DNAの二重らせんバッハ の無伴奏ヴァイオリンのパルティータを思い出したものですから、
手持ちのCDから探したのですけれど、並べ方がいい加減だものですから見つからずじまい。
代わりにということで、取り出だしましたのは同じくバッハの無伴奏チェロ組曲でありました。


先に弦楽四重奏 がアンサンブルとして切り詰められた究極の形てなふうに触れたわけですけれど、
楽器ひとつだけの無伴奏の演奏は、まさにたったひとりだけという実に実にストイックな世界。


さりながら、独奏曲と言わずしてわざわざ無伴奏という言い方をするのは、
伴って奏する楽器(つまりは伴奏ですが)が無いのに伴奏に任せるような和声付けなんかも一人で
やってしまうというあたりに由来するのかもしれませんですね。


そして、数多の大バッハの曲の中でも

「バイブル」的な見られ方をすることのある無伴奏チェロ組曲ですから、
改めて聴いてみますと、この深い深い、そして広大な時空の中で音楽が鳴っているとの印象があるわけです。


無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータの方は

「コスモス」という宇宙やら科学やらという番組で使われてましたけれど、
こちらはこちらでやはり大宇宙の音楽という気がしてしまいます。


以前、バッハの音楽には冷徹さがあるだとか数学的だとか言いましたけれど、
(本来的には音楽は数学的ではありましょうけれど)
宇宙というものを星座に絡んだロマンティックなエピソードなどで語るのでなく、
宇宙の成り立ちからこの世の事象のあれこれを全て数式で表してしまうようなクールさで見ているような。


数学者から見るときれいな証明ときれいでない証明があるそうなんですが、
さしずめバッハが無伴奏チェロ組曲で聴き手にイメージさせるのはきれいな証明。
誤謬もなく、均整がとれ、大胆でもありダイナミックでもある、そして完全な調和を実現している・・・
といったふうでありましょうか。


深いという言い方をしましたのは、音楽的な深みは言うに及ばずでしょうけれど、
チェロという楽器の、実に深い息遣いゆえと言えるのではないかと。


昔聞いた話ですが、かつてクリーヴランド管弦楽団を長年仕切っていた指揮者のジョージ・セルは
長く途切れない旋律を弦楽器が弾いたところ、ブレス(息継ぎ)を意識するように言ったのだとか。


管楽器でもないのに、弦楽器を弾くのに息切れを起こすことはありませんから、
物理的にブレスの必要性は皆無ですけれど、演奏にあたっては「人の呼吸を意識する」ことの必要性を
伝えたかったのかもですね。うっかりすると聴いてる方の息が詰まってしまいましょうから。


と余談を入れてしまいましたが、ここでのチェロの深い息遣いというのは
あたかもチェロという楽器自体が呼吸しているかのような聴こえ方をするということでもあります。
敢えて低めの声の人がスキャットをしているみたいな人っぽさというと大仰ではありますが。


ここで聴いていたのは、アンナー・ビルスマの独奏による演奏ですけれど、
そのジャケットはピーテル・クラースの静物画 で飾られていました。


Bach;Cello Suites vol.1/Anner Bylsma Bach;Cello Suites vol.2/Anner Bylsma


中世フランドルの画家による静物画の真骨頂みたいな作品ですけれど、

ちと大きめにしてみましょう。


Chain reaction of curiosity


手前の楽器には少なくとも弦が五本見えますので、

チェロというよりヴィオラ・ダ・ガンバの方かな…と思ったりしますけれど、

とまれこうした静物画は数多のアレゴリーを含んで、見た目以上に大きな世界を表したりしますから、

単に楽器が出てるというに留まらず、想像力で広大さをイメージするには曲にあった選択かなとも。


その後、このビルスマの録音が別ジャケで再発売されたら、

チェロ(こちらもガンバ?)の大写しになってしまっていて…。


昔からクラシック系のCD(昔はLPですが)は、

一部を除いて結構ジャケット・デザインをなおざりにしてきてますから、致し方なしでしょうけれど。


おっと、すっかりCDデザインの話になってしまいましたけれど、

もちろん本筋はバッハの無伴奏チェロ組曲。

第1番冒頭のプレリュードはいろんなCMに使われる超有名曲ですけれど、

ここでまたお聴きになって広大な無辺な宇宙をイメージされてみてはいかがでしょうか。

(ということで、一応youtubeにリンク を貼っておきますね)

中山七里さんの「贖罪の奏鳴曲」を読んだのですね。

過去に「このミステリーがすごい!」の大賞を受賞された方ということなんですが、
新刊を追いかけることがないだけに全く知らなかったんですけれど、
たまたま「奏鳴曲」という音楽用語がタイトルにあったものですから。


