ベリアルの子ら (いじめの根源にあるもの) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・アトランティスの崩壊  〔エドガー・ケイシー〕

 

 “「物質的な人々の快楽のために霊的なものを使うことによって、大陸に最初の破壊をもたらした紛争に先立つ時代のアトランティスは、『神の子らが人の娘たちの美しいのを見た』と記されている世界であった。」(一四〇六-一、一九三七年七月)”

 

 “「彼らは物質的なことをその源が何であるかも、人の苦しみも考えずに自分のためのみに使うことに満足していた者たちである。換言すれば、今で言う道徳心に欠けた者たちだったのである。ベリアルの子らは、自分以外、自我の満足以外何も基準を持たなかった。」(八七七-二六)

 

 このベリアルの子らに対抗したのが「神の掟の子ら」である。その基準はこうだった。

 

 「魂は定められた時に、神によって、あるいは外なる源によって精神的、霊的自己の投射体として生み出されるものである。これは神の掟の子らの基準であったが、しかしベリアルの子らから無視されたのである。」(八七七-二六、一九三八年五月)

 

 あたかも地球の生命体に自分を投じた霊体は創造的な力を備えていたかのように読める。ある者たちはこの創造的な力を自分の目的のためにグロテスクな生物を作り出すのに使い、地球に進められていた進化のパターンを妨害したのである。これは即座に起きたわけではない。この時代に先立つ頃のことを述べたリーディングがある。

 

 「アトランティスで、神の掟の子らとベリアルの子らとがはっきり分かれ出す前の時代に‥‥‥」(一四七四-一、一九三七年一〇月)

 

 「アトランティスで快楽のために力が応用されるに従い、さらに物質化を進展させた対立者としてのベリアルの子らが台頭し始めた時代に‥‥‥」(二八五〇-一、一九四二年一〇月)

 

 意見に分裂が起こり始めたのは、何よりも利己的な好みを満たすことに関心を抱き始めた者たちが出てきた後である。あるリーディングは次のように言っている。

 

 「体の物質的欲望、物質的事柄を満たすことに耽ることによって多くの人々に苦しみを負わせ、そのことによって、この実体は霊的基盤を失ったのである。」(一三一五-二、一九三二年一月)”

 

 “「最初の変動が起こったアトランティスで、ベリアルの子らが神の掟の子らの娘たちに人間関係でのあらゆる種類の行きすぎた快楽を楽しむ能力を持ち込んだ時代に‥‥‥」(一九九九-一、一九三九年九月)

 

 前のリーディングは神の掟の子らとベリアルの子らという二大勢力の台頭を描いている。ウェブスター辞典によると、ベリアルとは、「忌まわしきもの、悪の人格化」と定義づけされている。死海写本に「光の子ら」と「闇の子ら」という表現が散見されるのは興味を引く。”

 

 “「アトランティスでその地に破壊や分裂が起きてきた最初の破壊期に、その実体は地球内部各所の火を誘う爆弾の製造を助け、これが破滅の力と化した。」(六二一-一、一九三四年七月)

 

 かくして人造の破壊兵器が火山爆発や地震の引き金を引いたのである。これが地表の様相を一変させることになった。アトランティスの一部は破滅した。

 「アトランティスで第二の分裂が起こり、陸の破壊が起きて神の掟の子らが大きく活動していたポセイディアを孤島としてしまった時代は、輸送方式への力の応用においても、消費者により多くの穀物を供給するための自然的手段の利用においても、今日発見され、再発見されつつある科学的応用の多くが存在した。」(二五六二-一、一九四一年五月)

 「アトランティスで陸の破壊に先立つ時代に、今再び発見されようとしている力の多くを、ベリアルの子らは破壊に向き変えたのである。それは輸送、通信に益するはずのものであった。」(二五六〇-一九四一年三月)”

 

(エドガー・エバンズ・ケイシー「エドガー・ケイシーの大アトランティス大陸」(大陸書房)より)

 

*『神の子らが人の娘たちの美しいのを見た』とは、「創世記」の第六章に記されている言葉です。

人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。』

 

*「ベリアルの子ら」というのは、エドガー・ケイシーのリーディングでは、アトランティスの時代に存在した、「人々を苦しめることを喜びとした連中」のことで、「創世記」の中のソドムの民、「弱い立場の人間を残虐に扱い、その苦しむ姿を見ることで性的な快楽を得ていた連中」であり、アトランティス大陸が崩壊したのも、彼らが「輸送や通信に益するはずであった力」、「生命の夜の側の力」を利己的な目的に使用し、それが地球内部の地殻変動につながったことが原因でした。そして、ケイシーは、アトランティス末期に、人々が「神の掟の子(一者の法則の子、光の子)」と「ベリアルの子」の二つのグループに分裂したように、我々の時代も時が経つにつれて、次第に二極化していく傾向にあると言っています。さらに今の時代は、アトランティス末期と同じく(アトランティスは、ベリアルが優勢となったために滅亡しました)、かつて神の掟の子であった魂と、ベリアルの子であった魂が大挙して生まれ変わってきているということです。そうすると、このベリアルの魂を持った人間、あるいはベリアル化しつつある人間が、現在の我々の社会に少なからず存在しているということになります。以前紹介させていただいた、19世紀末にローマ教皇レオ13世が視た幻では、あと100年でサタンが教会とこの世界すべてを支配するようになるということでしたが、既に我々は悪魔の支配下に置かれているのかもしれません。最近、旭川で起こった、いじめによる少女の自殺のことが話題になっていますが、加害者たちの残虐さは、単に育てられ方が悪かったとかいうレベルではなく、私には、彼らが前世から持ち越してきたものが影響しているのではないかという気がしてなりません。そして善良な人間ほど、悪の側のターゲットになり酷い目にあわされるのであり、このようなことはこれ迄も起こっていましたし、これからも起こり続けるでしょうし、さらに今よりももっと増えていくはずです。

 

*ケイシーの言葉に、「七年の間、純粋に霊的なことを栄養としてきた心は、世の光となる体を作り出すであろう。しかし、物質的なもの、利己的なことのみを栄養として与えられた心は、フランケンシュタインのような怪物を作り出すこともある」というのがあります。また彼は、子供の性格は十代ではすでに定まってしまっている、幼児にギャング映画など見せてはならない、闇の世界に関するものは一切ダメだ、とも言っています。ルドルフ・シュタイナーも、幼児期には徹底的に共感覚で育てねばならない、幼児は大人の行為を模倣することによって学ぶのであり、周囲の大人たちは常に模範的に振る舞い、子供の前でいかなる悪事も為してはならない、などと言っています。そして、シュタイナー教育においては、児童の性格を、憂鬱質、胆汁質、多血質、粘液質の四つに分け、学校でのクラス分けなどは、できるだけ同じ性格の児童でまとめ、各自の個性をそれぞれのよい方向に引き出すように仕向けねばならす、変にバランスを取ろうと混ぜてしまっても、決して平均化することはなく、かえって軋轢が生じ問題が引き起こされるだけだとされています。前回も書きましたが、思春期は特に子どもの中の攻撃性が表面化する時期でもあります。さらに、スタンフォード監獄実験という有名な心理学の実験があるのですが、監獄のような状況下で、いったん支配者と被支配者の役割が定まると、支配者の無茶な要求は際限なくエスカレートする一方、被支配者は自身が不当な仕打ちを受けているにもかかわらず、逃げたり抵抗したりする意欲を失い、ひたすら虐待されるがままになります(いじめられている側がはっきりと意志を表明しないことは、学校側の「いじめ」を否定する主張の根拠となります)。このようなことから考えると、今の学校教育の現場では、いじめが起きないはずがなく、むしろいじめが引き起こされ、その内容が凶悪化していく環境があらかじめ用意されています。そして少年法や教育制度、家庭環境をすぐに変えることなど不可能で、加害者の人格が矯正可能な時期もとうに過ぎており、教師の側がただ「いじめをするな」と言ったり、いじめに対する処罰を厳しくしたとしても、逆に反発され、かえって陰に隠れて陰湿化するだけです。そのような場合、被害を受けている子供は、親が守るしかありませんが、親の力には限界がありますし、さらに旭川のように学校が加害者側についてしまった状況ではもはやどうしようもありません。親と子の絆は大切ですが、反対に子が親に心配かけまいとして一人で苦しみを抱え込み、たとえ自死を選択しなくとも、精神的に一生消えない傷を負ってしまうこともあり得ます。他の学校に転校させたとしても、加害者が野放しであれば今度は別の子がターゲットにされるだけです。

 

*そのように考えると、やはり私には、神仏の守護を乞う以外に解決策はないように思えます。不幸にもいじめのターゲットになってしまった子どもは、苦しみから救って下さるよう、守護して下さるよう、自分の産土神社や、お寺(調伏については聖天尊への祈願が特に強力だといわれます)や聖人の方々、そして祖霊様に、真剣にお願いすれば、必ずや感応があるはずなのです。

 

 

 

 

 

*もちろん、いわゆる不良少年少女の中にも、善良な心の持ち主はいるでしょうし、ただ環境のせいで反社会的な行動をとるだけの者もいると思いますが、長期にわたっていじめを繰り返し、人を苦しめることに喜びを感じるような人間は、すでに心が完全に闇に染まっていると判断せざるを得ません。エドガー・ケイシーが、「人格を備えた救い主が存在するように、人格を備えた悪魔も存在する。(262-25)」と言っているように、更生不可能な人間、「フランケンシュタインのような怪物」は実際に存在します。

 

*ただし、ケイシーのリーディングには、かつてベリアルの子らの一員でありながら、改心して光の子らに加わった人物の話もあります。これは非常に重要な話だと思うのですが、どうやら幼少期に深い愛に包まれるような体験をすることが大切なようです。またルドルフ・シュタイナーは、悪を救済するために、将来マニ教が復活することを予言しています。

 

 

 

 

 

 

・自殺を阻止した祈り 〔エドガー・ケイシー〕 

 “自殺の遺書を残して家を去ったある青年を救うために、両親の依頼によって緊急にとられたリーディングの中で、ケイシーはキリストが言われたままの「主の祈り」を唱えた。聖書にあるものとは幾分異なるので注意していただきたい。(この祈りの後、青年は自殺を放棄して帰宅した。) 

 「天にいます我らが父よ 御名の崇められんことを 御国の来たらんことを 御心の天になるごとく、地にもなされんことを 明日に備え、体の糧を与えたまえ 我らに罪をなせる者を我らの赦したるとき彼らの罪を忘れ去りたまえ 苦難と誘惑の中にありて我らの導きとなりたまえ 汝の御名によりて、我らを導きの道にひき入れたまえ」” 


(林陽編「ニュー・エイジ №1 July‘83」ACEエドガー・ケイシー協会より)

 

・天の派遣した援護隊

 

 “1977年ニュージャージー州ナットリー。新米警官スティーブ・ロジャースは、フィルとパートナーを組むことになった。フィルは年上で優れた判断力を備えているだけでなく、信仰心を率直に出すキリスト教徒でもあった。直情型でときには反抗的ですらあるスティーブにとって、フィルは格好のお手本だった。

 毎日、勤務に出る前に、二人は祈ったり聖書の一節を読んだりしていた。よく暗誦するのは、神の加護を約束し、危険にさらされたときには天使を遣わすと書かれた詩篇九一だった。

 ナットリーの町は、日々手に負えなくなりつつある大問題を抱えていた。繁華街にティーン・エイジャーが溢れるほどたむろし、酒を飲み、ドラッグをやり、建物などを壊したりしていた。警察は、そういった子供達の溜まり場を知っていたが、集会に手入れをしても、ほとんどがうまく逃げ出してしまって捕まらない。明らかに、秘密の隠れ家がある・・・”

 

 “・・・小道をたどっていくと、巧妙に隠された洞窟があった。中には、ドラッグのカプセルや酒類、ポルノ雑誌、マリワナが散乱していた。若者たちが警察の目を逃れて隠れていたのはここだった。今晩、この洞窟の手入れをやろう。二人はそう決めた。

 勤務に着く前に応援の警官を要請したが、自分たちだけで行ってくるように言われてしまった。たった二人だけで、あれだけ大勢の血気盛んな若者どもをどうやって捕まえろと言うんだ?二人は再び詩篇九一を読み、祈った。それから、すでに線路際に集まっていた一団をとらえに出かけた。・・・”

 

 ”・・・明らかに人数で勝ち目がないことを知りながらも、二人は隠された小道を見つけ、大胆に洞窟へ踏み込んだ。「動くな!」スティーブが怒鳴った。洞窟の中の誰も微動だにしない。スティーブは少年たちにざっと目を走らせた。少なくとも十二人はいる。やった、ミスター・ビッグも捕まえたぞ!

 フィルがミスター・ビッグに近づき、手に持っている包みを渡すように言った。若者はおとなしくドラッグのカプセルの包みをよこした。スティーブは他の証拠品を集め、被疑者の権利を読み上げた。それから、洞窟の地面が見えなくなるほど大勢の若者を見まわした。たった二人の警官の前にあっけなく屈したことに驚いていた。なぜ誰一人向かってこようともしないんだろう?

 警察のバンが止まった。二人はとらえた若者たちを洞窟の外へ連行した。そのときに、スティーブはミスター・ビッグのほうへ向いて尋ねた。「きみや他の子供たちは、なぜ、ぼくらが入ってきたときに、刃向かおうとしなかったんだね」

 「あんた、おれのこと頭おかしいと思ってんの?」ミスター・ビッグが聞き返した。「制服のおまわりが二〇人はいただろ、刃向かったり、逃げたりするほうがどうかしてるぜ」

 「二〇人?いや、ぼくら二人しかいなかったよ」

 「へえ?」ミスター・ビッグはとらえられた他の若者の方に声をかけた。「なあ、ベリンダ、洞窟に入ってきたおまわりは何人だった?」ベリンダは肩をすくめた「さあ、少なくとも二〇人はいたね」

 フィルと一緒に心をこめて暗誦していたことばを思い出したのはそのときだった。「夜、脅かすものをおそれることはない・・・主はあなたのために御使いに命じて・・・」・・・”

 

(J・W・アンダーソン「天使の奇跡 ほんとうにあった37の出会い」祥伝社より)