富士高天原の復活 (「天祥地瑞」の世界) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “霊界物語「天祥地瑞」子之巻(七十三巻)の五頁に、

 「いよいよ本巻よりは、我古事記に現れたる天之御中主神以前の天界の有様(ありさま)を略述し以て皇御国(すめらみくに)の尊厳無比なるを知らしめむとするものなり」

と書いてある。真に日本国の尊厳無比なることを知らしめるには、日本最古の書といわれる古事記の記述だけでは不充分であることを示されているように思われる。記紀(古事記・日本書紀)には天之御中主神以前の記録はみあたらない。正史には他にもこれをみることは不可能である。しからば出口聖師は何をもとに古事記以前、天之御中主神以前の『天界の有様』を説かれようとされたのか。これについて、同書六頁に、

 「本書は富士文庫に明記されたる天(あめ)の世を初めとし、天之御中之世、地神五代の世より今日に至る万世一系の国体と皇室の神より出でまして尊厳無比なる理由を闡明(せんめい)せむとするものにして、先ず天の世より言霊学の応用により著はせるものなれば、決して根拠なき架空の説にあらざるを知るべし。富士文庫神皇紀の天の世の神の御名を列記すれば

 一 天之峯火夫神(あめのみねひをのかみ)

 二 天之高火夫神(あめのたかひをのかみ)

 三 天之高地火神(あめのたかちほのかみ)

 四 天之高木比古神(あめのたかぎひこのかみ)

 五 天之草男神(あめのくさをのかみ)

 六 天之高原男神(あめのたかはらをのかみ)

 七 天之御柱比古神(あめのみはしらひこのかみ)

 以上七柱の天神七代を天の世(あめのよ)と称し、天之御中主神より以下七代を天之御中之世と称へ奉るなり」

と記されてある。そして天祥地瑞第一巻第一篇第一章は「天之峯火夫の神」同第三章は「天之高火夫の神」として物語が展開されている。いうなれば霊界物語の第七十二巻までは主として「記紀」を言霊学的に解釈されたものであり、天祥地瑞八巻は「富士文庫」の言霊学的解釈とみることができそうである。

 

 天之御中主神以前のことを書いた文献は官撰の歴史書の中にはない。偽撰とされている旧事紀、旧事本紀、旧事本紀大成経などには出ている。また民間古文書として著名な竹内文書、九鬼古文書、ウエツフミ(上記)、ホヅマツタエ(秀真伝)等には天之御中主神以前の神々がたくさん伝えられている。しかし霊界物語、天祥地瑞のなかに出てこられる「天之峯火夫神」以下の前記のご神名は他のどの文献にも出ていないもので、これを伝えているのは富士文庫だけである。また霊界物語に出てくる「右守神(うもりのかみ)「左守神(さもりのかみ)」という役神名も他の文献にはなく、富士文庫だけにみられる言葉である。

 

 つぎに重要なことは国祖国常立尊に関する詳細な記録である。大本の教義と異なった点もあるが、共通すると思われる面もたくさんある。多少異なるにせよ、今日までは大本の一方的な伝だけで、対立候補とも称すべき国祖の事歴に関する古記録は他に見当たらない。

 富士文庫の記載によれば、国祖国常立尊はインドとペルシアの間におけるマクン州というところから大陸を横断し、日本海を渡って富士山の煙りを目当てに日本島に上陸され、のち丹波の桑田の宮に住され、神陵も丹波にある由を記している。抄出すると次のようである(原文は純漢文体)

 

 国常立尊、諱(いみな)を農立比古尊(のうたちひこのみこと、注:霊界物語には野立比古命とあり)といひ、天之御中世第十五代高皇産霊神(諱農作比古神)の第五の御子にまします。

 農作比古神は第五の御子農立比古尊、第七の御子農佐比古尊に詔りたまはく、日の本なる海原に、状貌世に二なき蓬莱山のあるあり。汝が命等之に天降りて、蓬莱国(とこよのくに)を治(しら)せと事依し賜ひき。乃ち先づ農立比古尊(国常立尊)は、其の依し賜へりし命の随(まにま)に、一族眷属数多の神々を率て、蓬莱山の煙を目標として天降りましき。

 

 蓬莱国(とこよのくに)とは日本を指しており、蓬莱山とは今の富士山を指している。それは中国の山海経や徐福伝をみればよくわかる。

 さらに同章の後尾に、

 

 尊(国常立尊)は一族眷属を従へて、先づ田場国真伊原の要衝に、天の御舎(みあらか)を見立てて、之に遷り止まりまし給ふ。之を桑田の宮といふ。

 

と記している。

 「田場国真伊原」とあるのは丹波国の真奈井の原の意である。記紀によれば雄略天皇の二十一年に丹波国の真奈井の原から豊受大神、外宮神を伊勢の地に遷したと書いているが、富士文庫には豊受大神と国常立尊とは異名同神であることが記されている。出口聖師は豊受大神はもと綾部の本宮山に祭られ、出口家が代々これに奉仕しておられたといい、また丹波の真奈井原から伊勢に遷られるときに出口家の分家がお伴をしてゆかれた、と示されている。また、外宮の神主が代々出口姓を名のっているのは、もと綾部から行った出口氏であり、外宮の祭神は国常立尊であるとも記されている。「桑田の宮」というのは、丹波の桑田地方に神都を築かれたことをあらわしているのだろう。大本本部のある当亀岡地方は昔から丹波国桑田郡と称している。”

 

(「おほもと」昭和45年6月号 三浦一郎『霊界物語と富士文庫』より)

 

 

 “大本人にとって富士文庫は真剣に研鑽すべき文献の一つだと思う。武内宿禰も数年間富士阿祖谷大神宮に篭って富士文庫を研究しており、宿禰の長男も富士に篭って富士文庫の研鑽をしたという記録がある。こんにち流布している竹内文書は竹内宿禰の六十八代の末孫ということであるが、これも富士文庫から出ているのではないかと思う。その他の古文書も源流は富士文庫から流れ出ているのではないかと思う。

 大本は富士山系の神道ではないかと思われるほど、富士山に因縁のある宗教である。”

 

(「大本教学」第十四号 三浦一郎『丹波王朝時代と「桑田宮」について』より)

 

*太古の富士王朝や富士文庫(宮下文書)については、加茂喜三氏の著書などがよく知られていますが、約30年前に来日されたブルガリアの超能力者ベラ・コチョフスカさんも、富士山の麓に古代の文明があったことや、富士山が類い稀なる霊力を持った神の山であることを霊視しておられましたし、徐々に富士山麓の古代文明についての関心が高まってきているように思います。これまで人々の記憶から忘れ去られ、現界とほとんど断絶した状態にあった富士神界が動きだし、少しずつ現界に作用しはじめているのかもしれません。

 

*「霊界物語」第七十三巻からの「天祥地瑞」篇は、まず第一篇『紫微天界』第一章『天之峯火夫の神』において、「富士文庫」に登場する神、天之峯火夫神の神格が明らかにされ、そしてその天之峯火夫神の命を受けて出現した「大元顕津男(おほもとあきつを)の神」の国生み神生みのご神業の物語がはじまります。私には太古の富士高天原の神話が、「天祥地瑞」として現代に甦ったように思えてなりません。

 

⦿()の活動を称して()の大神と称し、又天之峯(あめのみね)火夫(ひを)(かみ)、又の御名を大国(おおくに)(とこ)(たちの)()(こと)と奉称す

 

(第七十三巻「天祥地瑞」第一篇『紫微天界』第一章『天之峯火夫の神』より)

 

(あめ)道立(みちたつ)(かみ)は、紫微(しび)大宮(おほみや)鰭伏(ひれふ)して、

(きた)ります(かみ)何神(なにがみ)なりや』

神慮(しんりよ)(うかが)ひまつりけるに、

天之(あめの)峯火夫(みねひを)神言(みこと)もちて、(いま)より(きた)(かみ)太元(おほもと)顕津男(あきつを)(かみ)

()らせ(たま)ひぬ。”

 

(第七十三巻「天祥地瑞」第一篇『紫微天界』第八章『国生み神生みの段』より)

 

*この「霊界物語」第73巻から81巻までの「天祥地瑞」篇の拝読は、それまでの72巻まですべてを拝読した者にしか許されておらず、さらに必ず正座して拝読せねばならないことになっております(拝読がそのまま礼拝となります)。この太元顕津男の神の「国生み神生みの御神業」の物語は、登場する神々のセリフがことごとく歌になっており、神々が互いに歌を詠み交わすことで「言霊による国生み神生み」のストーリーが進行し、まさに生言霊(いくことたま)によって編まれた「言霊の宝典」となっています。読んでいると何か不思議な感覚を感じられると思いますが、音読していると突然、自分の口から発せられる声が、赤青白紫といった様々な色の光となって、まるで火花のように飛び散るのが見えたという方もいらっしゃいます。前にも書かせていただきましたが、「霊界物語」は「生きて」おります。

 

*出口聖師は、「天孫降臨のつくしの日向の高千穂のくしふる峰とは富士山のことである」「二二岐尊の降臨の高千穂の峰は富士山である」と言われており、「大本神諭」には、艮の金神様の言葉として「むかしの神世に立ちかえるぞよ」とあります。また、大本・愛善苑で日々唱えられている祈りの言葉「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」は、出口聖師が富士の神霊、木の花姫命(このはなひめのみこと)から授けられたもので、もともとは富士神界の神文(しんもん)ではなかったかと思われます。さらに戦後に大本教団の至聖所と定められた綾部本宮山の「月山不二」には、延暦21年(802年)の富士山大噴火のときに山梨県明見村に落下した富士の霊石が鎮祭されています。この延暦の大噴火によって、富士山麓の神代の都は完全に溶岩に埋もれてしまったと伝えられているのですが、まるで、この霊石を出現させることと引き換えに、富士王朝はあえて滅亡の運命を受け入れたようにも思えます。あくまでも私の個人的な考えに過ぎませんが、要するに皇道大本とは、太古の富士王朝、富士高天原の宗教の再現であり、もしかしたらこの「天祥地瑞」の音読によって「富士神界」を発動させ、現界に移写させて神政復古を実現することができるかもしれません。

 

                                     

(月山不二)

 

こんど大本にさく花は、苦労のかたまりの花がさく大本であるから、手間がいるなれど、木の花咲耶姫どのも、くやしかりたなれど、この先はうれしうれしの木の花咲耶姫、くやしかりたおん方、みなよくなる世がまいりたぞよ。”(「大本神諭」明治36年旧4月17日)

 

・皇道大本は高天原教 (富士山は万教発祥の聖地)

 

 “霊界物語からみますと、世界の宗教はすべて、ヒマラヤ山の三倍もあったと言われる富士山(高天原)から出たと言ってもよいのです。世界の宗教や道徳の大根元は高天原教であります。教を奉じて天使や宣伝使たちが大洪水の前に富士山からヒマラヤ山に行って、そこから世界中に宣伝してまわったとあります。この高天原教が世界各地に伝わったのが宗教の始まりです。

 第二度目には、霊鷲山の三大教と黄金山(エルサレム)の五大教が合一して、三五教となって世界を救った。一度目は天教山(富士山)と地教山(ヒマラヤ山)の世界最高の高い所から宣伝されたので、二度目の大洪水のあとは、亀岡や綾部のような低い所にあった聖地から宣伝されました。宣伝使は士農工商すべてに精通した真人たちから伝えられた。一度目は大洪水前に世界の王さまだけが宣伝されたが、二度目は低い所のすぐれた人たちが宣伝使となって世界に宣伝しました。いずれも高天原教の伝達です。万教同根の真理はここにあり、万教発生の原因はここにあります。