贖罪の奏鳴曲/中山 七里


「奏鳴曲」と書いて「ソナタ」と読ませる。
そもそもソナタの日本語訳が奏鳴曲ですからまあ構わないのですけれど、
何となく
名探偵コナン の映画シリーズのタイトルみたいだな…と思わなくもないところです。


それはともかく読み終えて思うところは、最後の最後まで意表を突く展開でよく出来ているのではないかと。
ミステリを読みながら謎解きをしようとしたときに心構えをはずさないで作ってるなあと思うわけです。
その心構えとやらが何かをここで書くとネタばれになりますから、自粛をしますけれど、
それでもこの先を勘の良い方がお読みになると分かってしまうかもですが…。


とまれ、そうした作りなだけに後から思えば導入部分が実にあざといなぁと思いますね。
主人公の御子柴礼司という人物が絵に描いたような悪徳弁護士であることをたっぷりと読者に植え付けて、
しかも後に語られる御子柴の過去に触れるにつけ、

読みながら「いつやめようか」というくらい暗澹としてくるという。


これは偏に実際にあった事件、それもおそらくは誰もが記憶しているであろうショッキングな事件を
下敷きにしているからなんですね。

実際の事件のその後は知りませんし、本作は飽くまで創作だとは思っていても、

読みながら生々しさを感じてしまう。
本当にこうした経緯をたどっているのでは…と思えてしまったりするわけです。


ここからはミステリとしての面白さとは別の話になりますけれど、
物語の中でたびたび出てくる一度罪を犯した者の再犯性に首を傾げざるを得ない。
この点、個人的にはっきりした見解があるわけではありませんので、大したことは言えませんけれど、
それでも「どうしても、そうなんだろうか…」と考えてしまうのですね。


犯罪に関わる仕事の方々、警察も検察もですが、

少年院や刑務所で更正指導にあたる教官のような人たちも
「そんなこと言ったって、現実をみなさいよ」というのが、

それこそ現実の世界にもあるのかもしれませんが。


先に「生物と無生物のあいだ」で読みましたように、

所詮(?)人間も細胞の、分子の、原子の集まりに過ぎない。
それが複雑に組み合わさることによって、

体の器官が本来的に与えられたそれぞれの機能を的確にこなしていくことになる。


とっても複雑で、とっても微妙な働きの積み重ねにしても、

あえて言うなら体内は工場のようなものでもありますね。


そこまでのところでいえば非常に無機質なふうで、
個々の人間になにほどの違いがあろうかと思ったりするところですけれど、
現実には個々の人間には個別の性格やら感情やらがあるわけで、
こうした個々の違いはどこからどうやって生まれてくるんでありましょうかね。

(たぶんに脳の領域だとは思うものの…)


乱暴に進めて言うと「犯人の再犯性」というのは個々の生活や感情と同じくらいに
本質的なものとして考えていいんだろうかなぁと。
本作の作者自身がそう考えているかどうかは分かりませんけれど、
読んでる限りにおいてはそう思えてくるような。

読みながら「いつやめようか」と思ったというのは、そんなようなことであります。


人間を理想論でばかり語るのは大嘘だと、世知辛い世の中に何十年も生きていれば、
それはそれで思うところですけれど、「そういうものだ」を前提に何事も考えるのも違うのではと。
人間として「青い」のかもしれませんですねえ…。

温帯低気圧がかくも発達するものかと吹き荒れる風雨の最中、
ついつい「元寇の神風 はかかるものであったかも…」てなことを思ったりしつつ、
とある葬儀に参列してまいったような次第であります。


前にも葬儀に出向いた折に自分の葬儀のことを思い巡らせたりしたこともありました けれど、
そのときに書いたようなことをさらに具体的にして残しておいた方がいいだろうなあ…と
つらつら思いつつ帰ってきたのですね。


以前に考えたところは、ふいに自分が他界したとしておそらくは一族の関わりから
仏式のある宗派によって葬儀は執り行われるところとなろうと思うものの、
特段の信仰もないながらその祭式手順に則って自身が成仏することを祈念してもらというのは
どうもピンとこない。


そうであれば、いっそのこと「音楽葬」といいますか、
通夜式ではモーツァルト のレクイエムを参列される方々(いれば、の話ですが)と聴きながら、
告別式ではフォーレ のレクイエムを聴きながらお別れしたいものだと思ったりしたわけです。


こたびの思いは、いっそのこと一から十まで自分の葬儀は自分でプロデュースすべくきちんと
遺言を家族に伝えておかねばなぁ…ということなのですね。


前回想像を巡らせたところよりもさらに細かいところまでと考えてみれば、
会葬御礼は形見分けみたいにしようかなと。


例えば通夜式におこしいただいた方には、
故人が(と言っても自分のことですが)持っていたCDを並べておいて、
「どうぞ気に入った一枚をお持ちください」と。


オール・ジャンルと言うには相当以上クラシックに偏ってはいますけれど、
ジャズがあったり、多少のポップス系のものもありますし。


告別式の方は、やはり故人が生前足を運んだ展覧会の図録をこれまた並べて
「どうぞ気に入った一冊をお持ちください」てなふうに。


それによっていつまでも覚えておいてもらおうなんつうことを考えているわけではありませんが、
「何かくれるってから、持って帰ってきた」という一枚のCDやら一冊の図録がもしかしたら
その方にその後の思わぬ興味を掻き立てることになるかもしれませんし。
そうしたことがあったら、この上なくうれしいなと(かくいう本人は、もはや何もわかりませんが)。


後は墓のことですよね。
一般的なお墓をどうのこうの言うつもりはないものの、
墓を残すと後々の係累に世話をかけることになってしまうことになりますから、
やはり散骨してもらうのが一番かなと思ったりします。


けれどむやみやたらと散骨はできませんし、
「ここにこそ撒いてほしい。なぜならば…」という特定の場所も現状では思い浮かばない…。

とここまで来て散骨の話も前に書いてました ね、思い出しました。

とまあ、具体的に一から十までとは言ったものの、今のところはこんな程度ですけれど、
きちんとしたシナリオを残しておく方向でさらに考えてまいるとしましょかね。


そして、ブログに書いたことが気付いてもらえるかどうかは分かりませんから、
最終的には早めに遺言で残しておかねばならぬなと思うのでありました。

先日出かけたピアノ・リサイタル弦楽四重奏 の演奏会でたまたまどちらにも
バルトークが取り上げられていたものですから、このところまたバルトーク をCDで聴いたりしておりました。


その中に「舞踏組曲」の収録されたブーレーズ指揮のシカゴ響による一枚があったのですけれど、
ジャケットのイラストレーションが何とも印象的だなと思ったわけです。


Alfons holtgreve(アルフォンス・ホルトグレーヴ、あるいはもっとドイツ語らしくホルトグレーフェでしょうか)
という方のイラストで、どうやらブーレーズのバルトーク・シリーズで統一的に使われているようなのですね。
少々、ここで並べてみますですね。


バルトーク:管弦楽のための協奏曲/ブーレーズ(ピエール) バルトーク : 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 / 中国の不思議な役人/ブーレーズ(ピエール) バルトーク:ディヴェルティメント/ブーレーズ(ピエール)


なんだか見たところ切り絵のような感じあって、独特な雰囲気は個性的だなと。

コミカルさを漂わせつつもちょっと怖さも同居しているあたり、

「そうだ!おとぎ話の挿絵にマッチするね」と思ったのでありますよ。


そんなことを思いつつこのイラストレーターのことを検索しておりますと、

やはりおんなじようなことを考える方がいるということでしょうか、

こんな記載を発見したのですよ。

Alfons Holtgreveの手になる「いばら姫」散策路で女王の足跡を体験され、また歴史を感じさせる庭園で豊富な歴史的なバラと薬草の収集、グリム兄弟の記念碑、更に「いばら姫」の塔、廃墟と化した宮殿跡もご見学ください。

ドイツ、メルヘン街道にあるザバブルク(Sababurg)の観光案内の一節でありました。

このザバブルクのお城はグリム童話 「いばら姫」の城として知られていますから、

その周辺をめぐる散策路はたぶん「いばら姫」の世界。

そこにAlfons Holtgreve作品を持ってくるのですから、

おとぎ話にマッチするとの印象は「やっぱりね」という感じですねえ。


ただグリムの「いばら姫」どおりとすると、「いばら姫」散策路はそれこそ茨だらけとなって

物理的に近寄りがたいことになってしまいますので、ここは同根のお話のペロー 版である

眠れる森の美女 」の方の、王女さまが眠っている森の散策路と受け止めた方が

散歩する気になるかもですね。


ここでまた話は変わるのですが、

「眠れる森の美女」はどうやら「眠りの森の美女」という言い方もあるようで。


またまた今さらの話とお思いでしょうけれど、

この「眠れる」と「眠りの」はかなり違いますよね。

「眠れる」は「森」にも「美女」にも掛かり得る形容ながら、「眠りの」ときたらどうしたって「森」のこと。


後者の場合、あたかも美女は眠ってないかのようですが、

「眠りの森」の中にいれば誰もが寝てしまうんだと解せば「なるほど」ながら、

そうなると今度は近づく王子さままでがお姫さまに近寄るまでに眠ってしまうのではないかと。


となれば、やっぱり前者、「眠れる森の美女」とした上で、

「眠れる」は「美女(つまりは森にいる美女)」に掛かる考えるのが一番全うなんではないかと思うわけです。


なんだかちいともまとまりのない話になってますけれど、

ペロー童話の「青ひげ」を元にオペラ「青ひげ公の城」を書いたバルトークに端を発し、

グリムを経由してまたペローの「眠れる森の美女」に話が行きついたわけですから、

まあ良しといたしましょうか…。

先に難波田史男展 を見たときに「宇宙」を想うてなことを書きましたけれど、
そこでの思いつきは宇宙という人間から見て巨大なモノに対して視点を変えてみれば、
すなわち宇宙がそれこそひとつの細胞であって、

