故に口添えをしたのだとか。
(もっとも、江が和子の生みの親ではないのですね)


ということで、ようやく浅井長政の娘、江の話に戻ってきました。
ですが、最近の大河ドラマを先入観なくご覧になられる方に違和感はないのかもしれませんけれど、
いささかちゃらちゃらした雰囲気が付いているのは、近年の傾向なんでありましょうかね。
(って、最近見てなかったから、ほんとは何も言えんのですが…)


上野樹里 に水川あさみと来たら「のだめカンタービレ 」を思い出すなという方が無理がありますが、
水辺の二人のお戯れなどは「うむむ、見てられん…」と思いかけたところであります。


が、その後お市が娘三人を連れて安土城 に上ったのが天正七年とあって、
信長とのやり取りの中で江の生まれが「天正の初めであったな」と語られることからすると、
このとき江は7歳くらいということか!とびっくらこいたわけです。


この時点では、江を演ずる上野樹里を7歳に見なくてはいかんのか、
その姉である初をやっている水川あさみにしても、せいぜい10歳とか…?!
これは「うむむ」ですなぁ。


まあ、そうしたあたりは

やがて見た目どおりくらいにすぐ追いつくでしょうから、目をつぶるとしましょうか。


それよりも、昨日の信長の台詞の方にちと目をむけましょうか。

信長は江に対して「おのれを信じ、おのれの思うまま存分に生きよ」てなことを言うんですね。


このあたり、江にとっては伯父にあたる信長が父・浅井長政を攻め滅ぼした後に、
長政のされこうべを盃にして酒を酌み交わしたとの風聞の真偽を信長に質しにいったところであります。


信長は風聞をとかく口さがないものとした上で盃の一件を否定し、
本当の真偽がいずれかは「おのれを信ぜよ」と続くわけです。
これは信長自身が「信ずるものは自分のみ」としているからでもあるんですね。
(この辺、家康が信長と江は似ておると言ってたのも、うまく効きますね)


ここからやおら卑近な話に落とすのもなんですが、
省みたときに「おのれを信じて生きよ」を言われても難しいかろうなあと思ったりするわけです。
が、これもサローヤン を読んだときではありませんが、発想の転換 なのかなと。


もちろん(事跡のあれこれはともかく)歴史に名を刻んだような人の真似(?)を単純にしようったって、
下手すれば傲岸不遜になってしまったり、傍若無人の輩になってしまいますね。
おのれを信じ、頼むところは自分のみ!なんつうふうに考えていると。


でも、だからといってあまりに他人の顔色を見るとか、風評を気にするといったことを忘れ、
呵呵大笑していた方が精神的にも健全性が保てるだろうなぁと思ったりしたわけです。


なんだか取りとめもない思いつきのつながりでここまで書いてきましたけれど、
気持ちがシュリンクしていくと思いつきのつながりすら絶ち切れがちになるのでして、
その時は次に繋がるとまで考えずとも「何かしらしてみる」ことが
結果いろいろなことに繋がっていくものだなぁと思ったのでありました。
これでまた、もうひと皮剥けましたかね…。