キリストの復活 〔エドガー・ケイシー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “すべての者の経験にとって意義深いものとなるであろうものを与えるにおいて、イエス・キリストの復活の意義を現実に適用するには、思想世界に存在する状況についてのみならず、今日の世界を取り巻く政治的・経済的状況についても考察することが有益である。
 イエスの生と死と復活は、ここにいる人々の心と意識の中に真実として存する。イエス・キリストの復活は、人が(その人にとっての)復活の意義を自らの日常生活や、同胞との会話や経験に適用するその程度に応じてのみ、それぞれの人にとって意義深い事実となる。
 では、憎しみに満ち、主義主張の分裂したこの物質世界にあって、あなたがた一人一人は同胞に対してどのような道を求めるだろうか。
 われわれが同胞との関係で実践するべきものとして、教師の中の教師であるイエスが与え給うたあの生き方と行いの原理と教えに、その道はかなっているだろうか。
 あらゆる律法は主のうちに存するということを、われわれは知っている。また、それを心に留めておければ充分である。なぜなら、主が与え給うたものは、われわれの行いを促すべき動機や願望、目的の土台であり、原理であるからだ。それ故、われわれは、われわれ自身の関わる世界において…こうして生き、話し、祈るときにも…それらが、弟子達に祈り方を教えられたときにイエスが彼らに促されたような仕方やテンポに一致するようにせよ。
 この祈りを自らの経験の中で考察するならば、道であり、真理であり、光であるイエス・キリストの生と死と復活が、この時代の人類の経験にとって何を意味するかが理解される。
 神をあざむくことはできない。人は、捲いたものを刈り取らなければならない。このことは、あのガリラヤ人の生涯に見事に実証されている。彼の内にわれらは生き、動き、死するのである。彼の内にわれらは皆、生ける者となるのである。
 それ故、憎しみや悪意、妬みを遠ざけ、争いを助長する側に立つことを避けよ
むしろ、父なる神の意志によらずして、人は如何なる権威や地位に就くあたわざることを覚え、主によって、また人間イエスとして物質世界に出現されたことを通して、主について約束されてきたことが成就するかもしれないことを知って、汝らは主の側に立つべし。
 この神の人の復活の意味について思いめぐらすにつれて、神の御座に近づくための道が汝に開かれることを知るがよい。言い訳や、自己弁護としてではなく、むしろ愛において、調和において、罪に汚れたこの世に希望をもたらさんがために。
 各人は……それぞれの小さな活動領域において……物質世界において、キリストの大義に対立するように見える人々の間にすら、平和と調和をもたらすように行動し、生き、祈れ。
 心を騒がせてはならない。汝らは神を信じる者なれば、主イエスをも信じよ。平安と、父なる神に戻る道をもたらすために来られた主を信じよ。人の経験において罪の結果である死すらも取り去る権能(ちから)を示され、それを体現された主を信じよ。
 かくして人は、真に心を尽くし主を愛し、隣人を自分自身のように愛することを得るのである。(五七四九-一二)”

     (エドガー・ケイシー口述「神の探求 Ⅰ」(たま出版)より)

 

 

 “ケイシーのリーディングはイエスの復活について実に豊富な資料を残しており、またそれ以前にはあまり知られていなかった知見を与えてくれる。「この復活の時―― ここにおいて汝らは栄光を受けることができるのだ。なぜなら主が死を克服したという事実が無かったとしたら、あらゆる経験は無に帰するからである。(五七四九-一〇)。聖書の中のへブル書のように、リーディングはイエス・キリストを次のように描写している。主は「大地の創造者、生命の与え主……」(五一八-一)でありながら、「イエスという人間として―― 苦しみを耐え、死を、死の法則を克服する力を地上において示すことで、キリストとなったのである」(一八七七-二。参照へブル書1章1~2節、2章10、18節)。

 

 それゆえ、主は最初の人間、霊と肉において最初の神の子であったが、人間を創造主から引き離しているあらゆる物質的欲望、肉体的欲望を、人間の経験から一掃するために、主ご自身がそれらの全ての経験を完了する必要があったのだ。

 ……然り。疑いと恐怖を追放するために主がご自身の血を与えたように、主は死を克服された。それは肉体においてのみならず、父なる神と一つのものとなるために、霊体においてもである。汝らが復活節と呼ぶ、あの復活の朝のように。(五七四九-六)

 

 肉体的にだけでなく霊的にも死を克服する必要があるという認識は、これまで見て来たように、人間を肉体・精神・霊(魂)の三身と見るケイシーの見解に一致している。またイエスのこの体験は、次のような意味において各人の体験するものと同類のものであるという。「すべての魂はいつか、自分が心と体で為して来た行為をもって、造り主の御座の前に立つことになる。そして慈悲の御座の前に、造り主、創造主、さよう神の御座の前に、自分の霊体を示さなくてはならないのだ」(五七四九-六)。”(P267~268 )

 

 “……復活の神秘は「人間の肉体を聖なる肉体へ変化させる」(二五三三-八)ことにあるか、という質問に対して、眠れるケイシーはそれを否定して次のように言った。「これは肉体の変化ではなく創造である……」と。

 

 キリストの身体の変化について秘儀はあり得ない。なぜなら肉体の意識において、父であり母である神との合一を達成し、その合一が完全であったがゆえに、屍衣、外套、布の置かれた状態が示すように―― 体の腐敗が始まるとすぐに、肉体が形成されたのだ。これこそがその様子だ。これはあるものが別のものに変わるという意味での変容ではない。

 ドアを閉めた部屋の中に肉体が入って来たということは、肉体がドアを通り抜けたのではなく、部屋の中に充満していたエーテル波から形造ったということである。というのも、その会合は信仰によって持たれたものだったからである。そして「上から力を授けられるまでは、エルサレムに―― 二階に―― とどまっていなさい」と主は与えられたのだ。(二五三三-八。参照ルカ24章49節)”(P269)

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

 

・ありとしあらゆるものの解脱  〔仏教〕

”全世界を解放することが客観的に可能かどうかということは、核心をはずれている。第一に、仏教徒にとっては、「客観的世界」というようなものは存在しないからである。というのもわれわれは、体験の世界についてのみ話すことができるのであり、それは体験する主体と切り離すことはできないのである。第二に、悟りの状態は時間的な状態ではなく、時間の領域を超えた、より高い次元の体験だからである。
 それゆえに、たとえ仏陀シャーキャムニの悟りが人類の歴史のある時点で生じたとしても、それでもわれわれは、悟りの経過をその時点と同一視することはできない。仏陀自身の言葉によれば、彼の意識が過去の無数の世代を貫通したように、同様にして、それは無数の未来の世代をも貫通したのである。言い換えれば、われわれがそれを過去と呼ぶか、未来と呼ぶかにかかわらず、彼にとっては時間の無限性が直接的現在となったのである。
 時間的連続の中で、その出来事の徐々に開示してくる結果としてわれわれに見えているものは、成就された実在として仏陀の心に現存したものである。われわれの日常的な意識の言語で表わされるなら、〈仏陀の心〉の普遍性は、その現存を今日まで感じることができるような、そして、彼が二千五百年前に点火した解脱させる智恵の松明は今なお輝き、その明りを熱望する衆生のいる限り輝き続けるであろうような、そのような偉大な結果を創り出したのである。
 悟りがその実現の途中においても、その達成の後においても、(実際、一切の苦しみの根源である)あらゆる排他性を許さないということは、まさに悟りの本性そのものの中に存するのである。・・・なぜなら、悟りは限定することなく、また使い果たされることなく、他の者がそれに関わることを許しつつ輝いているのである。・・・見るべき目を持ち、その暖かさを感じる感覚を持ち、その生命を与える力を吸収する器官を持つ全てのものに対して、限定することなく光を与える太陽のように。
 そして、ちょうど太陽が宇宙を公平に照らす一方で、さまざまな衆生の上に、それ自身の感受性や資質に応じて異なる仕方で働きかけているように、〈悟った者〉は、・・・一切の衆生を彼の心の中に区別なく抱いているのだけれど・・・全てが同時に解放されうるのではなくて、彼の蒔く悟りの種が、個々それぞれの適時性あるいは成熟に従って、早晩にその果を生じるであろうことを知っている。
 しかし〈悟った者〉にとっては時間は空間と同様に幻影であるので、彼は悟りの至高な体験において、一切の解脱を予期するのである。これは〈仏性〉の普遍性であり、「一切の仕事を成就する〈智恵〉」つまり不空成就如来の〈智恵〉による菩薩の誓願の達成である。
 この〈一切を成就する智恵〉は、心と精神の統合、一切を包含する愛と最深な知識の統合、恐れることのない生命の苦痛の受容の中にその悟りのための力を見出す、人間の努力の最高の理想に向けての完全な自己放棄に存する。というのは、無畏性は不空成就如来の仕種である。
 この姿勢に力づけられ、仏陀の足元において、一切の〈悟った者〉の永遠な現前において、菩薩の誓願を自身に引き受ける者は、タゴールの深く感取された言葉を思い出すかもしれない。すなわち、

  危険から庇護されるためにではなく
  恐れずにそれに立ち向かうために祈らせたまえ
  苦痛の鎮静ではなく
  それに打ち克つ心を乞わせたまえ
  生命の戦場における味方ではなく
  私自身の強さに対する味方を求めさせたまえ
  気懸りな恐怖の中で救われることを切望するのではなく
  自由を勝ち取るための忍耐を望ませたまえ

           SARVAMANGALAM(全てに祝福のあらんことを)!”

       (ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダ「チベット密教の真理」工作舎より)

 

*「この神の人の復活の意味について思いめぐらすにつれて、神の御座に近づくための道が汝に開かれることを知るがよい」とあります。仏陀の悟りは過去・現在・未来のすべての時間軸を貫いて作用していると説かれているように、キリストの復活もまた、時間と空間を超越してすべての被造物に作用しているということだと思います。