人間関係トラブルの回避 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・野口晴哉先生 (野口整体)

 

 “「小学校に入った頃には、メスメルや、クーエを一生懸命に読んで、自己暗示や、催眠術の実験に興味をもった。

 ある日教室で、歯が痛いといって泣いている女の子がいた。

 そこで催眠術の実験をやってみたんだ。そしたら、さーっと痛みがなくなってしまった。その子も、まわりの友達もびっくりしたが、僕の方がもっとびっくりした」

 「映画館は、切符売りの女の子が可愛がってくれて、いつ行ってもただで入れてくれた。

 ある時、帽子を被ったまま、見ている男がいた。僕は小さいから見えない。そこで、その男に『帽子をとる』と思念した。すると何となく帽子をとるんだ。

 席がないときは、坐っている男に、『小便したくなる』と思念すると、何となく立って行ってしまう。

 口で言わなくとも心は通じる。意識を通さなくても気は伝わる。それから面白くなっていろんないたずらをした」

 「入谷のお祖父さんは金沢の人で、若い時、お祖母さんと駆け落ちをして東京へ出てきたそうだ。信心深くてね。本願寺のお説教を聴きに行くのに僕を連れて行くんだ。

 僕は退屈だから、前にいる女の人に、『揺れる、揺れる』と思念していると、だんだん揺れてくる。隣も、その隣も揺れてくる。そこで、今度は、坊さんに思念したら、坊さんも揺れ出して、揺れながら説教していた」”(P20~P21)

 

 “それはまさに

 念ずれば現ず

 我が思う如く、我が事成る也

であった。

 

 この言葉をそのころの語録で読んだ私は、或る日、先生に訊いた。

 「『念ずれば現ず』なら、人を呪うことでも実現するのか」と。

 すると先生は、

 「それもまた、自分に返ってくるさ」

 と、いともあっさりと答えた。

 確かに、天に吐きかけた唾は、自分の顔にかかる。人を呪っている人の人相は悪い。その逆に人の幸せを願い、愉気している人々の人相はどこか美しい。

 そうすると、自己の世界はいつのまにか、自分自身がつくっているのかもしれない。

 

 ある人が先生に訴えた。

 「講習会にどうしても行きたいけれども、姑が意地悪するから行けない」と。

 すると先生が言った。

 「ほんとうに行く気があるなら、姑のせいにしないで、先ず『行く』と心に決めなさい、事態は自然に拓ける」と。

 その人は、明るい顔をして講演会に来た。

 「どういうわけか、姑が機嫌よく出してくれた。先生の仰る通りでした」

 

 「最初に意欲がある。空想がある。理由は理屈はあとからつけるものだ」

 と先生は言う。

 だから『念じた通りになる訳はない』と思っている人は、そう思っていることが実現しているに過ぎないのだろう。人間は自己の可能性をいつのまにか限界しているのかもしれない。

 とは言っても、私自身、やはり先生の『念ずれば現ず』が、不思議で不思議でしょうがなかった。

 これは、戦後の下落合道場のことであるが、

 「僕が、例えば羊羹を食べたいと思うと、誰かが必ずもってくる」と先生が言った。ほんとうにいつもその通りになるので、弟子のMさんが口惜しがり、

 「ここの道場は男より、ばあさんの方が多いですね」と言った。その人は柔道六段の捻れ型だったので、先生も急に捻れたのだろう。

 「それなら、今日の夕方、道場に坐っていろ。男ばかり集まる」と言った。

 夕方、私はまさかと思って道場を覗いてみた。何と、黒々と男ばかりがズラリと並んでいる。階段を上がってくる人も男、男、女は一人もいないのだ。

 私は唖然として、Mさんと顔を見合わせた。

 「奥さま、ほんとうに男ばかりですなァ」

 堂々たる体軀のMさんが、負けたと思ったのか、気弱そうな小声で囁いた。

 夜になって、先生が言った。

 「人間には、意識を通さないで、直接、感じ合う心がある。だから僕が思念すると、何処かで、誰かが感応して、集ってくるんだよ」(P52~P55)

 

「修業なんて無駄なことさ。みんなお互いに暗示し合って、相手を金縛りにしているじゃないか。自分もまた自分を金縛りにしているじゃないか。

 人間はもっと自由な筈なんだ。だから僕のやって来たことは、人を金縛りにすることではない。すでに金縛りになっているものを、どうやって解くかということだ。暗示からの解放だよ」”(P46)

 

(野口昭子「回想の野口晴哉 朴歯の下駄」(筑摩書房)より)

 

 

・グルジェフ・ワーク  〔ハートマン夫妻〕

 

 “それはさておき、妻は、購入のオプション付きでプリオーレを一年間借りるという条件を、マダム・ラボリーに同意させねばならなかった。そして、同意させてしまったのである。

 

 窓から見える大庭園には噴水と池があり、庭園の向こうにはライムの並木が続き、その先には池に囲まれた二つめの噴水があります。回りは全部で四〇エーカーほどの美しい松林です。

 ゲートわきには小さなしゃれたガーデンハウスがあり、そこに住む庭師は残しておくという条件さえなければ、申し分のない交渉内容でしたが、グルジェフは庭師が残るのを好まず、庭師を出すようにもう一度交渉してくれと言いました。こちらは家を借りるだけですし、古美術品や非常に値打ちのある家具を置いたまま、マダム・ラボリーが庭師を去らせるようなことはまずあるまい、と私には思えました。グルジェフはこう言いました。「交渉相手とたとえ雑談を交わしているときでも、庭師は去らなければならない、ということを念じていなさい。相手はそうしますよ。」彼のこの言葉を義務づけられた訓練(エクササイズ)だと考えて、言われたようにしました。あまりにも意外でしたが、マダム・ラボリーと三十分ほど雑談しておりますと、「ええ、いいですよ、庭師を出て行かせましょう。あなたのような方でしたら、家にあるものは何一つ壊すことはありますまい」と言ったのです。私は庭師のことなど一言も言わなかったのですが!”

 

(トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」めるくまーる社より)

 

*人間関係、隣人トラブルなどで悩んでおられる方は、相手に直接口で言う前に、まずは「念じてみる」ことを試してみてはどうでしょうか。もちろん、あくまでも共存共栄が原則で、自分勝手な望み、相手が一方的に不利益を被るようなことを念じてはなりません。

 

*歓喜天(聖天)尊の熱心な信者であられた林屋友次郎先生は、大事な交渉ごとの時は、常に相手を聖天様だと思って交渉すると、常にうまくいったと言われています。やはり、相手に対する敬意も必要なのだと思います。

 

 “その当時の私は、自分の経営しておった鋼材会社の経営が依然困っておったものであるから、絶えず無理な借金をしたり、種々な無理なことを各方面に頼んで歩かなければならなかった。そういう場合に私の採って来た方法は、頼みに行く先の人を総て聖天様にしてしまうということである。例えば、銀行に行って金を借りる場合で言えば、貸してくれる重役を聖天様にしてしまうのである。銀行から金を借りようとすれば、銀行に行ってまず重役に会わなければならない。銀行に行って重役に会おうとして名刺を出せば、大抵の場合十分や五分位応接間で待たせられるにきまっている。こうして応接間で重役を待っておる間に私はいつも聖天様を祈ったのである。そうしてその時に聖天様をお祈りする方法は、その時に重役が来て座る座席を聖天様の御座と心に思い詰め、そこに聖天様の招印を結び、その重役が出て来る迄、五百遍でも千遍でも一生懸命に聖天様の御真言を誦え、その重役が出て来た時には、その重役を聖天様なりと思い込んで、聖天様にお目にかかる気持ちで、その重役に逢うのである。こうしてその重役を聖天様にしてさえしまえば。聖天様は初めからわたしを助けようとしていらっしゃる神様であるから、私から無理を頼まなくとも、聖天様たる重役の前で私を助ける方法を考えて、貸せるだけのお金は貸してくれるにきまっておるのである。私はこういう方法で人に会って見るに、会う人は必ず私の要求を聞いてくれた。それでも尚その人が私の言うことを聴いてくれないような場合には、私は私の聖天様の勧告の仕方に尚足りないところがあるからだと思って、途中で何回でも招印を結び、心からその人に嘆願するようにしておったのである。”(林屋友次郎『私の入信の体験』)

 

(「昭和新篇 大聖歓喜天利生記」(大井聖天堂大福生寺)より)

 

 

 

 

 

 


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