 日本人がどんな文化も理解し、どの宗教でも崇教することができるのは、日本から高天原教が世界各地に伝達されて、世界の宗教が生まれているからです。ですから、日本への文化の渡米は、各地の民族と思想とを合わせての里帰りです。霊界物語の神示にしたがいますと、世界全体と同じ素質を日本はもっているので、日本は何でも同化してしまいます。その雛型が大本で、大本は神秘の国日本の縮図ですので、大本は見る人によっては仏教に見え、あるいはキリスト教に、回教に、ユダヤ教に、儒教、道教はもちろんのこと、日本の神道にも見えるのです。教義の上からも、一神教、多神教、万有神教、汎神教等々あらゆるものが、食べたものや尊んだ思想文化を包含して、渾然一体の生命体を形成しています。”

 

(木庭次守編「霊界物語の啓示の世界」日本タニハ文化研究所より)

 

・声による創造(声変わりの霊的な意味) 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “そして、何よりもまず、人間は生殖力に働きかけます。生殖力が今日とは違ったものになるというのは、多くの人々にとって表象しがたいものです。けれども、生殖の仕方は変わるのです。今日の生殖や生殖衝動は将来、他の器官に移行変化します。将来の生殖器官となるように準備されているのが喉頭です。今日、喉頭はただ空気の振動を作り出せるだけ、言葉の中にあるものを空気に伝えられるだけであり、言葉の振動に相応しています。が、やがて、喉頭からは言葉の律動が発せられるだけでなく、言葉は人間や物質に浸透されるようになります。今日、言葉は単に空気の振動となるだけですが、将来、人間はその似姿を言葉のように喉頭から発することになります。人間は人間から発生し、人間は人間を話し、作り出します。話し出されることによって、新しい人間が誕生するようになるのです。

 このことが、現在私たちの周囲にあり、自然科学が説明できないでいる現象に光を投げかけます。生殖衝動は再び無性的なものへと変化し、かつての生殖の機能を担います。男性の人体組織は性的成熟期に喉頭に変化が生じ、声は低くなります。声変わりと、喉が将来、生殖器官になるということとは関連しているのです。神秘学は人生の諸事象を解明し、唯物論的な学問が説明できない現象に光を投げかけます。”

 

 “魂によって体を変化させ得るという観点から考察することによってのみ、人間に変容が可能になります。神秘学的な、霊的な意味において優れた思考を通してのみ、心臓と喉頭の変形は行われるのです。今日人類が思考するものが、将来の人類となるのです。唯物論的な思考をする人は将来、奇怪な存在を作り出し、霊的に思考する人は未来の器官に働きかけ、美しい人体を発生させます。”

 

 “真の認識をもって未来に生きようとするなら、これらのことを知らねばなりません。これらのことは人類の中で作用する力であり、これらを認識、顧慮しなければ、目隠しをして世界の中を歩むようなものです。善悪いずれかの方向に向かおうとする力を認識しようとしない者は、人間の義務を怠ることになります。認識のための認識はエゴイズムです。高次の世界を見るために認識しようとする人はエゴイストです。この認識を日々の生活において直接実行しようとする人が、人類の未来への進化に奉仕しているのです。霊学の中に存在するものをつねに実行に移すことを学ぶのには、非常に大きな意味があるのです。”

 

 “唯物論から脱却し、このような指導的な役割を傲慢、高慢さからではなく、義務から行う霊的な協会を考えねばなりません。未来を準備するために、人々は協力しなければなりません。けれども、地域的に結集するのだと思ってはなりません。種族はもはや問題にはならないので、地域性の概念は意味を失っています。健全な未来を作るために、全地球上の人々が霊的に協力することが問題なのです。それゆえ、この最も深く物質の中に嵌(はま)りこんだ時代において、四百年前に、日常生活のすべての問いに答えられる実践的な霊学が薔薇十字会によって打ち建てられたのです。

 

(ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」(平河出版社)より)

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング