キリストの救済をもたらす力 (キリスト者共同体) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “無力なる神は、その無力の中に隠された神の犠牲の愛を高次の権威とでも呼べる力と認識し、その力で己を満たそうとする人間を待っている。無力なる神は、「それでもあなたは王なのだ」と人間が認識するのを待っている。彼の答えはこうである。「お前がそれを言う」。この言葉は単なる確認、つまり「お前の言うことは正しい。その通りだ。」ということだけではない。そこには「お前がそれを言わねばならない」という響きが含まれている。お前はそれを、自分自身で見いださねばならないのだ。

 芽生えつつある私達の自由を無視することなく、このように内的なかたちで力を現わすという態度は、復活を経た後でも変わることはなかった。復活のキリストが、例えばピラトやカイアファのような人や最高法院の面前に栄光のうちに現れるなどということは起こらなかった。キリストは、彼を愛していた人々だけにその復活の花咲く領域を見せた。外的な力関係が変化させられることはなかった。しかし、内的な自由の中でしか把握できない一つの力が出現した。それは罪の病の力、悪魔の力に対抗しようとする、キリストの救済をもたらす力であった。

 何が起こったのだろうか?至高の神的存在である子が、自ら進んでその運命を地上の人間の運命に結び付けたのである。俗な言い方をすれば、彼はそんなことをしなくても良かった。彼は巨大な罪の諸関連の外に、人類全体が巻き込まれていた宿命的な罪の結果の網の外に立っていた。彼にとって死は〔罪の代価〕ではなかった。ひとり彼にとってのみ死は、いかなる人間にとっても全く有り得ない、言葉の全き意味における自由死であった。それはあらゆる強制と必然の力から全く自由な、ただ愛によってのみ行なわれた行為であり、世間で乱用されている「自由死」とは全くその意味を異にするのであった。

 ゴルゴタの事件の本質的に重要な点は、ひとりの人間がその確信の故に死んだということではなかった。殉教者はいつの時代にもいた。ゴルゴタの出来事の比類ない点は、死から離れ、死とは無縁の生命世界に住む一柱の神が、地上の人間だけに限られた体験である死を、自ら進んで通過したということである。このようにして、自分を地上の人間ときわめて似たものにすることで、彼は真空の世界への道をはじめて開いたのである。十字架を前にした人間は、あの堕罪の物語の言葉を逆にし、「見よ、神が私達の一人のようになった」と言うことができるだろう。死と身近になった神は、死と身近になった人間にとって、近くて手を伸ばせば届きうる存在になった。彼は人間との連帯関係を作り上げたのである。

 生まれもった魂の天上的な輝きを堕罪の進化の過程でどんどん失ってしまいっていた死者達の世界に、彼は現われた。死者達は地上的なものに余りに深く巻き込まれ、地球の影の中でその死後の世界を生きていた。そしてその地上的なもののせいで、高次の霊達の本来的な天的存在から見ると、堕落し、破滅的なものになっていた。この影の国の中にキリストは新しい光をもたらした。

 復活祭の朝に彼は蘇った。死者の国ですでに始まっていたこと。すなわち一個の存在が意識の消失を克服して輝く魂として出現したという事態が、今や究極の段階にまで達し、人間の独立した人格発展の基盤である肉体もまた死の力から救い出され、自我存在のための超感覚的に変容した器官として永遠に獲得されたのである。

 この復活体は進化を遂げ、ますます現実的で存在性の強いものになり、ついには昇天によって父の深い根元的諸力に浸透され、弟子達の知覚能力を凌駕して、彼らの視界から消えうせたのである。

 彼の死が地上との親和性をついに正しく打ち立てたので、復活と昇天もその方向に沿ってさらに作用した。それは地上から去っていく霊化ではなく、地上の利益となる、地上のための天界の諸力との合一であった。もし昇天が地上から去って行くことであったならば、それは「私は常にお前たちとともにある」という約束に矛盾したであろう。まさにこの復活せる者、そして天に昇りし者こそが、死を背景とする地上との親和性によって、地上的なものに天上的なものを浸透させ変容させる可能性をもつのである。

