豊受大神=国常立大神 (ミロクの世の最高神) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

(伊勢外宮・多賀宮)

 

 “豊受大神は伊勢神宮の外宮に祀られている神である。トヨウケのウケは、稲荷神社の祭神である穀物神のウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲魂)のウカと同一語源の関係にある。延喜式祝詞の大殿祭(おほとのほがひ)の祝詞に「屋船豊宇気姫命(是稲霊足(こはいねのみたまにます)。俗謂宇賀能美多麻)」とあり、トヨウケはウカノミタマと同一神と考えられている。そのために、伊勢神宮における豊受大神は穀物神として、天照大神の御饌津(みけつ)神として食物を調達し、農業をはじめ諸産業をつかさどる神として崇敬されている。

 ところが、伊勢神宮では、「外宮先祭」という言葉があるように、重要な祭りはすべて、まず外宮から始められることになっている。それは豊受大神が天照大神の招きで丹波から伊勢へ遷座したさい、天照大神の方が言い出した約束事であった。しかし人間というものは、神どうしの幽契にも何か裏がありそうだとの疑いをはさみたがるものだ。

 本来、神宮では、内宮と外宮との間には上下関係はない。しかし、内・外という名称が与えるイメージや、さらに内宮が皇室の祖神であり、さらに太陽神にも擬せられている天照大神を祀っているのに対し、外宮のほうは天照大神の御饌津神としての豊受大神である。したがって、外宮は内宮に比べると、どうしても低くみられてしまう傾向がある。

 そうした中で、天児屋根命を祖神とする大中臣氏の子孫である内宮の荒木田神主に対し、伊勢国造(くにのみやっこ)の子孫を称し、本来は両宮の大神主だった度会(わたらい)氏としては、その対抗意識からいっても、外宮の祭神の方が上位にあることが好ましかった。

 そこに登場してきたのが、外宮を中心に発達した伊勢神道(外宮神道・度会神道ともよばれる)であり、度会神主たちは豊受大神はじつは宇宙の本源神である国常立尊、その働きを担当する天御中主神=大元神としたのである。すなわち、外宮の神は記紀神話における天照大神の出生以前の、宇宙創造神・最高神であるから、天照大神よりも尊貴になると主張したのである。

 この伊勢神道の教典がいわゆる『神道五部書』で、吉田神道や、江戸時代の神道思想にも影響を与えた。この神道五部書を読むと、トヨウケはスサノヲやツクヨミとも同一神であった可能性が出てくるのである。さらに天地開闢のさい、アマテラスとトヨウケとの間には、交替に月となり日となって天下を治めようとの〈幽契〉までもがあったとされている。ここには大本教の「国祖引退の神話」の中で、アマテラスとクニトコタチの地位逆転と、神政成就後の再逆転の話を彷彿とさせる契機が含まれている。すなわち伊勢神道は現代の神道系の新宗教の教学にまで今もって深い影響を与えているのである。

 さらに、ややこしいことに、民俗学者吉野裕子氏ふうにいえば、〈隠された神〉としての「太一(たいいつ)」の存在がある。太一とは北極星を神霊化したもので、中国の道教思想では「天帝」とよばれ、紫微宮に住み、最高神として宇宙を支配している。この「太一」の神が伊勢神宮に深く関係している。

 といっても、いわゆる〈内宮〉と〈外宮〉の、どこを探しても「太一」の痕跡すらない。完全に埋没してしまっているのである。やはり北極星といえども星神は、日本においては太陽神の光明にはかなわないようだ。しかし、神宮の直接の御神域を出ると、伊勢や志摩の周辺では、お田植え祭りや、神社の祭礼のとき、必ずといってよいほど「太一」と記した幟(のぼり)が立てられる。また、二十年に一度の神宮の御遷宮のための、御正殿の建築用材のご神木を運ぶ「お木曳き」のときにも、「太一」の木札が用木の上に立てられたりするのである。つまり、民間レベルでは、伊勢神宮は「太一」信仰から成立しているといえる。

 民俗学的に陰陽五行という独創的な視点を入れた吉野裕子氏は『神々の誕生』(岩波書店)の中で、天照大神の荒魂(あらみたま)を祀った内宮の「荒祭宮に天武朝以来、全くの秘密裡に太一は祀られ、千数百年を経たわけである」と述べ、また、それに先立つ『隠された神々』(講談社現代新書)の中では内宮は太一を、外宮は北斗七星を祀っていると考証している。しかし、伊勢神道のトヨウケ=クニノトコタチ=アメノミナカヌシ=スサノヲ……という構造を考えれば、むしろ太一は外宮のトヨウケのほうがふさわしい。実際、トヨウケの出自からしても、そのほうがふさわしいのである。

 トヨウケあるいはトユケの神は、『古事記』の「上つ巻」のニニギの天孫降臨の段のところで「次に登由宇気(つゆうけ)の神、こは外(と)つ宮の度相(わたらい)にます神なり」として登場してくる。つまり、『古事記』では高天原から天降った天つ神らしい、という程度しかわからないのだ。しかし、『丹後国風土記(たにはのみちのしりのくにのふどき)』逸文をみると、この神の出自がわかる。要約すると――。

 昔、丹後国丹波郡の比治山の山頂に真奈井とよばれる泉があった。ある日、そこへ八人の天女が水浴をするため舞い降りた。そこに和奈佐という老夫婦があらわれて、一人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女を養女にして十年以上、一緒に生活した。その間、天女は自分の口で穀物を噛み砕いて唾液を交ぜて文字どおり醸(「嚙む」が語源)した、万病に効く酒をつくって老夫婦を富ませた。しかし、のちに家を追われ、竹野郡の船木の里の奈具の村に留まった。これが竹野郡の奈具社の豊宇賀能売(とようかのめ)命である。

 『止由気儀式帳』(八〇四)によれば、このトユケの神が、天照大神が伊勢の五十鈴川に鎮座してから四百八十二年後の雄略天皇二十二年(四七八)、丹波国比治真奈井原から伊勢の山田ヶ原に迎えられたのである。すなわち、雄略天皇の夢の中に天照大神が立たれて、「われは高天原にいた時、求めていた宮処に鎮まることができた。しかし、ひと所に居るのはまことに苦しい。大御食(おおみけ)を安らかに召し上がることができない。丹波国比治の真奈井からトユケの神を迎えてほしい」と告げたという。これが伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の始まりである。

 すなわち、豊受大神は、丹波の比治の真奈井に舞い降りた天女の一人だったのである。比較神話学によれば、こうした天女はいずれも星の精であったらしい。トユケ一人を地上に置いて天に帰ってしまった外の七人の天女たちは、とうぜん北斗七星を想起させる。そうだとすると、トユケは何に相当するのか。

 ところで、北斗七星の第六星の外側に、じつは輔星(ほせい)とよばれる小さな星がついている。和名をソヘボシというが、これを加えると八星になる。「北斗七星はこの星を入れると八個で、陰陽道ではこの星を重視し、金輪星といって信仰の対象としている」(吉野裕子著『隠された神々』)。この金輪星=ソヘボシが、八人の天女の一番下の妹のトユケだったのである。しかし、この説に従うと、トユケは北斗七星に附随する存在になってしまう。伊勢神道のように、トユケを最高神として捉えることはできなくなってしまう。

 ところが、このソヘボシは単なる輔星ではないのである。周知のように、地球の回転軸(地軸)は南北の公転面に対して約六六・五四度傾いているが、それが逆の方向に振れたとき、この輔星が未来の北極星になるらしい。未来の天帝=太一の座にトユケがすわるのである。

 つまり、トユケの大神は、釈尊の涅槃の五六億七千万年後に、兜率天からこの世に降臨するという未来仏としての、弥勒菩薩的存在だったのである。今日の宗教をみていると、自らはまったく意識していないけれど、紫微宮の、未来の天帝に座すトユケの降臨を願って祭っている教団が何カ所かあるような気がする。

 

(菅田正昭 『近代に復活した神々』 「別冊歴史読本 特別増刊 よみがえる異端の神々」(新人物往来社)より)

 

 

・伊勢外宮の神、豊受大神は国祖・国常立尊である。

 

 “出口聖師は、豊受大神はもと綾部の本宮山に祭られ(月鏡)、出口家が代々これに奉仕しておられたといい、また丹波の真奈井の原から伊勢に還られるときに出口家の分家がお供をしていかれたと示されている。また外宮の神主が代々出口姓を名のっているのは、もと綾部からお供をして行った出口氏であると記している。また大本の元老、藤原勇造先生の談によると、かつて昭和七~八年ごろ、伊勢参宮の折、とくに外宮の前で大勢の昭和青年会員を前にして聖師は、

「外宮の祭神を豊受大神といっておられるが、実は国祖の神様をお祀りしているので、名前が違っても同じ神様である」

と話されたということである。このお話は十数年前にきいた話であるが、当時それにもとづいて教団関係の機関誌を調べてみたところが、伊勢参宮の数日前、「みろく殿」でご講話された筆記録として同様のことが掲載されていることを確かめたことがある。

 山崎闇斎の垂加神道の一党をはじめ諸書に「「外宮の祭神は豊受大神ではなく国常立尊である」という説は昔から現代に至るまで存在しているが、実は「豊受大神即国常立尊」で異名同神であることに気づかず別神のごとく考えたからであろう。近代では元海軍大将の山本英輔氏や、京都白峰宮々司石井鹿之助氏等が「外宮国常立尊説」を唱えていた。丹後一の宮元国幣中社「篭神社」の社伝に富士文庫同様に豊受大神即国常立尊であると記されている。また同社記に「国常立尊」を奉斎したという記録があり、国常立尊のお守りの古い木版までも保管されている。” 

 

(「大本教学」十四号 三浦一郎『丹波王朝時代と〈桑田宮〉について』より)

 

(国祖国常立尊)

 

“聖師さまのお話では、日本には大きな流れとして、饒速日の命と瓊瓊杵の命の系統がありまして、瓊瓊杵の命の方は今の天皇さまの流れであり、饒速日の方が開化天皇の流れであるということになる。饒速日命は、十種の神宝(とくさのかむだから)をもらった鎮魂の家であって、人類の魂と神々の世界を結ぶのが使命です。十曜の紋は十種の神宝をあらわしていると教えられた。

 穴太という地名については、外宮の神様さまが元伊勢から現在の伊勢へ移られる途中、駐輦され云々とあるように、豊受の神業″が行われるわけです。丹波の国が主基(すき)田にされて(悠紀田が近江)、天皇がおあがりになるご飯も、神さまにお供えするお米も、ここからさしあげた時代があります。穴太にある郷神社はその″豊受の神業″の一つの記念として残されており、昭和八年頃に聖師さまは″朝陽(あさひ)″という米を選ばれ、これを日本中に播けとおっしゃって各地に領布されたことがあります。つまり、ここから新しい豊受の神業″をはじめていくのである。穴太はそういう″使命がある″とおっしゃったのですが、大本のこれからの使命、謎がふくまれているように思います。”

 

(「おほもと」昭和51年7月号 山藤暁『教御祖のご事績と神話』より)

 