その閉じた世界の中に恒星も惑星もブラックホールもあり、
その片隅にごくごく小さな存在として人間やその他の動物も幽かに蠢いている…

てな目線てのもあるんではないかなと想像したわけですね。


宇宙といえば、当然大きなもの、巨大なものと考えますし、
先日、3月26日の夜、西の空に見られた金星、月、木星の縦並びの輝きのようなものを見るにつけ、
壮大さやドラマチックさを思わずにはいられないのでして、

とかく大きなものなるが故に「ほぉ~!」と受け止めることがあろうかと思います。


さりながら、そうした巨大なものとは全く反対に、それこそ先ほど視点を変えて

宇宙を微小なものしてみるのと同じように小さな小さな世界へと目を転じてみれば、

こちらはこちらで実にドラマチックなことが行われているわけですね。


例えば生物の体の中、細胞のひとつひとつ、さらには核の中、

遺伝情報を司るDNAなどにおいても…という分子生物学に関わる話を

易しく書かれた本で(「時間」の本 で難渋したのに性懲りもなく)読んだのでありました。
「生物と無生物のあいだ」という講談社現代新書の一冊であります。


生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)/福岡 伸一


先ほど触れたような視点の持ち方次第では、

人体というものも一つの閉じた世界と考えることができようかと。
もちろん、閉じたといっても呼吸はしてるし、飲食物を外から取り入れ、

汗やら涙やらあれやこれやを排出しますから、まあひとつの塊と思ってもらえばいいかと思いますが、

この塊と思っているものを細かく細かく見ていくとあれこれの器官からでてきており、

これも小さく小さくみれば細胞の集まりで成り立っており、細胞には核があって…となるわけですね。


著者である青山学院大学の福岡伸一教授の例えで「砂上の楼閣」というのが出てきました。
海辺の砂で城を作り上げ、何日か後に見てみるとまだ作ったときのままに城はあったとして、
作ったときに城と数日後に見た城は同じように見えて同じでないのだという。


砂で作った城という「ひと塊のもの」は実際には細かい砂粒を寄り集めて形づくられたものなわけですが、
作ったときの砂粒のひとつひとつは数日のうちに風で吹き飛ばされ、

代わりに別の砂粒が吹き寄せられているとすれば、

同じに見えるけれど同じでないということになるというわけです。


まあこれはいいとしても、この例えというのが何を例えているかといえば、

「人体」なのでありますよ。

人間の体の構成要素を微小な単位で見てみれば、
先ほどの城を形作っていた砂粒が入れ替わるよりももっともっと激しい新旧交代劇が行われているという。

この辺り、著者のユーモラスな表現を借りてみるとしましょう。

私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。

しかしこの激しい新旧交代があるにも関わらず、人の姿かたちが激しく変容するわけではない。
原子、分子に比して、人体が何故かくも大きいのかということを考えた学者さんが昔いたのだそうですが、
極小単位での新旧交代という変化がその外形(体内の機能も含めてですが)にまで

影響を及ぼさないために必要な大きさなればこそ、

見た目変わらないということになるんだそうですね。


なんだかちっちゃな世界の話もドラマティックであり、ダイナミックだなと思えてきます。
膵臓の細胞が消化酵素を細胞外へ、つまり消化管へ分泌する仕組みなども、
「こんなこと、体の中でやってんだ!!」と思えるほどえありますよ。


細胞の中で作られた酵素を細胞外へ放出するのにあたって、
細胞内が外界と触れ合わない方法が編み出されているわけです。
仕組みを説明するのに言葉だけでは細かにできませんけれど、

「内側の内側は外側」というトポロジーが出てきたところで、
「おお!きっとブラックホール」はこうなってんだな」とまたまた宇宙の方へ想像が広がったりもしました。


視点の置き方次第で「大きく」も「小さく」も考えられますけれど、
行われていることごとのダイナミックさは、単に大きい小さいでは比べようもありませんね。


ミクロ以下の世界は、巨大と思った宇宙での営みに匹敵するものがあるという。

昔、カール・セーガン博士が語りかける「COSMOS」という宇宙を説明する番組がありましたけれど、
確かその中でもDNAの二重らせんの模式図が出てきましたっけ。


そうそう、そこんところのBGMが

バッハ の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のガヴォットだったなてなことも
ふいに思い出してしまいましたよ、ついでながら。