「霊界物語」による宇宙との交感、天地の和合 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「神話」の使命と意味  〔J・キャンベル〕

 

 “偏見のない目で人類の宗教的伝統をふり返ってみますと、すぐさま、そのすべてに共通する一定の神話的モティーフが存在することに気づきます。たとえば死後の生とか、悪霊、守護霊といった観念がそうで、これらはそれぞれの伝統のなかでさまざまに理解され、多様な発展を示していますが、基本的には同じものです。医師にして世界旅行者であり、同時に前世紀を代表する民俗学者であったアドルフ・バスティアン(一八二六-一九〇五)――ベルリン大学の人類学講座が創設されたのは彼のためです――は、繰り返し現れるこうしたテーマやモティーフを「基本的観念」(Elementargedanken)と呼び、そして、その地域的形態を「民族的観念」(Völkergedanken)と呼びました。つまり「民族的観念」とは、地球上に住む諸民族がこの「基本的観念」を芸術や風習や神話体系や神学のなかで表象し、解釈し、応用するさまざまなやり方のことです。

 したがって、あらゆる宗教は二つの側面――普遍的側面と地域的側面――から構成されていると考えられます。このことを認識すると、これまでいつの時代にも神学者たちを巻き込んできた宗教をめぐる論争の問題点、つまり特定の宗教には永続的な価値があるのかそれとも一時的な価値しかないのか、あるいはそれは真理であるか虚偽であるかといった論争についての見通しが一挙に開けてきます。さらに、宗教的伝統に関する研究を、互いに関連はしているがやはり別個のものである二つの分野にはっきりと分けることができるようになります。一方は「民族的観念」を扱うものであり、これは歴史学者や民俗学者の研究分野です。他方、「基本的観念」の研究は心理学の課題となります。前世紀以来、多くのすぐれた心理学者がこの基本的観念という普遍的なるものの分析に取り組んできましたが、その中でもっとも洞察に富み、啓発的なのはカール・グスタフ・ユング(一八七五-一九六一)でしょう。バスティアンが「基本的観念」と呼んだ神話的モティーフをユングは「集合的無意識の元型」と呼び、それによって、合理的な観念作用を行なう精神領域から、夢を生み出す識閾下の暗い淵の底へと重心を移動させたのでした。

 この立場によれば神話と夢を動機づけているのは、同一の精神生理学的な源泉ということになります。つまり、その源泉は人間の想像力にあるわけです。そしてこの想像力を動かしているのは、人間の身体的な諸器官(脳も含む)の互いに対立する諸々の欲求です。ちなみに、人間の身体の構造は紀元前四万年もの昔からほとんど変っていません。したがって、夢のさまざまなイメージが夢を見る人の心理状態の隠喩であるように、神話のイメージもその神話を生んだ民族の心理的姿勢を隠喩的に表現しているといえましょう。こうした心理的姿勢に呼応する社会構造を、アフリカ学者レオ・フロベニウス(一八七三-一九三八)は文化的「モナド」と名付けました。彼の考えでは、こうした社会組織の特性はすべて心理的姿勢を表現しており、したがって、その社会を内面から形成している心的な姿勢の象徴としてみることができます。”(P7~P9)

 

 “ノヴァーリスに「魂の座、それは外界と内界が出会うところだ」という美しい言葉があります。この「魂の座」こそ神話という不思議の国なのです。書簡各派外界からイメージを精神の中へと運んで来ますが、そのイメージが己に見合う洞察力と融合し、心の中で変容して初めて、神話となります。仏教との言う仏国土は、適切に神話化された諸々の形象について瞑想することによって心にもたらされる意識の次元であり秩序です。プラトンは普遍的なイデアについて語り、人間はこの世に生まれるときにそのイデアの記憶を失うが、哲学を通じて想起することができると説いています。これらはバスティアンの「基本的観念」やユングの「集合的無意識の元型」に通じるものです。アーナンダ・クーマラスワーミーが指摘しているところでは、アメリカの多くの博物館の壁面や室内に列んでいる平凡な品々、地方の人物とか風景を描いた芸術作品は、インドではdesiya(「地方的な、通俗的な、田舎風の」)あるいはnagara(「洗練された、世俗的な」)と呼ばれ、審美的にはとるに足りないものと見なされています。ところが、寺院や家の中の祭壇に祭られている神々や、敬われている先祖の霊を表わす芸術作品は、内面的かつ霊的な「道」ないし「路」(marga)のしるしと考えられています。この言葉の語源は、動物の足跡とか臭跡という意味の狩りの用語で、狩人はその跡を辿って狙い定めた獲物をつきとめるのです。これと同じように、神々のイメージは、まさに「基本的観念」の地域的形態であり、いわば「最高我」(atman)がその地域を通って残した足跡なのです。こういったものを瞑想することによって信者達は「最高我に対する法悦」(atomananda)に到達するわけです。ここでプロティノスの言葉を引用することができるでしょう。

 「芸術作品を肉眼で見ている人みんなが、同じ対象から同じような影響を受けるとはかぎらない。しかし、それが直観の中に残っている元型の外的模像であることを知るならば、人々は心をゆすぶられ、原物の記憶を取り戻すのである」。

 究極的には、神話というものはすべて、このような使命と意味をもつ芸術作品です。しかし、社会学的および心理学的な観点からすると、神話が内的世界にどれだけ開かれているかは、それが示している外的宇宙への広がりによって定まってくるからです。”(P37~P38)

 

(J・キャンベル「宇宙意識 神話的アプローチ」(人文書院)より)

 

*各民族の神話、特に天地創造の神話が、それぞれの民族の祖先の意識と宇宙とが感応し合って編み上げられたものであるならば、反対に我々は神話を通じて宇宙と感応することもできるはずです。また、時代が経つとともに人類の集合的無意識の中へ多くのものが流れ込んだのであれば、古い神話は、それら集合的無意識から汲み上げたものを材料として、新たに「更新」されねばならないはずです。出口王仁三郎聖師が、「『古事記』を新しく書き改める」と言われたのも当然だと思います。「霊界物語」が、その新しく更新された「古事記」に相当するわけですが、出口聖師は、現代人のみならず、遙か未来の人類のためにも説いてある神書であるから、現代人には理解できない箇所も多くあるが、それは致し方ないとも言われています。分からないままでも、とにかく読むことが重要です。

 

*出口聖師は、天界を現界に移写させるためには、まず「相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない」「神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ」と言われました。しかし残念ながら世界が今のような状況では、現界は神界とはあまりにも異なり、相応することなど全く不可能であって、現実は地獄との相応、移写ヘ向かって突き進んでいるとしか思えません。現界と神界との相応を可能にするためには、現界と神界との中間に、その両方の世界と相応できる「霊界」が新たに創造されねばなりません。そうすれば、その霊界を媒介として、間接的に現界は神界と相応することが可能となります。これは私個人の考えにすぎませんが、出口聖師が神人合一の境地で創り出した、霊界物語の『霊界』こそが、その現界と神界の媒介となる『霊界』であると思います。いわば「霊界物語」そのものが媒介天人つまり宣伝使であり、そのように考えると出口聖師が言っておられた、「これまでの宗教は天国はつくったが、霊国をつくったのはわしが最初じゃ」、「『霊界物語』で宣伝使をつくる」、「『霊界物語』を読まない宣伝使は無謀だ」、「『霊界物語』が一組あれば、これを種にしてミロクの世は実現できる」「音読する者は神業に参加しているのだ」などの言葉にも納得できます。また、73巻からの「天祥地瑞」の拝読は、それまでの72巻までをすべて読んだものにしか許されず、「神格が高くなった」ことがその理由なのは、現界と相応する霊界、神界と相応する霊界と二段階に分けられているからかもしれません。

 

 

・天界と現界の相応  〔出口王仁三郎聖師〕

 

 “みろくの世は、霊界が整うのであって、現実の世界がそれに相応して整うて来るのである。神を祈り、神に礼拝していれば、現実界が一切良くなるのではない。神を礼拝し、祈りつつ、その祈りの心を容れている体の世界が現実に完成するべく努力するのでなくてはならない。手をこまねいていて、みろくの世が出現すると思うものは信仰上の痴者である。

 神は天地経綸の司として人を創り給うた。即ち人に地上の経綸をゆだねられたのである以上、人の世における善化、美化は人がなさなければならない使命を負わされている。人のなさねばならぬことをなさずして、良き世界ができるようにといくら祈っても、既に人間のなさねばならぬ、神よりの使命を放棄しているのであるから、左様な人の祈りに、‘みたまのふゆ’があるべき道理がないのである。霊体一致だ。”

 

 “霊界が現界に相応してくるといっても、全然異なっている形式の世界が相応するものではない。相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない。動物霊は動物的の形式、即ち精神に相応し、天使は人としての内分が天界に向かっているときに相応してくる。それだから神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ。そこで神は天国を地に来たらしむるために神意を啓示し、教化の道を開示するのである。そして現界に住む人間の心の中に、天界を容れ収むる形式が少しでもできれば、そこに基礎が相応して来るのである。それだから教えの無い、神の意図の啓示されていない宗教がいかに発展していっても、天国は地上に建てられるものではない。教の権威はその点にあるのであって、人智をもって人の心を導くことは危険至極なことであって、天界との相応が成り立たないのである。”

 

 “力が支配している間は天界は相応するどころか、次第に天界は遠ざかるものである。天界が接近して来るのは力よりも真理、愛善という状態にならなくてはならぬ。一言にして言えば、正しい宗教、正しい宗教情操が常識化された世界とならなくてはならないのだ。宗教が基礎となった人類文化世界が建てられなくてはならない。それだから、人はそうした世界を建てるための共通の使命、責任があるというのである。

 人類の進歩、人類の文化向上ということは、天国との接近、天界との相応に目標があるのであって、いくら人権が尊重され法律が強化されて秩序ができたからといって、それで進歩した文化の世と思うのは誤りであり、天界と相応しない現界は、永続性があるものではない。それで人々は天界と相応せしむる世を建てるべく目標を置くと同時に、それに向かったあらゆる努力が払われなくてはならない。”

 

(「海潮」昭和25年7月号 大国以都雄録『相応の世界』より)

 

 

 “わたしにその癖があったからでしょうが、「学校で学級的に研究するように読んでも霊界物語はわからん、もっと素直に受けとれ」と聖師は言われる。「霊界物語には特別に上品なところから、下劣きわまりないところまでいろいろある。だからすべてを素直に受けとるわけにはいかない」と私がくい下がると、聖師は、「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ。お前の心身にしてもそうだろう。非常に高貴な面もあれば下劣な面もあるが、すべてが寄りあってお前の人格となっているじゃろ。それと同じように考えて霊界物語を読めば、立派な神書だということが理解できるはずだ」というようなことを言われた。”

 

(「いづとみづ №103」『大国以都雄に聞く 全時空を包含する霊界物語』より)

 

・「霊界物語」を口述中の出口聖師

 

 “また聖師は口述中、真夏であっても、寒い場面の話になると、部屋にコタツを入れ、火鉢を入れて『おい、寒いから布団をかけてくれ』とおっしゃいます。また反対に寒い季節でも、暑い国の場面になると『あつい暑い』と言って汗をタラタラ流され、『火鉢やコタツをのけろ』とおっしゃるわけです。聖師は精霊がそういう場所に行っておられるので暑くてたまらんのでしょうが、生身の私たちは寒くてたまらんわけです。こんなことはよくありました。

 口述中の聖師は時間、空間を超越しておられますから、朝から夕方までぶっ続けで口述ということがあります。私たち筆録の者は腹がへってたまりません。ついにガマンしきれず、もうぼつぼつ食事にしましょうと申し上げると、『なにをいうか、こんなにおいしい食物や果物がでてくるのだから、お前たちも腹がいっぱいになるだろう』というわけです。聖師は想念の世界を縦横無尽に駆けまわられ、おいしい食物をいただかれるのでしょうが、私たちはたまりません。こんなこともよくありました。

 それから最奥天国の場面になると、『神さんの光は大きいやろう』とおっしゃいます。私にはサッパリわかりません。『お前にはあれが見えんか、お前は天国にはまだ入れんなァ、もっとやちまたで修行せんといかんな』とおっしゃる。私はヤンチャですから、私はやちまたで結構です、とへらず口をたたいたものでした。また宣伝使がたくさん出てくる場面では、「たくさんの宣伝使がおるが、お前が一番かわいそうじゃのう」なんでですかと聞くと、『一番最後まで残って地獄まで行っていなければならんからだ』とおっしゃるんですね。そして『神様の使命を帯びたら、地獄を天国にしなくてはならん。お前が適任じゃ』とおっしゃる。”

 

(「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』より)

 

 

・言霊神劇 (霊感者には音読している場面が映像で見える)

 

 “霊界物語はなるべく声を出して読んだ方がよい。霊眼の開けた人には、物語を声を出して読んでいると、多くの霊が聞きに集まってくるのが見えるそうである。また物語を読んでいる人の口から、声に応じて、強い霊の光が噴霧器のように飛び出しているのが見えるそうである。とにかく、声を出して読むと、目と口と耳に、文字や言葉の刺激が加わるために、記憶が一そうはっきりすることは確かである。また、皮膚全体からその雰囲気を感じることができるのである。

 周囲の状況から、声を出して読むことができない人は、声を出さないで唇を動かすようにしてもよい。要するに、文字だけを見て速く読んでしまわないで、普通に我々が話をする位の速度で、ゆっくり読むのである。読むというよりも、その人物の気持ちになりきって、話をするという気持ちである。すなわち、はじめは努力が必要であるが、慣れると、読む言葉に応じてテレビのように、脳裡に物語の劇が上演されるようになるのである。これを「読む劇」というのである。物語の場合には「言霊劇」と言った方がよいかもしれない。この「言霊劇」がちょっとでも見えるようになると、もう物語が面白くてしかたがなくなる。俗悪な世間の小説やテレビ小説などは、読んだり見たりすることが馬鹿らしくなるのである。この「言霊劇」を見ていると、心が朗らかに温められ、清められて、ゆったりとしいた気分にひたることができるのである。そして、物語の拝読が無常の楽しみになるのである。”

 

           (「霊界物語の栞」第2号 浅井昇『拝読は読む劇』より)

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング