『ローラーとバイオリン』
タルコフスキーの作品は『ソラリス』と『ストーカー』と『サクリファイス』と『ノスタルジア』しかみていないけれど、どれも実を言えばちゃんとそのストーリーの全てをわかっていない。途中うとうとして白日夢みたいにしか記憶に残っていない部分も相当にあるし。
けれどそれでも、からだの奥底が叫びをあげたくなる。
なにがここを揺さ振っているのか、動かされているのはなんなのか、かたちとして説明もできないのにその感覚だけがあふれてからだ中に満ちる。
『ローラーとバイオリン』はタルコフスキーの卒業製作。
難しさはない。ストーリーがちゃんとある。
でもタルコフスキーらしいマテリアルがちりばめられている。
鏡や水やそれに揺らがされる光。
戦闘機の音や波紋のように広がる音、瓦礫の山。
主人公の男の子が割れた鏡をのぞいてそこに世界が万華鏡に変化しているのをみつけたり、友達になったお兄さんにバイオリンの音の響きのことを教えてあげているところがとてもいとおしい。タルコフスキー自身のようだったから。
今まで私がみた作品がとてもストイックで叫ぶような郷愁やはかなさ、命を燃やすような真剣な祈りに満ちていた。けれどそれもこのあたたかみのなかから生まれて育まれたイメージたちだったんだと知ることができてよかった。
変だけど、ほっとしたような感覚。
もちろん、その変化のことを感じないわけでもないけど。
タルコフスキーはお父さんと小さいときに別れている。
亡くなったのか離婚したのかは忘れちゃったけど。だからタルコフスキーの作品に出てくる母という存在はいつも過去に自分の一部を置き去りにしてその幻影と寄り添うみたいに存在している。
最後の、少年がローラーに乗って遠ざかるお兄さんを追いかけてうれしそうに乗り込む幻想のシーンは涙がとまらなかった。
工事現場にまかれた水を少し引きずってゆっくり斜めに去るその構図も美しかったしそこに降り立つ白い鳩も美しかったけれど、私はあそこはタルコフスキーが父への想いを重ねなかったわけはないと思ったから。
そしてこの作品を作って何年も経ってからだけれど、亡命してもずっと故郷を想いつづけた彼のことを考えて。
かなわないことや失ってしまうことなんていやだと思う。なにひとつなくしたくないと叫びたい。
けれどそこから生まれてくる想いがどんなに強く輝くかも知っている。
そこにとどまり続けることも繰り返し想い続けることも実は青白くもえていて、決して停止してしまうわけじゃない。
ローラーとバイオリン
けれどそれでも、からだの奥底が叫びをあげたくなる。
なにがここを揺さ振っているのか、動かされているのはなんなのか、かたちとして説明もできないのにその感覚だけがあふれてからだ中に満ちる。
『ローラーとバイオリン』はタルコフスキーの卒業製作。
難しさはない。ストーリーがちゃんとある。
でもタルコフスキーらしいマテリアルがちりばめられている。
鏡や水やそれに揺らがされる光。
戦闘機の音や波紋のように広がる音、瓦礫の山。
主人公の男の子が割れた鏡をのぞいてそこに世界が万華鏡に変化しているのをみつけたり、友達になったお兄さんにバイオリンの音の響きのことを教えてあげているところがとてもいとおしい。タルコフスキー自身のようだったから。
今まで私がみた作品がとてもストイックで叫ぶような郷愁やはかなさ、命を燃やすような真剣な祈りに満ちていた。けれどそれもこのあたたかみのなかから生まれて育まれたイメージたちだったんだと知ることができてよかった。
変だけど、ほっとしたような感覚。
もちろん、その変化のことを感じないわけでもないけど。
タルコフスキーはお父さんと小さいときに別れている。
亡くなったのか離婚したのかは忘れちゃったけど。だからタルコフスキーの作品に出てくる母という存在はいつも過去に自分の一部を置き去りにしてその幻影と寄り添うみたいに存在している。
最後の、少年がローラーに乗って遠ざかるお兄さんを追いかけてうれしそうに乗り込む幻想のシーンは涙がとまらなかった。
工事現場にまかれた水を少し引きずってゆっくり斜めに去るその構図も美しかったしそこに降り立つ白い鳩も美しかったけれど、私はあそこはタルコフスキーが父への想いを重ねなかったわけはないと思ったから。
そしてこの作品を作って何年も経ってからだけれど、亡命してもずっと故郷を想いつづけた彼のことを考えて。
かなわないことや失ってしまうことなんていやだと思う。なにひとつなくしたくないと叫びたい。
けれどそこから生まれてくる想いがどんなに強く輝くかも知っている。
そこにとどまり続けることも繰り返し想い続けることも実は青白くもえていて、決して停止してしまうわけじゃない。
ローラーとバイオリン
『 kamihikouki 』
ファビアン・プリオヴィユ&バレエノアの公演をさいたま芸術劇場に観にゆきました。
これが、ほんとうによかった。
もっときちんと宣伝していろんなひとに見てもらえたらよかったのに!と悔やんでしまうくらい。
まず始めにファビアン自身の故障の体験を作品にしたもの。
ごくごく細かい点線で繋がったような動きから徐々に発展してゆくのだけれども、床からその重みをおこすことのできないからだからその鬱積がはじけるような動きまでのストーリーがとてもストレートだった気がする。
第2部までの休憩の間、私はこの作品のことが掴みきれないまま無言でパンフレットの彼の言葉を読んでしまった。
なんだか、はかりがたかったのだ。
2部は友人の出ている作品。これがほんとうに素晴らしかった。
実は私はあまりファビアンのことも知らなかったし、バレエの発表会の一部としてワークショップで創った作品を入れ込んであるのかな…という全くの予備知識無しで見に行ったのだ。
でも実際はちょっとあっけにとられるくらいしびれた。
作品もダンサーたちも、そしてそこから見えてくるファビアンというひと、ダンサーひとりひとりとの向き合い方、その過程。まさに今、この子たちにしか表現できないものを確信をもって切り取っていること。
どんなにか丁寧に話を聞いたのかということ。
それがピナの方法でもあり、それをファビアンが大事にあたためて、若いダンサーに甘やかすことなく、でも最高の愛情で伝えたこと。ダンサーたちがそれに応えるために世界とたくさんコンタクトをとったであろうこと。
いっぺんにたくさんの感情が湧きあがった。
なんだろう、やられたみたいな気持ちと、立ち会えたことへのわくわく感と。記憶しておきたいけどただそのまま受け取りたいというジレンマも。
1部のソロがあんなにストレートだったのはまさに真っ直ぐ嘘偽りのない表現だったのだ、ということがその時初めてわかった。
1シーン1シーン捨てる部分がない。新しいアイディアの連続。振付の動きも見飽きることがない。
誉めまくりだけど。
ほんとうによかった。
どうしてあんなに皮膚感覚的に、日本の女子高生のことがわかるのだろう。
すごいことだと思った。
観に来ていたのは関係者が多かったんじゃないかな。身内のかたとか、バレエ団のつながりのあるかたとか。
もっと多くのひとに見て欲しかった。ダンサーにもだし、若い演出家にも、表現を志すひとみんな。それから学生のひとたちにも。
友達がファビアンにフランス語で感動を伝えているのがとっても羨ましかった。
私なんか日本語ですら話し掛けられないよー。
どうか、また日本で作品を創ってください。
再演もしてほしい。
あやちゃん、お疲れさまでした。
すっごくすっごく素敵でした。
あやちゃんを再発見したみたいなきもちになって、しびれたよ。
この日記を見つけたりすることはないだろうけど、感謝をこめて。
これが、ほんとうによかった。
もっときちんと宣伝していろんなひとに見てもらえたらよかったのに!と悔やんでしまうくらい。
まず始めにファビアン自身の故障の体験を作品にしたもの。
ごくごく細かい点線で繋がったような動きから徐々に発展してゆくのだけれども、床からその重みをおこすことのできないからだからその鬱積がはじけるような動きまでのストーリーがとてもストレートだった気がする。
第2部までの休憩の間、私はこの作品のことが掴みきれないまま無言でパンフレットの彼の言葉を読んでしまった。
なんだか、はかりがたかったのだ。
2部は友人の出ている作品。これがほんとうに素晴らしかった。
実は私はあまりファビアンのことも知らなかったし、バレエの発表会の一部としてワークショップで創った作品を入れ込んであるのかな…という全くの予備知識無しで見に行ったのだ。