 ゴルゴタの秘儀の全体は、偉大なる転換のようなものである。それは神の力を人間の力に、神の生命の可能性を人間の生命の可能性に注入することであった。まず最初に一人の、唯一なるキリスト・イエスの中でこの転換が根本的に、そしてはじめて生起した。しかし救済をもたらす力は、決して無雑作に全ての地上的存在と人間存在に注がれることはない。ここで私たちは、しばしばなされる反論にまた出会う。「もし本当にそのような神の行為が地上で起きたのならば、地上と人類はもっと違って見えるはずではないか?世界は、そこで神の救済行為が行なわれたようには見えない!」このように反論する人は、人間を対象とする救済行為を自動的に起こる化学反応のように考えている。キリストの行為は、そのような自動的な仕方で地球と人類に働きかけることはできない。いわば人間が連署することによって効力を発揮しなければならないようなものである。一方的な出来事にとどまらないとき、それははじめて完全に作用する。キリストの行為は、その行為が行なわれる機会を人間が自分の行ないによってキリストに与える程度に応じてのみ、人間と人間に属する世界を、人間の所属世界を変容させるのである。

 リヒャルト・ワーグナーの《パルジファル》は、「救済者の救済」という神託のような言葉で終わる。これは、何よりも私たちの自由な肯定なしには、救済者の犠牲は実を結ばないままにとどまるということも意味しているのだろう。そのような愛の行為が実を結ばぬ可能性から救済者を救うこと、それは人間次第なのである。”

 

   ①    ヨハネ福音書18章37節

   ②    ヨハネ福音書18章37節

   ③    ローマ人への手紙6章23節

   ④    「自殺」を意味するドイツ語表現

   ⑤    創生期3章22節

   ⑥    マタイ福音書28章20節

 

(ルドルフ・フリーリンク「キリスト教の本質について」(涼風書林)より)

 

*この本「キリスト教の本質について」は、以前にも紹介させていただきましたが、ルドルフ・シュタイナーが創立に関わったキリスト者共同体の司祭であり総代表でもあったルドルフ・フリーリンク博士によって書かれたもので、博士の著作で邦訳があるのは私の知る限りこの一冊だけです。もはや品切れで入手困難になっているようですが、この本に限らず涼風書林から出ている数々の出版物は、キリスト教について、人間と神の関係について、より深い理解へと私たちを導いてくれます。

 

*イエスによる救いの御業が全地球的なものであるなら、方向性を同じくする宗教すべてがその影響を受けて変容したはずです。私は大乗仏教とはキリスト教化した仏教だと思っています。

 

*「涼風書林」のHP

 

 

・終末預言の解釈について  (エドガー・ケイシー・リーディング)

 

 “地球の変動との関連でいえば、これらは預言を通してばかりではなく、占星学の視点からも、高い地位にいる人々や集団の考えを通しても指摘されている。「時の完了」というべきものの中で、こうしたことが起きているのである。

 だが、地球にキリストが到来し、天の父とのとりなしを人類にお与えになって以来、「神の報復」と呼びならわされているものの多くをくつがえす力がきている。

 そこで、宇宙の法則に関する権威を与えられた人々の心が、恐るべき終末という考えに煽(あお)られるか、霊的覚醒の展開を予兆する事柄に煽られるかは、国々の情勢の中に今起きつつあることが母なる地球の表面の状態と関係していることに気づいた、この人に代表される人達の活動にかかっているのである。

 預言されていることについて、また地球の変動をくつがえす行動をとってきた、今後もとるべき人々の活動については、多くの質問があるだろう。

 まず最初の前提がある。罪が物質的な形をとった原因が何なのかを知りなさい。そのようなことを起こすのが、神の目的だろうか?それとも、表現を求める力が表現され、積極力と消極力になったのだろうか?

 一方の力を自覚してある方向をとることが消極的な力となり、他が積極的な力となった。地球の物質界の中で展開する魂の経験にも、同じ結果が出てきている。

 人間が経験し自覚する一方のそれら記録の中にも、このような理解が多く暗示されている。つまり、宇宙的、霊的、普遍的な法則が、人間経験の一部となりつつある。これは、岩の中の記録にも示されている。かつてあったこと、今あること、今後起きることを霊的理解の中で解こうとする者たちに「しるし」として残そうとの試みが、ピラミッドに暗示されている。

 その解釈はいろいろあるが、問題なのは解釈する人間の意識である。最初の前提に戻れば、解釈する人がどのような線をとっているのかに、すべてはかかっている。悲観的な解釈か、楽観的な解釈か、積極的か、消極的かということだ。

 消極的という意味は、地球と宇宙におけるその位置に関係して、魂がそこにどう働きかけるかを考慮せず、神の御言葉、約束、働きをほとんど考慮せずに、世界がただ呪われているとする見方である。主は、求道者を建設的な力に目覚めさせるものを、地上に現わされた。

 同じことは、主の人間に対する道、お約束を求める者たちへの導き、しるしとして与えられている聖書の預言にもいえる。個人の生涯と活動の中で、立てられたり与えられたりした誓いや約束についての解釈が、考慮されなければならない。

 宇宙空間を通る地球の運行が、いわば、預言された「時」と一つになる今の時代に起きることを、それは示しているのである。

 こうして、魂は、創造主を探し求めてゆく中で、道であり、真理であり、光である主の中に、忍耐が、かつても今も、今後も現れ続けることを知る。

 再び言えば、しるしや兆しの解釈は個人的な経験となる。そして、この人のように、魂の誰もが、同胞との関係の中でこうした活動を生きる機会を、特権を与えられている。示されているものを満たし、成就し、解釈するにあたって、恐怖ではなく希望を、憎しみではなく平和を、破壊ではなく建設的なものを、人々の人生と心と胸に導入する方法をとりなさい。(1602-5)”

 

(レイモンド・ウィレット「世界の運命、未来への警告」中央アート出版社より)

 

「われらが神キリストの救いをもたらす光栄ある御復活の、聖なる輝かしき日を祝して朗読される、われらが教父聖ヨハンネス・クリソストモスの説教」

 “
敬虔なる者、神を愛する者はみな、この美しく輝かしき祝典を享受せよ。忠実なるしもべはみな、おのが主の喜びの中に入れ。断食の苦しみを味わいし者は、今その代償を受けよ。1時より働きたる者は、今その正当なる報酬を受けよ。3時以後に来たる者は、感謝の気持ちもてこの祝典を祝え。6時以後に来たる者は、ためらうことなかれ、何も欠けたるものなきゆえに。9時になりて来たる者は、ためらうことなく近寄れ。11時になりて来たる者さえ、その怠慢を恐るるなかれ、主は寛大に最初の者も最後の者も受け入れ給うゆえ。主は最初の労働者と同様に、11番目の労働者にも休息を認め給う。主は最後の者に慈悲を与え、最初の者を保護し給う。最初の者には恩恵を与え、最後の者には恩恵をなし給う。主はその成果を受け、愛もてその熱意を歓迎し給う。その行為に敬意を払い、その志を称賛し給う。さればみな、主の喜びの中に入り、初めに来たる者も後に来たる者も報酬を受けよ。富める者も貧しき者も混じり合え。節制したる者も怠惰な者も、この日を讃えよ。断食をしたる者もせざる者も、今日は楽しめ。食卓は食物に満たされたるゆえ、みな底意を持たずに味わえ。肉も用意されたるゆえ、再び空腹となる者なからん。みな信仰の祝宴を味わえ。みな美徳の豊かさを味わえ。貧しきを悲しむ者なからんことを、すべての者の王国が現れしゆえ。おのが罪を嘆く者なからんことを、免罪が墓より現われしゆえ。死を恐るる者なからんことを、救い主の死がわれらを解き放ちたるゆえ。主は死にとらわれ給いし後、死を消滅させ給いぬ。主は冥府に降り給いて、冥府より自らを奪い給いぬ。主は苦しみもて冥府に満たされ、肉体を試し給いぬ。イザヤがかく叫び給いし時に告げたるごとく。冥府は、地下にて御身と会いし時、苦しみを受けたり。冥府はその力を破られしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は滅ぼされしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は支配力を失いしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は鎖につながれしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は遺体を受けんと思い、神を見たり。冥府はちりを期待し、天に向かいたり。見たるものを受けんと思い、見ざるものにつまずきたり。おお死よ、汝の棘はいずこにあるや。冥府よ、汝の勝利はいずこにあるや。キリストはよみがえり給い、汝はちりの中に沈みぬ。キリストはよみがえり給い、悪魔は倒れぬ。キリストはよみがえり給い、天使は歓呼す。キリストはよみがえり給い、生命が支配す。キリストはよみがえり給い、墓にはもはや誰も横たわらず。キリストが、死よりよみがえりたる死者の初めなるゆえ。キリストに永遠に栄光と力を。アーメン。”(今谷和徳氏訳 LP「アトス山の復活祭」の解説文より)

 

*今晩から明日の朝にかけて、カトリックの典礼暦では「復活徹夜祭」で、イエズス・キリストの御復活を記念して、そのお祝いをします。東方正教会(オーソドックス)ではユリウス暦のため(カトリックはグレゴリオ暦)、今年の復活大祭(パスハ)は5月4~5日になるのですが、全世界の正教会では徹夜で祭典が行なわれ、最後に、この聖ヨハンネス・クリソストモス(金口イオアン)の説教が朗読されます。その朗読の後に司祭が「クリストス復活!」と叫び、信徒が「実(じつ)に復活!」と応え、それを三回繰り返します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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