*上記の引用文のように、出口王仁三郎聖師も豊受大神は国常立尊であると言っておられます。豊受大神については、もともと元伊勢から伊勢に移られたということは多くの方が知っておられますが、元伊勢の前は丹波の本宮山に鎮まっておられたのであり、それから元伊勢の比沼麻奈為、そして伊勢外宮へと移られたのであって、皇道大本の至聖所である本宮山が本来は豊受大神の聖地であったことはあまり知られていません。また、出口聖師は、おそらく鍛冶屋だった義弟の仕事場においてでしょうが、秘密裡に十六菊の紋が刻印された御神鏡を鋳造され、弁才天の御神体として綾部金龍海のお社に祀っておられました。そして、その御神鏡は第二次大本事件直前に人手を介して元伊勢籠神社の海部穀定宮司に預けられ、現在もそのまま籠神社に保管されています。まさに大本神業とは「豊受の神業」でもあります。

 

*ブルガリアの超能力者ベラ・コチョフスカ氏も、伊勢外宮の多賀宮を参拝されたときに、「ここにはヤハウェが祀られている」と言っておられます。そして、ベラさんもまたユダヤ人の日本への渡来をほのめかしておられたようです。伊勢外宮の祭神が国常立尊であり、ヤハウェであるというのであれば、ローマ時代にエルサレム神殿が破壊されて以来、もはや神勅によって建てられた主なる神「ヤハウェ」の神殿で、現在も存在しているのは伊勢の外宮のみとなります。私は古代にユダヤ人達がはるばる日本にまでやって来たのは、いずれ国祖が御再現になられるときに、その御用をするためであると思っています。

 

*北斗七星のオマケのような星、『輔星』が未来の『北極星』になるとは、私はこの記事を読んだとき、「家造りの捨てた石が、 隅のかしら石となった。これは主のみ業、人の目には不思議なこと」という聖書の言葉を思い出しました。出口王仁三郎聖師も「星」についてあれこれ語っておられますが、「極の移動(ポールシフト)」のことは、エドガー・ケイシーも予言しておりますし、『国常立尊の御再現』、『立替え立て直し』がポールシフトのことを意味しているというのは、大いにあり得ることだと思います。

 

 

・「宇宙紋章」について

 

 宇宙紋章は瑞霊の神票である。

 

 “……宇宙紋章を会章とさだめられました。また宣伝使の制度をさだめられました。そして甲始会章の宇宙紋章を授けられました。頂いた人が宣伝使に任命されたのであります。宇宙紋章を渡すときに

 「これをもらう人は使命が大きいぞ。星は救世主と大本神のことである。この星を世界の中心に出すのが、使命である」

と教えられました。 愛善会の徽章は、神様が世界の中心になられた姿。

 

(木庭次守編「出口王仁三郎聖師玉言集 新月のかけ」より)

 

 

“此の宇宙紋章が出来ることは、明治三十二年十曜の神紋が出来た当時、開祖様より大本役員に向かって夙に予告せられていたのでありまして,

 「大本には後来、更に新たな紋が出来る。其の紋はミロク神政成就のしるしであるから、此の時を境として大本は云ふに言はれぬ結構なことに代わってくる」

とお告げになったのであります。”

 

(井上留五郎記 「出口王仁三郎聖師校閲 暁の烏」より)  

更始会章

 

人類愛善会章

 

*この「宇宙紋章」は、決して乱用してはならず、神界の許可を得なければ衣服の紋等に用いてはならぬ、とも告げられています。

 

*『隅に在る星を中心に出す』というのは、もしかしたら単なる比喩ではなく、天体にそういった事象が実際に起こることを言っておられたのかもしれません。そもそも、人間は小宇宙であり、人類の進化と宇宙の進化とは連動しています。

 

*「霊界物語」には、国常立尊に敵対する邪神たちの一人、盤古大神塩長彦(ばんこだいじん・しおながひこ)は太陽神界から天則違反を犯して地球へ向かい支那の北方に降臨し、もう一人の邪神大自在天大国彦(だいじざいてん・おおくにひこ)は、天王星から飛来し、北米大陸に降臨したと書いてあります。そもそも出口王仁三郎聖師ご自身が、「我はオリオン星座より来たれり」とも言われており、大正時代にかくも宇宙的なスケールの物語が出されていたとは、驚くばかりです。

 

 

・「大本神話」


 太古において、地上神界の主宰神であられた国祖・国常立尊(クニトコタチノミコト)は、「錦の宮」(現在のトルコのエルズルム)を神都とし、天地の律法を定め、各地に国魂の神を配置して霊主体従の神政を行われていました。しかし、世が開けゆくにつれて邪悪分子もまた発生し次第にその数を増し、ついにはそれら邪神たちの謀略によって国祖の神政は崩壊してしまいます。やむなく天の御三体の大神は、国祖に後の世の再起、そして将来の大神御自身の地上への降臨を伝えられたうえで退隠を命じられ、国祖は神議(かむはか)りにはかられ、髭を抜き取り、手を切り取り、骨を断ち、筋を千切り、手足所を異とするような残酷な処刑を甘んじて受けられたのち、ちょうど節分の日に、大地の東北(ウシトラ)の地である日本に封印されることになりました(しかし、国祖は宇宙の大原霊神(おほもとがみ)である故に、肉体は四分五裂するとも、直ちにもとの肉体に復りたまひ、決して滅びたまふことはありません)。そして同時に、妻神の豊雲野尊(トヨクモヌノミコト)や国祖に随う他の神々らもまた、それぞれの配所に退隠されました。
 正神界の神々の活動が封じられ、盤古大神塩長彦らの体主霊従(われよし)派や大自在天大国彦らの力主体霊(つよいものがち)派の、邪霊に憑依された神々ばかりが跋扈跳梁するようになった世界は徐々に破滅へと向かって行きます。今や人々の忌み嫌う鬼門の祟り神、艮の金神(ウシトラノコンジン)の名で呼ばれるようになった国祖は、それでも神人や預言者達を地上に遣わし世界を陰から守護しつつ、天の大神から約束された復活の時を待ち続け、ついに天運循環し、星辰の位置も元に戻り、明治二十五年の節分の日、因縁の身魂である変性男子(へんじょうなんし)、出口ナオの肉体を機関として再び出現して、神政復古三千世界の立替立て直しの大神業の開始を宣言されたのでした……。

 

・「霊界物語 第一巻」 『国祖御退隠の御因縁』より


地上神界の主宰たる大神さへ、かくのごとく御隠退になるという有様であるから、地上の主宰たる須佐之男命も亦、八百万の神々に、神退(やら)ひに退はるるの已むなきにいたりたまひ、自転倒嶋(おのころじま)を立去りて、世界のはしばしに漂泊(さすらひ)の旅をつづけられることになった。しかし須佐之男命は、現界において八岐大蛇を平らげ地上を清め、天照大御神にお目にかけ給うたと同じように、神界においても、すべての悪神を掃討して地上を天下泰平に治め、御三体の大神様にお目にかけ、地上の主宰の大神となり給う……。”

 

 

・天のみろくさま

 

(大正五年)“十月四日(旧九月八日)午後四時、筆先の神示によって神島まいりに出発する。出口なお(八十一歳)、王仁三郎(四十六歳)、すみ(三十四歳)、それに直日(十五歳)ら五人の娘たち、出口家親戚一統、役員信者たち八十一名は高砂港より大小九隻の船に分乗する。風が出てあゆび(船と陸を渡す四十センチほどの幅の板)が揺れていたが、老齢のなおが畳の上を歩くようにスウと渡った。その姿の神々しさに「この人は生き神さまやなあ」と嘆声をあげる見物人、さそわれて手を合わせる人びとも多かった。

 出船は五日午前二時、どうしたことか王仁三郎はだまりこくり、一言も言葉を発しない。神島まいりのあいだじゅう、指示はすべて王仁三郎の筆で示された。

 

 その夜、出口家一統は大阪松島の谷前貞義方に宿泊した。谷前家の離れの二階で王仁三郎は無言の行のまま神像を描き、階下では神島から捧持した宮の傍でなおが筆先を書いていた。すみは母の背に異様な昂ぶりを感じてハッとした。

 宮の前に顔を伏せ、なおが震えている。声をかけると振り向いたなおの顔に血の気がなかった。

 「先生がのう」 しばらくなおは息をつめたが思い決して一気に言った。 先生がみろくさまやったでよ…

 その言葉の意味がすみには呑みこめなかった。心底から深い溜息をついてなおは言ったという。

 「先生はみろくの大神さまじゃと神さまがおっしゃる。何度お訊きしても同じことや。わたしは今の今までどえらい思い違いをしていたのやで」

 なおはいま出たばかりのお筆先を取ってすみに渡した。

 

 ……みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤(ひつじさる)の金神どの、スサノオノ命と小松林の霊が、みろくの神の御霊で、けっこうな御用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天の御先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。二度目の世の立替えについては、天地の先祖がここまでの苦労をいたさんとものごと成就いたさんから、永い間みな苦労させたなれど、ここまでに世界中が混乱(なる)ことが世の元からわかりておりてのしぐみでありたぞよ…。なにかの時節がまいりたからこれから変性女子の身魂を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして、三千世界の総方さまへお目にかけるが近よりたぞよ。出口なお八十一歳の時のしるし。(大正五年旧九月九日)

 

 ……以下『大地の母』十巻〞天下の秋″ より抜粋する。……

 なおはいつまでも眠れなかった。王仁三郎を天のみろさまと知った喜びか。はた不覚にも今までそれを悟り得なかった悔恨か。王仁三郎と初めて出会った十八年前、若い若いまだほんの子供としてぐらいより見ぬなおであった、神命によってすみの婿にこそしたものの、人間心では常に批判せずにおれぬ男であった。それを神は縦糸に対する横糸、厳(いづ)に対する瑞(みづ)、変性男子に対する変性女子としてみろく神業には欠かせぬものと規定した。それでいながら争いは根深かった。どこどこまでも小松林を追いつめて追い落とさずにはおれなかった。互いにかかる神霊同士のあの長い峻烈な火水の戦い、なおは悩み抜き、ついに王仁三郎こそ坤の金神の御用という動かぬ認識に立った。が、それもあくまですさのおにかかる艮の金神の補佐神としての坤の金神であったのだ。それを神は坤の金神も素盞嗚命も、いや、なおがあれほど非難した小松林命までとび越えて、すべてがみろくさまの霊であり、みろくさまこそ根本の天の御先祖さまであると示されたのだ。さすがに太いなおの肝魂(きもたま)がでんぐり返るほどの驚きであった。

 旧五月二十五日、王仁三郎が神島の神霊を大本にお迎えしてきたのに、神は再びなおに神島渡島と神霊迎えを命ぜられた。なぜ二度までもとなおはいぶかしんだが、今こそ思いあたる。王仁三郎が女装までして現われたのはなおのためであったのだ。坤の金神のお姿だ、となおは驚きながらもう一つ奥の天のみろくさまとは夢にも見抜けなかった。その不明のために神はわざわざ神島のお土を踏ませなさったのだ。無言のうちに悟れよと王仁三郎は示していたではないか。

 

 それすら王仁三郎のわがままとなおは心の底で思ってはいなかったろうか。

 ふと虚心に返ると、虫のすだきが地の底から湧き立っていた。八十一年間の長すぎるばかりの生涯を顧みれば、春夏秋冬、季節の移り変わりを鑑賞するゆとりすらなく生き続け、帰神までは夫や子らを養うための生活と戦い、帰神後は神業一筋に身も魂も没しきった。色花を見ることさえ、心のゆるみと忌み恐れて…それがいつか゛我゛となっていったのに違いない。その最後の我もぽっきり折れた思いであった。毎年鳴いている筈の秋の虫のすだきが、今は痛いくらいに身に沁みる。縦糸は張り終わった。後は横糸が自在に織りなすのを待つばかり。どんなに途方もない錦の御機(みはた)(後述)が織られるのだろう。それもなおがこの世で生きて見ることはあるまい。あとは天のみろくさまのかかられる王仁三郎に任せよう…。深い安堵の底に一抹の淋しさが忘れていたなおの涙を呼びさましていた。大本の活歴史はまさしく神の仕組んだ勇壮なドラマであり、登場する役者たちは神に引きよせられ縦横にあやつられてきた。そのあげくの見事な逆転劇である。゛立替え立直し゛ は'換言すればすべての価値の転換でもあろう。

 悪神・崇り神として押しこめつづけた艮(鬼門)の金神・坤(裏鬼門)の金神が、実はこの世を造り固めた人群万類の祖神であると認識することは、第一に天地のひっくりかえるような神観の根本的転換でなければならない。

 第二には、みろくの出現によって大本の内側に起こった認識の転換である。つまり.艮の金神に再出現を命じた天の主体者であり、国祖退隠のおりの神約どおり、明治三十一年から大化物としてなおの神業と対立するように見せながら、実は助けてきたというのがみろくさま。

 すでに大正五年旧七月二十八日の筆先で「みろくさまのお出ましになる時節が参りてきて、天と地との先祖が表になりて三千世界の世の立直しをいたすぞよ」と予告し、「大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気をつけてあろうがな」と注意もあった。この神島開きの筆先は大本の従来の神観に対して大きな修正を命じるものである。

 王仁三郎の神格と使命がみろくの神の御霊であるというこの神示が出てはじめて、今まで絶対に許されなかった筆先の選択や加筆(ひらがなの原典に漢字をあて、意味をさらに明確にする)などが公然と可能になった。これが『大本神諭』として世間に広く呼びかける発火点ともなるのである。

 王仁三郎の肉体に゛みろくの大神゛がかかったなぞと言えば「だから王仁三郎は大ボラ吹きの大山師だ」と不快に思われるかたがたもあろう。

 あるいは仏教でいう弥勒菩薩を勝手に借りてきたのだと疑われるかたもあろう。たしかに王仁三郎が自分であらわした筆先に出たのなら眉つばである。しかし、これは出口なおが自分の意志とかかわりなく書かされたものである。この筆先が出たとき、なろうことならなおは破り捨ててしまいたい衝撃だったに違いない。

 筆先を絶対と信ずるなおであるからこそ、我を折った。わが手で書いたもので改心させられたのである。

 なおと王仁三郎の血みどろの相互審神の結果、じつは王仁三郎に懸る坤の金神(スサノオ命、小松林命もふくめて)こそ、みろくの大神であるとなおの筆先が実証する、いわば大本的弁証法がここに見られる。

 『霊界物語』(第七巻総説)では、出口なおが王仁三郎の神格を゛みろくの大神゛と認識した大正五年以後は゛見真実゛ に入ったといいそれ以前を゛未見真実゛の境遇にあったとしている。

 なおが゛見真実゛ の境域に適したのはようやく昇天の二年前であった。“

 

(出口和明 「出口なお、王仁三郎の予言・確言」(光書房)より)

 

 

*皇道大本では「第二の天岩戸開き」ということが言われておりますが、人間が小宇宙として大宇宙と相応するのであれば、「大本神話」を各個人に当てはめて解釈することもできるはずです。「霊界物語」の中では「臍下丹田」と書いて『あまのいはと』とルビがふられており、これは私の個人的な考えですが、根の国底の国に封じられた国祖国常立尊が原初において龍体であられたことから、「大本神話」とは、クンダリニーの覚醒による霊的中枢の開放を象徴しているという解釈も成り立つのではないかと思っています。スサノオが八岐大蛇の尾の先から天叢雲剣を取り出し、天に昇って天祖に奉ったというのも同じくクンダリニーの覚醒と上昇を象徴しているように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング