キリストの復活 (不朽の身体) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・シュタイナー人智学

 

 “パウロは、第一のアダムと第二のアダムすなわちキリストを区別する。彼は第二のアダムを、地上の人間の始祖と名づける。なぜ、そうしたのかを理解するのは、困難ではない。アダムという最初の人間からすべての人間が発生した、と彼は見た。物質的な身体を人間に伝播した者という意味である。あらゆる人間がアダムから、物質的身体を受け継いだのである。この身体は死を免れない。

 パウロは第二のアダム、すなわちキリストを、これとは反対に、永遠の不死の身体を持つ存在であると考察する。キリスト教の発展をとおして、しだいに第二のアダムが第一のアダムに取って代わる、とパウロは見ている。第一のアダムの朽ちる身体に代えて、第二のアダム、キリストの不朽の身体を人間はまとうのである。

 第一の無常の身体がアダムに由来するように、不朽の身体は第二のアダム、キリストに由来する。キリスト教徒は、「私はアダムに由来するから、アダム同様、無常の身体を有している。私はキリストと正しい関係を持つことによって、第二のアダムであるキリストから不朽の身体を得る」と言わねばならない。”

 

(ルドルフ・シュタイナー「シュタイナー キリスト論集」(アルテ)より)

 

*「不朽の身体を得る」とありますが、これは霊的に解釈すべきであって、永遠なる存在である神と結びつく「神人合一」のことを意味するのだと思います。

 

・スウェーデンボルグ神学

 

 “スウェーデンボルグの贖罪論をもう少し明確にするためには、イエスの人格の内で起こった、内部の神的霊魂とマリアから取った外部の人間性との合一のプロセスについて述べなくてはならない。

 イエスの内で神性と人間性とが順序を踏んで合一し、ついにその人間性が「神的人間性」となるプロセスを、スウェーデンボルグは「栄化」と呼ぶ。そして、このプロセスは聖言の霊的な意味として、特に「創世記」の第一二章から最終の第五〇章までに詳細に記述されているという。『天界の秘儀』で彼は膨大な釈義を展開してこれを明らかにしているが、ここでは「栄化」について要点だけを述べておく。

 スウェーデンボルグは、生前のイエスは、神性と一時的に合一した「栄化された状態」と、まだ神性と離れていた「卑下の状態」という二つの状態を有した、と説く。「卑下の状態」とは、イエスが自らの内に在(いま)す神的霊魂と分離し、他人に祈るように、内面の父なる神に祈るといった状態である。これは、多くの聖書学者が「イザヤ書」第五三章に預言されていると指摘する「苦難の僕(しもべ)」としてのイエスである。

 神ヤハウェは救済神として人類を救うべく、マリアから取った自らの人間性の中に、つまりイエスの人間性の中に、人間の脆さと交流できる基盤を形成した。この意味では、イエスはマリアから取った罪に汚染された人間性のうちに、人類の罪を集中的に負ったのである。

 しかしイエスは、身代わりになったのではなく、内なる神的霊魂から来る力によって人類のさまざまな罪と現実に戦い、これを自らの内で征服して秩序づけたのである。その苦悩、苦痛、悲しみ、嘆きは、そのまま、ひとりの生きた人間の実存的な精神的葛藤であった。十字架の死も現実の戦いであり、最後の試練であった。イエスはそれにも打ち克って自らの人間性を内部の神性に合一させ、人間性を完全に神化して、神的な人間性と成したのである。こうしてイエスは、その生涯にわたる悪や罪との戦いの全戦全勝の勝利者・征服者となって人間性を栄化し、永遠の救済者となったのである。

 スウェーデンボルグは、「私たちを創ったのと同じ神が私たちを贖い、新生させ、救うということを健全な理性を持つ誰が承認しないであろうか」(「新教会教理概要」Summria Expositio Doctrinae Novae Ecclesiae 37)と述べ、救済は神の全人類への無限の愛からなされた全能の業(わざ)であった、と説いている。”

 

(高橋和夫「スウェーデンボルグの思想」(講談社現代新書)より)

 

*スウェーデンボルグ神学では、「イエスは人間性を内部の神性に合一させ、人間性を完全に神化して、神的な人間性と成した」となっていますが、これは451年のカルケドン公会議で「単性論」と誤解され、分離したエジプトのコプト正教会やシリア正教会、アルメニア正教会とほぼ同じ教義のように思えます。

 

*江戸時代の浄土宗の聖僧、徳本(とくほん)上人の言葉に、「徳本が仏になるのは難しいが、仏の方から徳本になってくださるので、仏にならずにおられない」というのがありますが、これは「聖言」の読誦による「神の意志想念」の人間への流入、あるいはカトリック教会や正教会における「聖体の秘蹟」と同じことを言っているようです。罪や欲望にまみれた人間には、自力での救済は絶望的ですが、誰か一人でもそれを達成されたなら、その方あるいはその方から発せられた御言葉(「聖言」)と結びつくことによって、我々もその恩恵に与ることが可能となります。イエスの十字架上での死と復活は、まさに神が人となり、その救済の道を開かれたという人類史上稀に見る出来事でした。ルドルフ・シュタイナーや、エドガー・ケイシー、さらにスウェーデンボルグも同じようなことを述べていますが、キリスト教とは、単に数ある宗教のうちの一つではありません。キリストの降誕、十字架、そして復活の秘儀は、万物に影響を及ぼし、その霊性はあらゆるものに浸透し、キリスト以後の地球は、より霊的に高い次元へと引き上げられています。そして、「わたしにはまた、この囲いに属さない他の羊があります。わたしはそれをも導かねばなりません。彼らは私の声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」(ヨハネによる福音書10章16節)とあるように、キリスト教徒ではなくとも、キリストの霊性を受け継いでいるという人々や宗教も存在します。ヒンドゥの神クリシュナの神話とイエスの生涯にみられる多くの共通点や、紀元後に仏教が大乗仏教へと発展していったことなどが、それに該当するようです。さらに、万一ある時代の教会が腐敗・変質し、その使命を果たせなくなったときには、主によって他の場所に新たな教会が興されることが定められており、スウェーデンボルグは、それは既存のキリスト教世界から遠く離れた、それまでキリスト教徒がいなかった異邦人の地においてであると予言しています。

 

 “私は、朝から晩まで物語を読んで、一体何を得たんやろうと考えてみたことがあった。当時照明館の御神前で、大きな声で一生懸命拝読していた。聖師さまが来ちゃったらしいが、気がつかなかった、面白くて……。あとで聖師さまが、

 「大国、あの状態になったら神さまと相応するわい。そこまでいったらわからんでもいいわい。天国はその状態だ。その状態を体験し、それをつみ重ねていったら最高に行けるぞ。神の意志想念と人間のそれが一致するという状態になり、人間の世界を忘れてしまう。そこにはじめて救いがある。それを一生懸命やったらいいぞ」

 と言われた。”

 

(「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

*出口王仁三郎聖師は、八百万の神々はエンゼルにすぎず、信仰の対象とすべきは主神および主神の神格に充たされたる預言者のみであると説かれました。宗教、宗派によって、主神は様々な名で呼ばれ、預言者もまた何人もおられますが、どの宗教宗派であろうとも、とにかく主神(本仏)と結びつくこと以外に救いの道は存在しません。

 

 ”祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神様に礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神様はただ一柱しかおはさぬ。他はみなエンゼルである。”(大正十五年二月)

 

(出口王仁三郎述・加藤明子編「如是我聞 水鏡」天声社より)

 

 

・一神教と多神教 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。

  (松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房))

 

 

 「われらが神キリストの救いをもたらす光栄ある御復活の、聖なる輝かしき日を祝して朗読される、われらが教父聖ヨハンネス・クリソストモス(4世紀)の説教」

 “
敬虔なる者、神を愛する者はみな、この美しく輝かしき祝典を享受せよ。忠実なるしもべはみな、おのが主の喜びの中に入れ。断食の苦しみを味わいし者は、今その代償を受けよ。1時より働きたる者は、今その正当なる報酬を受けよ。3時以後に来たる者は、感謝の気持ちもてこの祝典を祝え。6時以後に来たる者は、ためらうことなかれ、何も欠けたるものなきゆえに。9時になりて来たる者は、ためらうことなく近寄れ。11時になりて来たる者さえ、その怠慢を恐るるなかれ、主は寛大に最初の者も最後の者も受け入れ給うゆえ。主は最初の労働者と同様に、11番目の労働者にも休息を認め給う。主は最後の者に慈悲を与え、最初の者を保護し給う。最初の者には恩恵を与え、最後の者には恩恵をなし給う。主はその成果を受け、愛もてその熱意を歓迎し給う。その行為に敬意を払い、その志を称賛し給う。さればみな、主の喜びの中に入り、初めに来たる者も後に来たる者も報酬を受けよ。富める者も貧しき者も混じり合え。節制したる者も怠惰な者も、この日を讃えよ。断食をしたる者もせざる者も、今日は楽しめ。食卓は食物に満たされたるゆえ、みな底意を持たずに味わえ。肉も用意されたるゆえ、再び空腹となる者なからん。みな信仰の祝宴を味わえ。みな美徳の豊かさを味わえ。貧しきを悲しむ者なからんことを、すべての者の王国が現れしゆえ。おのが罪を嘆く者なからんことを、免罪が墓より現われしゆえ。死を恐るる者なからんことを、救い主の死がわれらを解き放ちたるゆえ。主は死にとらわれ給いし後、死を消滅させ給いぬ。主は冥府に降り給いて、冥府より自らを奪い給いぬ。主は苦しみもて冥府に満たされ、肉体を試し給いぬ。イザヤがかく叫び給いし時に告げたるごとく。冥府は、地下にて御身と会いし時、苦しみを受けたり。冥府はその力を破られしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は滅ぼされしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は支配力を失いしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は鎖につながれしゆえ、苦しみを受けたり。冥府は遺体を受けんと思い、神を見たり。冥府はちりを期待し、天に向かいたり。見たるものを受けんと思い、見ざるものにつまずきたり。おお死よ、汝の棘はいずこにあるや。冥府よ、汝の勝利はいずこにあるや。キリストはよみがえり給い、汝はちりの中に沈みぬ。キリストはよみがえり給い、悪魔は倒れぬ。キリストはよみがえり給い、天使は歓呼す。キリストはよみがえり給い、生命が支配す。キリストはよみがえり給い、墓にはもはや誰も横たわらず。キリストが、死よりよみがえりたる死者の初めなるゆえ。キリストに永遠に栄光と力を。アーメン。”(今谷和徳氏訳 LP「アトス山の復活祭」の解説文より)

*今晩はカトリックの典礼暦では復活徹夜祭で、イエズス・キリストの御復活をお祝いすることになっています。東方正教会(オーソドックス)ではユリウス暦を使用しているため(カトリックはグレゴリオ暦)、今年の復活大祭(パスハ)は4月24日になるのですが、各地の正教会では前日の夜から徹夜で祭典が行なわれ、最後に、この聖ヨハンネス・クリソストモス(金口イオアン)の説教が朗読されます。その朗読の後に司祭が「クリストス復活!」と唱え、信徒が「実(じつ)に復活!」と応えるのを三回繰り返すことになっています。

 

*このLP「アトス山の復活祭」のレコード(CDにもなっています)が録音されたクセノフォントス修道院には、私も30数年前に実際に訪れ宿泊させていただき、聖体礼儀にも参加させていただいたことがあります。復活大祭ではありませんでしたが、決して忘れられない素晴らしい体験でした。

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング