ライラトルカドル(みいつの夜)の体験  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ライラトゥ・ル・クァドル(御稜(みい)()の夜)  (あるスブド会員の体験)  

 

 “‥‥‥イスラム教徒になったのは、私の探求の出発点となった最初の体験以来、多神教より一神教に親近性を感じていたからです。イスラムは、全宇宙を創造して支えているアラーの全能性、超越性、偉大性と、被造物である人間に対する神の愛を強調し、神への絶対的な帰依と服従を説いている点で、一神教としては最も突きつめた、純化した形をとっていると思ったのです。その単純性と純粋さは、私の「内なる感じ」に近いものでした。さらに、排他的な民族宗教の色彩がなく、神はムハンマドだけではなくあらゆる民族に対して預言者を使徒として送ったと信じるなど、他の宗教に対して寛容で普遍性に富んでいると思われたのです。

 しかし、正直なところ、私は決して良いイスラム教徒とは言えません。モスクにも行きませんし、ラマダンの断食を除いて、あまり戒律を守っていません。それにもかかわらず、私は改宗後イスラムに関するいくつかの体験に恵まれました。

 たとえば、最初のラマダンのとき、ラマダンが単なる断食行ではなくて、もっと深い霊的な意味を持っていることを知りました。ラマダン開始の日の夕方、勤めから帰ってくると、花があったわけではないのに、家全体が馥郁たる香りに包まれていました。また、ラマダンの最後の一〇日間である「みいつの夜」には、天国の扉が開いて天使と聖霊が地上に送られるとクルアーン(コーラン)に書いてあります。私はその言葉どおりを体験したわけではありませんが二一日目の夜、それに近い感じを体験しました。

 その夜、私は明け方の三時近くまで起きていたためか、頭痛がしはじめていました。時がたつにつれ、頭痛はますます強くなったのに、胸のなかの輝かしさは強さを増して、ついには私を喜びでいっぱいにしました。ひどい頭痛にもかかわらず、まるで肉体的な苦痛とそれとは何の関係もないかのように、内側では幸福感で満たされるというのは、不思議な体験でした。

 そのうち、私は部屋の右手の隅に、何か光り輝くものが座っているのに気がつきました。それが何であるのかを確かめようとしましたが、その形を見ることができませんでした。輝くものは、一、二分でいなくなり、私はもしかするとあれは天使だったかもしれないと思いましたが、もちろんそれは私の想像にすぎません。

 ほかにも、クルアーンを読んでいるとき不思議な経験をしました。たとえば、ラマダンの間毎晩クルアーンを一章ずつ読んでいたのですが、ある晩、私は読み終わって本を閉じ、何気なくそれを胸にあてました。すると、驚いたことに、本が衣服を通り抜けて、私の胸の内部に入ってしまったのです。もちろん、それは単なる感覚です。しかし、まるで現実のようだったというのは、本の縁の固さがしばらく胸の中に感覚として残ったからです。私にはその意味は分かりませんでしたが、私が本の内容を吸収し、それが私と一つになったことを示していたのかもしれません。”

 

(建部ロザック「魂の究極の旅」(たま出版)より)

*この本では、建部ロザック氏自身がスブドのラティハン(霊的修練)によって体験した様々なスピリチュアルな出来事のことが詳しく紹介されています。特に、人間関係の軋轢やツインソウル(ソウルメイト)のことで建部氏が受けた霊的な試練のことが印象的でした。

 

*文中にあるように、ライラトゥ・ル・クァドル(御稜威の夜)とは、ラマダン月の最後の十日間の奇数日の夜のことで、天国の扉が開いて天使と聖霊が地上に送られる」とクルアーンには書かれています。今年はちょうど今がその期間にあたります。

 

「聖クラーン 第九七 みいつ章(クァドル)」

 

仁慈あまねく慈悲深きアㇽラーのみ名によって

まことにわれはみいつの夜に、この(クラーン)を啓示した:

みいつの夜が何であるかを、なんじに理解させるものは何か。

みいつの夜は、千月よりもまさる:

その夜、諸天使と精霊が、主の許しのもとに、よろずの神命をもたらして下る、

暁の明けるまで、(それは)平安である。

 

(オマール・三田了一訳「聖クラーン」(日訳クラーン刊行会 / 世界イスラム連盟)より)