これまた年末のことでありますけれど、
ほんの少々でも何かしら知ることができればと日本絵画 に目を向けていたのですね。
せっかく萌した興味でありますから、さても少し本でも読んどくかなと手に取ったのが
芸大の先生が著した平凡社新書「俵屋宗達」でありました。


俵屋宗達 琳派の祖の真実 (平凡社新書)/古田 亮


副題に「琳派の祖の真実」とあるように、
世間一般的に宗達は尾形光琳という大河に注ぎ込む源流であるとされているようで、
それだけに「琳派の祖」とされながらも、どうやら「琳派」のうちにひとくくりされているようなのですね。


「ようなのですね」というのは、そんなことも知らない素人だからなんですが、
本書を読み始めてすぐ、「はじめに」にあった文章を読んで「そうだよな、それならね」と思ったのですよ。

古いものを古臭いと片付けずに、むしろ新しいものとして「発見」していくことは、専門家であろうとなかろうと、美術作品を見るすべての人びとに公平に与えられた喜びである。専門家は専門家ならではの課題をもって作品に向かっているものだが、非専門家の特権は、それとは違う視点で作品を眺め、想像力を働かせることにある。

こう言ってもらえると、いかに日本美術のことを知らなくても勇気百倍を得て、
読み進めることができたのでありました。


いきなりですが、著者曰く「宗達は琳派ではない!」と。
もちろん「琳派とは何ぞや」からして考察が必要になりますけれど、
明治以降、欧州からのジャポニスム の逆輸入の影響もあってか、
日本の美術が再認識される過程で、とにかく尾形光琳がチャンピオンとして脚光を浴びたところが
出発点のようでありますね。


その超有名な光琳が私淑したのが宗達であった…
となると、「どれどれ宗達はどんなんかいね?」となりますし、
先に言ったように「光琳の先達なんだから、琳派の祖ということにしましょうか」てな具合かもですね。


ただ、琳派なる一派というには、そのつながりが「私淑」であったと言う点、
つまりは直弟子や例えば孫弟子とかいう直接的な教授関係になかったことから生ずる
宗達と光琳の違いを著者は指摘するわけです。
同じ流れの中では語りえないであろうと。


素人らしい想像をすれば、

宗達の「風神雷神図」を光琳は模写しているではないかと思ったりしますけれど、
これも例えば一昨年ウィーン美術史博物館 でも見かけたような、

名作絵画の前にイーゼル立てて一部の狂いもなく写し取る模写とは全く違っていて、

宗達には宗達の個性が出ているのはもちろんのこと、光琳の方にも光琳の個性が全開で、
いささかも宗達に倣おうとはしていないと言うのですね。
「私淑」=「宗達的」になろうではなかったと。


俵屋宗達「風神雷神図屏風」

尾形光琳「風神雷神図屏風」


上が宗達、下が光琳。

並べて見ますと、一目瞭然かなという気もします。


以前、何かしらのCMだったか、たぶん宗達作でもって右手から風神がどんどこ駆け込んでくる様子や
雷神が左上方から斜めに切り込んでくる様子を使ったのがありましたけれど、
まさにこうした動きを感じさせるのは宗達ならではですね。


それに比して光琳の方はといえば、完全に止まっているといいましょうか…。

(雲が多い分、完全に乗っかっちゃってるようで、動きが抑制されてるというか…)
「紅白梅図屏風」とか「燕子花図屏風」のようにデザイン的要素に極めて優れた光琳は光琳で、
「光琳ならでは」の作を他に残しているだけに、

本来「風神雷神図」のような題材は光琳向きではなかったのではと思えてきます。


ところで、「風神雷神図屏風」を今一度見てみると、
宗達の方では雷神の太鼓は上が切れているのに対して、光琳の方はしっかり収まっているのですね。

これは先の躍動感とも関わることでしょうけれど、思うところはトリミングの妙ではないかと。


俵屋宗達「舞楽図屏風左隻」 俵屋宗達「舞楽図屏風右隻」


もう一つ宗達作品で「舞楽図屏風」を見てみますと、

右下と左上、それぞれが大胆にカットされてます。
こうしたことは西洋絵画では写真の普及が影響を及ぼしたところでありましょうけれど、
宗達の時代に写真が伝わっているとは思えませんから、

結構革新的なことだったのかなと思ったり。


例えば、写真をよくしたエドガー・ドガ には

やはりトリミングの妙を感じさせる作品があったりしますけれど、
対象をキャンバスの中にはっきり描き出すことから、

構図の点でも大きく転換していったのは印象派以降かもしれません。


そうしたことと比べても、俵屋宗達という人、

生没年も不詳なら作品の製作年もあれこれ説があるという謎の人ながら、
大変な絵師であったのだなと(まったくもって今さらながらですが)思うのでありました。