マスコミの害毒 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “今から四十数年前のことである。

 大本は、当時日本のマス・コミの世界が、国民を誤らしむることが大きいというので、文書宣教の第一線として、大正日日新聞を買収、日刊紙を発行して世に警告、覚醒を求めた。

 今日から見れば、当時のマス・コミは、まだまだ脱線した大きい弊害はなかった。しかし、神の目から見れば、それでも危険だとされて、マス・コミの世界に、覚醒の叫びをあげられたのである。

 ところが、言論出版界はあげて、大本の警告を悪意にとり、同盟して反抗挑戦して来たのである。そして徹底的に叩きつけられた。もっとも裏面には、それらの言論出版界を応援する政治的、官僚的な策動も強かった。

 出口聖師は、一切を現地の幹部にまかしていたが、激しい挑戦と策動によって、出版が苦境に陥り、記者陣は恐れをなして、脱落していったので、聖師みずから現地に乗り込み、陣頭に指揮し筆陣を張ってなおマス・コミの害悪を衝いて行ったのである。そのとき聖師は、

 

 「マス・コミの害毒によって国民は神性を汚染され、次第に獣化する傾向となった。その結果道徳も将来一変して人間社会に秩序の規準がなくなる。このとき大本の言論が敗退すれば、それが一つの型となって、日本に思想の洪水が襲い、道徳的泥土時代を招来することになる。もっとも現在の道徳は真の道徳ではない。正しい道徳は神性の基盤に立った新しい、しかも永遠のものでなくてはならない。大本はあくまでもマス・コミが神性の最大公約数の上に一定の規準を持つように覚醒させなくてはならぬ」

 

と、記者陣に訓示し、また激励された。

 しかし、ついに大本は大正十年事件によって日刊新聞を放棄するのやむなきに立ちいたり、丹波に引き揚げたのである。

 時代は移り変わり、四十年の昔語りとなったが、今日はどうであろう。

 マス・コミの弊害は、全く驚くほどで、日夜、その騒音にかく乱されている。しかも、マス・コミは次第に巧妙にになって、いつとなしに国民はその毒素を受け、いつとなしに人間が悪い方へ製造されて行きつつある。道徳的なものは次第に影をひそめ、うすらぎ、思いもしなかった新しい考え方が、獣性の発露が、無意識な無反省が、横行するようになって来た。それをまた是認するというより、無感覚に見て、何の反省も、何の批判もなくなった。まったく砂漠の状態である。

 目の先で殺人が行われていても、われに何のかかわりがあろうと知らぬ顔して、平然と行き過ぎるほどの時代である。

 春の雨がいつとなく大地にしみこむようにマス・コミの毒素が人間の頭をマヒし、良心を枯らし、心をむしばんで来ると、再び復帰することはすこぶる困難である。人為的に覚醒剤を注射してみても一時的な効果はあるが、またいつとなく崩れ去るものである。

 宗教による魂の改造、絶対者による真理の照射以外に道はない。

 社会の一部指導層の者が、今日のマス・コミの弊害に驚いて、あの手この手と、声をあげ、運動を起こしているが、とうとうとした流れには抗することができない。神性はすでに失われ、人間性すら考えられない時代である。

 ヒューマニズムという言葉はある。しかし、それは人間社会から離れた空の雲のように去来しているに過ぎない。

 人間の魂は空虚になって、人間は欲情の感覚を求め、その日その日をうごめいている。マス・コミは人間社会を、あげもおろしもできぬ泥土の世界に引き込みつつある。

 これを救うものは、神以外にない。

 だが、毒素にむしばまれた人間は、神を極度に嫌うものである。理屈なしに嫌うのでる。「何故」という問いには、回答するほどな考えもない。ただ嫌いであるだけである。それは毒素のなせる感情であり、意識である。

 人間は神を知り、神を持つことができる能力のあることを誇り、人間の特質であると称えた過去の人々の言葉は、遠い夢のようにかすれて、現代は神を意識する知性を衷失してしまった。

 神はあまりにも大きく、清く、且つ高い。

 現代は、どぎつい刺激、心魂を凍らすスリル、ばかばかしい爆笑等、直接に身に安易に影響して来るものでなくては価値を感じない状態である。

 数年前には「驚くものは幸せである」といっていた。今日はもはや驚きもしない。そうかといって虚無的でもない。マヒ状態で感覚が鈍になり、神経が硬化したのかも判らない。しかし、自他、場所、位置の差別はない。

 これを神の目から見れば人間とは見えないであろう。神諭に、

 「人民三分になるぞよ」また「三分もむつかしいぞよ」

と示されているが、まさにずばりである。

 美しい、静かな、明るい、清い、高い神という世界にそれらの人間が接近することを好まないのは次元の差、感覚の差からである。

 宗教が次元の違う人間を神に結びつけるには、昔のような教説のしかたではとても困難である。現代の宗教はそこに英知を集め、マス・コミの弊害経路を知って逆に利用して行くか、端的に真剣な体当たりで取り組まなくてはならぬ時である。”

 

       (「おほもと」昭和34年10月号 大国以都雄『随時随想四題』より)

 

*マスコミ報道のすべてが間違っているとは思いませんが、大正時代に既に大本の言論が敗退し、その『型』が出ていたということであれば、戦前から今に到るまで我が国はずっと道徳的泥土時代にあるということになります。確かに、マスコミによって人々の神性は汚染されていますし、私には彼らは意図的に日本を壊そうとしているとしか思えません。今話題のカルト教団についての報道も、こんなことは何十年も前からマスコミ関係者は知っていたにもかかわらず、報道しない自由が行使され続けておりましたし、相変わらず肝心なことは隠されているような印象を受けます。シュタイナーの予言では、おそらくスマートフォンによってだと思いますが、人々は今後徐々に思考力を失っていくことになり、事態は更に悪化してゆくようですし、これから先マスコミ報道に惑わされず正しい判断をするためには、基本宣伝歌にあるように『直日に見直し聞き直す』、つまり各人がそれぞれ『自分の中の高次のもの』との接触を果たし、そこからの内流によって導かれる以外にないのではないかと思います。

 

(かみ)(おもて)(あら)はれて (ぜん)(あく)とを立別(たてわ)ける

この()(つく)りし神直日(かむなほひ) (こころ)(ひろ)大直日(おほなほひ)

ただ何事(なにごと)(ひと)()は 直日(なほひ)見直(みなほ)聞直(ききなほ)

()(あやまち)()(なほ)

ああ惟神(かむながら)(かむ)(ながら) 御霊(みたま)(さち)はへましませよ

 

                 (「基本宣伝歌」より)

 

 

・G・I ・グルジェフ   「自分の中の“高次のもの”だけを信じなければならない」 

 “ある日、グルジェフは、いろいろな生徒を別々に彼の部屋に招じ入れた。私たち夫婦が彼と向かい合ってカーペットの敷かれた床に坐ると、自分自身を誠実に直視しうる自己の深層部にいかに達したらよいいかということを話し始めた。 
 彼はいつにない思いやりと優しさをこめて私たち二人に接した。彼の顔から日常の仮面(マスク)がはがれ落ちると、この世で最愛の人の面影を見る。こうした場合には、彼との霊的絆の強さに打たれ、その力がひしひしと感じられるのである。 
 翌週また幾人かの人々が個人的に呼ばれたが、どういうわけか私は呼ばれなかった。グルジェフはその日一日私を避けているようだった。話さなければならないと感じた私は、大きなテラスに彼が一人きりのとき、思いきってこう聞いてみた。「グルジェフさん、ペトログラード時代に、最初はたった5コペイカ(ペニーに相当するロシアの硬貨)を賭けるだけでよいとおっしゃったでしょう。つまり、あなたの教えを実践し始めるには、最小限の信念をもつだけでよいというわけです。けれども、あなたの言ったことが正しく、また役に立ったということが証明されたなら、10、いや20コペイカ以上も賭けなければならないといわれました。つまり、ますますあなたを信じなさいということになります。それなら、あなたを信じきり、あなたの言うことならなんでも無条件に従わなければならないのでしょうか?」 
 彼は頭を軽く振り、一瞬ためらってから、「もちろんです。概していえばそういうことだが、かりに私がマスターベーションを教え始めたとしても、私の言うことを聞くのかな?」と答えただけで、一言も言わずに行ってしまった。 
 「仕事(ワーク)」の本質を突くこうした言葉は非常に重要である。盲目的に服従するのではなく、自分の目的を常に想起していなければならない。”(トーマス・ド・ハートマンの回想) 

 “ベルリンから帰ってから、ある夜私はプリオーレへ行った。グルジェフは私にしてはならないと思えるようなことを頼んだ。私は自分の部屋へ引きこもった。しばらくするとグルジェフが来て、彼が頼んだことをしなければ、夫に不吉なことが起こると言った。電話がないのでパリにいる夫と連絡がとれない。終電が出たあとだから帰ることもできない。いずれにせよ、意外な時間に帰ったら夫を心配させるだけだ。絶望的になった私は、言われたことをすべきか、すべきでないかと考えた・・・この闘争の最中に、グルジェフがあれほどしばしば繰り返した言葉を急に思い出したのである。・・・自己の内部の高次のもののみを信じなければならない。こう気がつくと、この言葉をしっかりと心に留め、外部からくる何ものも・・・自分の師から来るものさえも・・・恐れなければ、不吉なことは何も起こらないという感じが心の深くにもてた。師は、私が忘れてしまったことを想起させようと試しているだけなのかもしれない。理性でこう考えたにもかかわらず、理解が閃いたにもかかわらず、私は猛烈に苦しんだ。 
 翌朝の始発で帰宅し、寝台のなかで安らかに眠っている夫を見た。のちに「ミラレパ」を読み、チベットの師(マスター)たちは、しばしば弟子たちにこうした難題を与え、師の言うことを何から何まで信じてしまわないようにさせるということを知った。”(オルガ・ド・ハートマンの回想) 

 (トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」(めるくまーる社)より)

 

 

 

 

 

 

 

 


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