しばらく前に千葉県の柏 に行きましたときに気付いたのですけれど、
柏駅からさほど遠からぬ場所に東葛飾高校という県立校があったのですね。


「何故ここに『葛飾』が出てくるのであろう?」と思ったことに端を発して、
あれこれ見てみますと、どうやら「葛飾」なる地名はなかなかに由緒のある地名であるようす。
なにしろ万葉集にも出てくるのだそうでありますよ。


そして、そのエリアはといえば

今の東京、千葉、埼玉、茨城にも跨る(もちろん全域ではありませんが)広範な地域であったそうな。
言われてみれば、かつて浦安のあたりを千葉県東葛飾郡とか言っていたような気もしますし、
埼玉にも南葛飾郡なんつうのがあったような気が。


市町村合併が進んで、東京近郊に「郡」はほとんど残ってないでしょうから、

今は昔のお話やもしれませぬ。


そんな具合ですので、

東京に残る葛飾区という地名が結構「葛飾」の専売特許的なものになりつつあるかのようです。
そして、その専売特許性の全国区的な広がりに貢献したのが、「生まれも育ちも葛飾、柴又」という
車寅次郎の名台詞ということになりましょうか。


またまた枕が長くなってますが、
先の週末には両親ともども柴又をゆるりと回ってきたものですから…と繋がっていくお話であります。


しかしまあ、柴又というところは帝釈天というお寺さんの門前町とはいえ、
今日の賑わいがあるのは、とにもかくにも寅さんのおかげでありましょうねえ。


交通の点でも、ちょっと前に北総開発鉄道の新柴又駅ができたものの、
基本的には京成金町線という支線が通るだけで、周囲には狭い道路ばかり。

そのせいもあってか、整備されつつある江戸川の土手沿いの道路は車の飛ばし方が尋常でない?ような。

ともあれ、柴又の玄関口である京成柴又駅に到着すると、
さっそくに寅さんがお出迎えとなるわけです。


柴又駅前 車寅次郎像


そしてそのまま帝釈天の参道を進んでみれば、狭い通りの両側に土産物屋がずらり。
しかもこれが大層な人出なのですよね。


帝釈天参道


そして、こうしたお店も観光客がイメージする「柴又らしさ」を増幅させようとの演出なのでありましょうね。


懐かしのキンチョール


でもって、やがて見えてくるのが、帝釈天。
どうしたって「男はつらいよ」を思い出して、主題曲が頭を過ぎるというものです。

帝釈天二天門


さすがに映画に使って絵になるように、松の枝ぶりも見事な立派なお寺さんですね。


帝釈天 帝釈堂


帝釈天にお参りしてそのまま境内を通り抜け、裏手から続く道を進んでいきますと、
「山本亭」なる施設に突き当たりますが、今回はこちらも通り抜けだけさせてもらいました。

山本亭の菊


園庭の一角にたくさんの菊が飾ってありましたが、如何せんこの間川越の菊まつり

もっと仰山見てしまいましたから、申し訳ないながらさらっと通り過ぎただけ。


で、こうして通り抜け通り抜けで進んでいきますと、やがては江戸川べりに到着。
すぐそばにある「寅さん記念館」がまた賑わっておりましたっけ。
中も一回りしましたが、さすがに本場とあって前に信州小諸 で立ち寄った施設とは格段に違いますなぁ。


と、寅さん、寅さんはこれくらいにして、やおら演歌の世界に突入しようかと。

♪連れてぇ逃ぃげてぇよぉ~ 付いてぇおぉいでぇよぉ~

ま、ご存知の人にしか分からないでありましょうが、
江戸川の河原へ降りて辿り着くのは「矢切の渡し」なのですね。
看板がまたさりげなく…

矢切の渡し 柴又側


渡し舟に乗り込みがてら、船頭さんに100円を差し出すのが乗船手続きの全て。
乗船券だの改札だのという余計なものは一切なし。


しかもですね、そのときの陽気にもよるとは思いますが、
流れがまるで無いような、まるで瀞のような川面なのですね。
そこを櫂で漕ぐ和船の恐ろしいほどにゆったりした動きに揺られているというのは、
やおら異空間に放り込まれたかのようでありましたよ。

ゆらり和船の渡し舟


向こう側も、舟にでも乗ってなければとても船着場だとは気付かないのではないかと。
こうした渡してもらった先は、千葉県松戸市。
元は東京都葛飾区にいましたから、都県境を越えてきたのだとしみじみ。


ところが、都県境を越えたのだということは、実は視覚的にもこれほど一目瞭然だとは思いもせず、
松戸側の土手に上がって、そこに見たものは…。

矢切の渡し 松戸側


一面のねぎ畑。
そして、柴又側に比べて妙に大きな「矢切の渡し」の看板。
松戸側にとっては、貴重な貴重な観光施設として強力プッシュ!のご様子。
そこで、改めて川向こうの東京側を振り返ってみれば…。

江戸川越しに柴又方面を望む


家並みが続いている、その向こうにはスカイツリーが。
ああ、やっぱり東京だぁと。


言い回し的には東京擁護とご覧になったやもですが、
これは一概にどちらがいいとは言えないなぁとは思っておるのですよ。
何しろ個人的には自然貧乏ですから。


ただ、中心がぐおっと広がり続けてきた家並みが江戸川で堰き止められた感がありますね。
この「際」の状況がまた柴又の魅力だったりするのもしれんなぁと思ったのでありました。

このところ川越城 やら御台場 やらと、またしても戦国から江戸期、

そして幕末へかけての歴史の流れに気を取られがちになっておりますけれど、

そこでまた会期ぎりぎりで駆け込む形となったのが原宿にある太田記念美術館でありました。


「浮世絵 戦国絵巻~城と武将」@太田記念美術館


「浮世絵 戦国絵巻~城と武将」という特別展が11月27日まで開催中ということで、
常々気にはなっていたのですけれど、「この際だから、行っとくか」というわけでありますよ。


とまあ、軽い気持ちで出かけたものの、これは面白い展覧会でしたねえ。
タイトルどおりにお城と武将を眺めにいくくらいのつもりでいたのですが、
のっけから解説に書かれていた「江戸幕府の規制」という文字に目を留めて
「そうだよなぁ」と思ってからは断然見方を変えて臨んだのですね。


その規制の内容でありますが、ひとつには
東照大権現として神格化された徳川家康を題材にしてはいけないのはもちろんのこと、
家康が絡んだ戦いである関ヶ原や大坂の陣なども不可であるということ。


家康が勝ったものは、これを取り上げて大々的に取り上げて徳川史観を称揚するならあり!と
しそうなもんですが、そうでもなかったようで。


さらには信長・秀吉を始めとして同時代の武将や紋所を描き出すことも禁止であったとか。
実際に当時人気であった「絵本太閤記」に取材した作品でもって、
喜多川歌麿は処罰を受けたこともあったのだとか。


されど、絵師たちがひと筋縄ではいかない存在であることは洋の東西を問わないところなのか、
ナポレオン三世を諷刺したグランヴィルやドーミエ を思い出してしまうところでありまして、
検閲を潜りぬける策をあれこれ講じたという。


そこで自ずと「どれどれ、どうやって?」という見方になってくるわけですが、
それにしても「よくこれで検閲を通すなぁ」と思しき時代設定やら人物名の変更が実態となると、
いささか「開いた口がふさがらない」ような面もあるわけでして。


例えば人名でいいますと、百姓から成り上がる秀吉の生涯を扱った「太閤記」は人気作だったようですが、
これに出てくる人物たちとして、小田春永、佐藤正清、吹嶋政守といった名前があれこれの絵に見てとれます。
これらがそれぞれ織田信長、加藤清正、福島正則を表していないと考える方が反って不自然かと。
検閲方針が「疑わしきは罰せず」であったとはとても思われないのですが…。


時代設定を変える方もですね、
山名と細川の大激突を描いた合戦画と見える一枚では、
東西に分かれた陣営をそれぞれ「山名」「細川」と文字で示して

さも応仁の乱の場であるかのようにしていながら、
(応仁の乱は徳川時代の遥か前ですから、お咎め無しなのでしょう)
右上の端の山並みにやはり文字で「洞ヶ峠」「大和勢」と書かれているのですね。


何にもしないで高みの見物よろしく日和見に及んだことから

「洞ヶ峠を決め込む」てな言葉が残ってしまうくらい有名な話ですが、
明智光秀から加勢を求められた大和の領主・筒井順慶が洞ヶ峠で動かなかったのは

山崎の合戦であるのは明らか。


秀吉が天下取りにぐぐっと近づいたこの戦いの辺りでは、
堺にいっていた家康は難を逃れて伊賀の山中を通り抜け、

浜松までほうほうの体でたどりついたという絡みからすれば、
「描いちゃっていいのかなぁ」と思ったりするわけです。


さりながら歌川貞秀がこれを描いた1847~48年頃ともなると、
ペリー の黒船こそ来航前であったものの、ひたひたと忍び寄る外国勢力への対応で
「このくらいのことにかまってる暇はない」てな感じだったですかね。


とまあ、機能してるのかしてないのか…みたいな検閲制度ですけれど、
例えば歌川芳虎が1849年に描いた「道化武者 御代の若餅」なる一枚は
物議を醸したそうな。


歌川芳虎「道化武者 御代の若餅」


4人の武将がそれぞれ餅をつく人、こねる人、餅を伸ばす人、そして食う人という立場で描かれてますが、

衣服をみれば餅をつく人が織田家、こねる人が明智家の紋と見て取れ、
さらには餅をのばす人がどう見ても猿の顔になっているとなれば、

餅を食ってるのは誰だかこれまた明らか。


この諷刺の意をどうやら検閲の係が気付かずじまいで、

売りに出された絵は大評判になったのだとか。

それがために後から寓意を悟られて、半日で没収となったといいますが、
面白おかしく神君家康公を描かれてしまっては幕府の面目丸つぶれではなかったかと思われますね。


ということで、絵を見に行ったと言うよりも、

歴史のおさらいと江戸の世相に思いを馳せるようなところのある展覧会であったかもしれません。

が、面白かったですよぉ。

たぶんモーツァルト を愛してやまないような方々はちゃあんとアンテナを張っておられたのでしょうけれど、

たまたま「おお、こんな催しが密かに行われておったのか」と目にとまったものですから、

立ち寄ってみたという次第。


「モーツァルトの顔」@第一生命本社1階ギャラリー


日比谷の第一生命本社ビルの1階で25日まで開催されていた

「モーツァルトの顔 18世紀の天才をめぐる6つの物語」という展示であります。


いくつかの自筆譜などもありましたけれど、

メインと思しきものはフライヤーに使用されているヨーゼフ・ランゲ描くところの

「クラヴィーアに向かうモーツァルト」の本物が日本で初めて展示されるというもので、

それに連なってモーツァルト本人や家族の肖像画を見比べるところも

お楽しみだったのかなと思うわけです。


まあ、日本初公開!てな部分の話題性はありますけれど、

ランゲという人はモーツァルトの妻コンスタンツェの姉の亭主で舞台役者であって、

画家でもなんでもないんですが、コンスタンツェが「よく似てる」と言ったのだとか。


「クラヴィーアに向かうモーツァルト」といいながら、

フライヤーで隠れてしまってる部分は未完成で、実はクラヴィーアも描かれていないのですよね。


さしずめコンスタンツェが姉の旦那に「よいしょ!」したのかもと思ってしまいますが、

上野の西郷さんの銅像のように、奥方から「こげん人じゃなか」みたいに言われるよりはいいでしょうけど。


とまあ、一番の目玉作品をのっけから腐すのもおとなげないことではありますけれど、

いくつかの肖像画を見ていて、ハタと気付いたことがあるのですね。

まずはこれをご覧ください。


ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ「モーツァルト一家」


ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェによるモーツァルト一家を描いたものであります。

左から姉のナンネル、ヴォルフガング、壁の絵になっちゃってる母アンナ・マリア、

そして右側が父レオポルトですが、ヴォルフガングのところだけちと拡大してみます。


ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ「モーツァルト一家」の部分


あんまり大きくなってませんが、ご容赦を。

と、ここで母アンナ・マリアの単独肖像画を見てみます。


ピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニ?「アンナ・マリア・モーツァルト」


上の家族肖像画の中ではいささか鷲鼻っぽさがちと強いですが、

下の単独肖像画で見る限り、ヴォルフガングとそっくりですよね。


それではちなみに父親の方はというと、やっぱり家族の中でみるとあいまいですが、

単独肖像画をもってきてみましょう。


ピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニ「レオポルト・モーツァルト」


さしあたり鼻に注目しますが、息子のヴォルフガングとは全く似てませんですねえ。

まあ、鼻の似てる似てないだけで話を大きくするつもりはないのですけれど、

それにしてもヴォルフガングは母から受け継ぐところ大なるものがあったのではないかと思ってしまうわけです。


音楽的な素質は父レオポルトの賜物やもしれませぬが、人間的気質は母アンナ・マリアからかも。

モーツァルトが結局のところザルツブルク の父の元から飛び出してしまうのは、

父親にしてみれば「俺の息子が、俺の考えがなぜ分からのだ!」てなふうに

多くを語らずとも自分とおんなじ考えが息子にも根ざしているはずと思いこんでしまった…

てなことがあったのかなぁと思ったりしたわけなのですよ。


ウィーン 土産の目ん玉型チョコレートを始めとして

モーツァルトの肖像はよく目にするところではありますけれど、

あれこれ見比べてみて、想像を否妄想をかき立てる展示なのでありました。

ということで今や「お台場 」といえば歴史的な意味合いよりも、
湾岸のお洒落な街というイメージの方が強いのやもしれませぬが、
そうした部分の象徴のようなもののひとつがレインボーブリッジなのではなかろうかと。


お台場海浜公園からは芝浦方向にすうっと伸びる橋の姿がなかなかの圧巻でありますが、
第三台場(台場公園)は橋のほんの足元といった場所でありました。


そして、その第三台場からふとレインボーブリッジを見やるとですね、
「おや?歩いている人がいる」というわけなのですよ。


こうなると、今年の夏にはシドニーのハーバーブリッジ を歩いて渡り、
それ以前にもニューヨークのブルックリンブリッジマンハッタンブリッジ
サンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジを徒歩や自転車で渡ったという実績?からしても
当然徒歩で渡りにかかるわけですね。


第三台場を後にレインボーブリッジの真下を目指しますと、
ほどなくして「プロムナード」の入口に着きました。

レインボーブリッジ 台場側プロムナード入口


ノース・ルートとサウス・ルートがあるようですが、
今回は第六台場も見ておこうということから南側を選択。
回り込むようにして、本線に合流ということになります。

だんだんと本線に合流


レインボーブリッジは二層になっておりまして、
上層に高速道路、下層には中央にゆりかもめの軌道があり、
その両脇に一般道、さらに両端にプロムナードがついている構造。
(ちなみに「ゆりかもめ」は臨海部を走る新交通システムの愛称です、と東京以外の人向けに説明を)

下層本線脇のプロムナード


プロムナードの入口こそ広かったですが、
本線脇の道は人ふたりが横並びになると追い越しできないくらいの幅しかありませんので、
自転車は降りて押していかないといけないようになってますね。

レインボーブリッジから見た第三台場


先ほど行ってみた第三台場が俯瞰できるようになってきました。
さらに進むと少しだけ小ぶりの第六台場も見えてきますが、
この第六台場は「絶対保存」という状態なのだそうすよ。

レインボーブリッジから見た第六台場


何も手を加えないという方法のようですが、
そのせいで木々は生い茂り、またウミウの好き放題にされるところもあって、
史跡としてはひどい荒れようなのだとか。
人が出入りしなけれりゃいいという話でもないようですなぁ。

1本目の主塔を過ぎて


お台場側から歩き始めると、主塔まで辿り着くまで結構長いんですが、
ようやっと一本目の柱を通り過ぎて、二本目に向かいます。

ルート上にある案内表示


まだかな、まだかな…という人向けに、所々にこうした看板が取り付けられているのですね。
だいぶ進んできたなぁと思うところであります。
そして、2本目の支柱を見上げながら通過です。

主塔2本目通過


対岸が近づき、車道はまもなくループ状の下りに掛かろうかというあたり。
あ!ゆりかもめがやってきました。

ループを上ってくるゆりかもめ


ところで歩行者はというと、ループを下るのではなさそう。
あの半分ガラスの円筒状のところ、エレベータらしき予感が…。

芝浦側アンカレッジ


果たしてやっぱりエレベータ。
7階から2階へと一気に下り、途中階のボタンはついてません。
ガラス張りですので、外がよおく見えるのですね。

ガラス張りのシースルー・エレベータで下る


ということで、降りてきてしまいました。
建物の外に出て振り返るとこんな具合ですが、どうも最後の急降下がいま一つのような気が。
レインボーブリッジを歩いて渡ろうという場合には、芝浦側からお台場側へと越していった方がいいような。
じわじわと歩いて地べたに到着できるところがうれしいんではなかと思うのですよ。

到着地から見上げれば


とはいうものの、たった今渡ってきたレインボーブリッジを眺めやり、
それなりの満足感に浸るひとときでありました。

渡ってきたレインボーブリッジを振り返る

さて、大森貝塚 の見物を行きがけの駄賃にしてたどり着いたのは品川区立品川歴史館であります。
ここでは23日まで「品川御台場-幕末期江戸湾防備の拠点-」なる特別展が開催されていたのでして、
最終日に駆け込みで間に合ったというわけなのですね。


「品川御台場-幕末期江戸湾防備の拠点-」@品川歴史館


ところで、そもこの特別展に出向いた由縁でありますが、このような次第。
先に訪れた川越の
本丸御殿 を見学しようとした際、4館共通入場券なるものが目に留まり、
ついついお得感に誘われて購入したところ、「立ち寄るまでもないかな…」と考えていた市立博物館も
セットの中に入っているとなれば一応は覗いてみることになりますね。


でもって、川越の歴史をたどる中では、

川越城築城ゆかりの太田道灌 と親藩譜代の大名が治めた栄光?の江戸期が
クローズアップされても、まあ当然かなと。


そして、幕末のあたりになると「ペリー 来航」などという解説に行き当たるわけです。

川越自体は海に面しているわけではありませんけれど、
江戸の衛星都市としては「それなりの衝撃があったのかいね」と思ったところが、
元より川越藩は三浦半島にも領地を持ち沿岸警備の任に当たっていたのみならず、
急遽築造された品川沖御台場のうち、第一台場で警護に着いたのだということなのですね。


そういうことであれば、世間を騒がす蒸気船程度の関わり以上であって、
川越の歴史の中で触れられても不思議はないなと。


…ということで、元々開催中であったことは知っていた品川歴史館の特別展に「やっぱり行っとくか」と。
前置きが長くなりましたが、こうした次第でありました。


さて、あれこれと興味深い史料展示がありまして、もの知らずとしては「ほぉ~」と思ったり。
そもそも品川沖の御台場は次善三善の策であったのだとか。


言われてみれば「確かに」ですが、品川沖ではいかにも江戸城が近すぎるわけでして、
出来るだけ遠くで敵を撃退すべく防備を固めるのは素人考えでも想像できるところかと。
ですから、一押しの案としては横須賀走水と富津岬のライン、
つまり江戸湾口の最も狭まった部分で敵に当たろうという献策だったらしい。


それがダメでもせめて羽田川崎沖あたりでは…という案があったようですが、
いずれも工事の難しさ等などの観点を考慮した没になった様子。


工事において品川沖に利があったのは水深の関係、
それに御殿山を崩して土砂を持ってこられることなどでしょうか、
それでもって当初計画では11の御台場を作ることになっていたそうな。


それにしても西洋の脅威に対抗するための施設の築造にあたって参考にしたのが、
西洋の築城術を記した書物であったというのは何とも皮肉な話ではありませんか。
従来型の日本の城砦ではなく、端から西洋由来の大砲を撃ちかけるためには、
最も効果的な大砲設置が考えてられてきたであろう西洋の築城術に頼ろうというわけですね。


結局のところ、予定よりも少ない6つの台場(第四は途中で工事中止)を作るに留まりましたが、
現存しているのは第三台場と第六台場だけなのだとか。
そして、第六台場は今でも海にポツリとありますけれど、

第三の方はお台場海浜公園と繋がっていて歩いて行ける!
そういうことなら「行ってみようでないの」と思いますよね、やはり。


品川歴史館から北へ向かって大井町駅に出、

りんかい線(初めて乗った!)でもって東京テレポート駅まで。
今でいうところの商業施設てんこ盛りの「お台場」を目指します。


ちなみにりんかい線は海の下をトンネルで通り抜けますが、

この工事の際に第一台場の基礎部分が発見されたのだとか。
もちろん乗ってるときに見えはしないでしょうが。


ということで、川越の話から品川経由で第三台場にやって来ました。今の名前は「台場公園」ですね。
これは、お台場海浜公園からかもめ越しに見た?第三台場、石垣が見えましょう。

お台場海浜公園から見る第三台場


近づいていくと、こんなふうに陸地と繋がっているのですね。

台場公園入口


そして、真ん中は本来陣屋などが配されていた、一段低い平地です。

Chain reaction of curiosity


周囲は単にぼんやり港湾ごしの風景を見やるのにいい場所てな感じになってますけれど、
ここにたどりつくまでの道のりの長さを歴史を遡る長さに擬えれば、なかなかに感慨深いものがありますですよ。

御台場からお台場を眺める