この間、国語の教科書
のところで触れた「いわおの顔」というお話。
原作がナサニエル・ホーソーンの「The Great Stone Face」だということが分かったものですから、
これを手がかりに探してみましたところ、果たして読むことができました。
ただ、洋販ラダーシリーズの中の一冊でして、
ご存知の方も多かろうと思いますが、英語学習用に限られた語彙に書き改めた文章になっているという。
この「The Great Stone Face」は1000語を使用するレベル、最初歩レベルだそうでありますよ。
なるほど確かに読みやすいとは思うものの、それでも知らない単語がちらりほらり。
さらには熟語的な使い方に至っては相当以上に忘れとるなぁというのが本音でありますね。
ま、全然使いませんからねえ、英語も(と言い訳じみたひと言)。
さはさりながら、話の筋はひと通り理解できたわけですが、
「そっか、こういう話だったか」と。
山間の谷沿いの村に生まれたアーネスト。
谷の向こうに見える岩壁には穏やかな老人の顔とも見えるところがあるのですが、
アーネストはその「いわおの顔」にあれこれを語りかけたりしながら熟考することで
いろいろな物事を学んでいくのでありました。
また、母親から教わった「いつか『いわおの顔』を持つ人がやってきて、みんなを幸せにしてくれる」という
言い伝えを信じて、その日を待ち続けているのでもありました。
あるとき、この村出身で都会へ出、商売で大成功したお金持ちが帰ってくることになり、
出迎える皆が「おお、いわおの顔にそっくりだ」というのですが、
アーネストにはどこも似ているようには見えません。
また別のときには、村出身で兵隊に行って大活躍、将軍になって帰ってきた人も
皆は「いわおの顔!」と言うものの、アーネストにはぴんとこない。
大政治家になった者が帰ってきたときも全くおんなじでした。
…ということで、言い伝えは本当になるのかどうかというところでありますけれど、
結局のところ、村から出ることもなく毎日の仕事に黙々と精を出し、
「いわおの顔」と語り合っては人生を深く考えていったアーネスト自身が、
実は「そっくり」になっていた…ということなわけです。
たぶん、教科書で読んだときには「ふむふむ」と感心したのだと思いますが、
小学生のときに受けた印象とは違う点で考えたいところでありますね。
それというのも、どうもこのお話というのは「アメリカっぽくないんではないかいね」ということなのでして。
極めてステレオタイプでアメリカを捉えた印象かもですが。
この話の中でアーネストがちっとも「いわおの顔」に似てないと考える人物たちが、
例えば金持ちの商人、将軍、政治家…と次々登場しますけれど、
アメリカン・ドリームと言っては的外れかもですが、
そうはいってもこの人たちはそれぞれに立身出世を果たした人たちではありましょう。
そうした人たちを「この人たちは『来るべき人物』ではない」と否定しておいて、
(最初の商人の名前がMr.Gathergoldという名前であることを補足しておきます)
実はその人物は立身出世とは全く縁の無い暮らしをしてきたアーネストでしたという。
もっとも皆が皆、立身出世を目指してるのがアメリカだというつもりはありませんが、
別の喩えで言えば「転石、苔を生ぜず」(A rolling stone gathers no moss.)のアメリカ的受け止め方で
「苔生しちゃうのはよろしくないから、元気に転がる石でいましょうね」というところからも
アーネストの生き方が結果的にも称揚されるのはアメリカ的でないような気がしたのですが、
はていかがでありましょうや。
ときに、Wikipediaの「ナサニエル・ホーソーン」の項にはこんな記述がありましたので、
ちとお借りいたしますと…
彼が『緋文字』を発表し注目を集め始めていたころ、アメリカでは市場主義経済が発達し文学作品も「商品」としての色合いが強くなる。これにより文学の芸術的価値より大衆の評判が重要視され始めホーソーンはこのギャップに苦しむことになる。実際に彼の作品である『七破風の館』では登場人物にこの心境を投影してうわべの作品が大衆にはうける、といったことを訴えており、芸術家としての作家という考えを持っていた彼がその才能を存分に発揮できないジレンマや葛藤が認められる。
もしかしたら、大衆受けするということが
実は中身をよく見ることもなしに見かけによって左右されてしまっているようなことを
ホーソーンは易しい物語に込めたのかもしれんなぁと、思ったりしたのでありますよ。