でも実際はちょっとあっけにとられるくらいしびれた。
作品もダンサーたちも、そしてそこから見えてくるファビアンというひと、ダンサーひとりひとりとの向き合い方、その過程。まさに今、この子たちにしか表現できないものを確信をもって切り取っていること。
どんなにか丁寧に話を聞いたのかということ。
それがピナの方法でもあり、それをファビアンが大事にあたためて、若いダンサーに甘やかすことなく、でも最高の愛情で伝えたこと。ダンサーたちがそれに応えるために世界とたくさんコンタクトをとったであろうこと。
いっぺんにたくさんの感情が湧きあがった。
なんだろう、やられたみたいな気持ちと、立ち会えたことへのわくわく感と。記憶しておきたいけどただそのまま受け取りたいというジレンマも。
1部のソロがあんなにストレートだったのはまさに真っ直ぐ嘘偽りのない表現だったのだ、ということがその時初めてわかった。
1シーン1シーン捨てる部分がない。新しいアイディアの連続。振付の動きも見飽きることがない。
誉めまくりだけど。
ほんとうによかった。
どうしてあんなに皮膚感覚的に、日本の女子高生のことがわかるのだろう。
すごいことだと思った。
観に来ていたのは関係者が多かったんじゃないかな。身内のかたとか、バレエ団のつながりのあるかたとか。
もっと多くのひとに見て欲しかった。ダンサーにもだし、若い演出家にも、表現を志すひとみんな。それから学生のひとたちにも。
友達がファビアンにフランス語で感動を伝えているのがとっても羨ましかった。
私なんか日本語ですら話し掛けられないよー。
どうか、また日本で作品を創ってください。
再演もしてほしい。
あやちゃん、お疲れさまでした。
すっごくすっごく素敵でした。
あやちゃんを再発見したみたいなきもちになって、しびれたよ。
この日記を見つけたりすることはないだろうけど、感謝をこめて。
色の終焉
ぶあつい靄が月を覆う。
誘われるみたいに空の高いところのかおりを嗅いでみる。
水を含んで重たい雲のにおいがする。
明日は雨になるのかな。
木曜日は雨の日が多い。
あめふりもくようび。
秋のはじまりの空の天辺のかおりを思い出そうとするけれど、頭蓋骨の真ん中を突き抜けるような触感しか思い出すことができない。
夏が終わって秋のほんのはじめの、ほかのあらゆるかおりを通過しないと辿り着けないのかもしれない。
ふと目線をおとすと、藍色の夜のなかではなみずきの鮮やかさがぐっと目をとらえる。
暗やみのなかの色にひかれるのはどういうゆえんなのだろう。
北村道子さんの『衣裳術』のなかにある
「服も深く黒染めするときは色んな原色を加えなきゃいけない。そうじゃなきゃ実は本当の黒を表現できないの。黒は色の終焉なのよ」
ということばを、ふとおもいだした。
甲冑、しふぞう
サイは、どうしてあんなよろいかぶとをまとっているのか。
『わくわく動物ランド』や『ムツゴロウ王国』でたくさん動物ミニ知識を仕入れたはずの私もそれは知らない。
結構強そうだし、あんまりこれ以上保護するものはいらない感じなのだけれど。
それとも保温のためかな。
トリケラトプスの名残なのかな。(子孫なのだか知らないけれど)
誰か知っていたら教えてください。
知らなくても、ひらめいたらコメントしてみてください。
これはしふぞう。
牛や鹿やかもしかや…もうひとつなんだっけ。…に似ているけれどどれでもない、ということで四不像と書くらしい。
中国からはるばるやってきた。
確か10年くらいまえにこの動物園に来たときにも何故かこころひかれたのだけれど(多分その時は周りがまだ閑散としていて、しふぞう寂しそうだ、という感じだったからだった気がするけど)今回もしびれた。
ずっとこうして後姿をみせているのだけれど、角が薄い毛皮に覆われていて、ベージュにけぶっている。
夕日とか朝日が当たったら黄金にかがやいて、もののけ姫のでいだらぼっちみたいだよね、とみほれる。

角は1年でこの長さになり、そして生え変わる。
角を持ってみたらものすごく重たい。まさかこんなものをあの細い首が支えているのかと驚いた。
角が落ちたしふぞうを見たら、歯が抜けて舌でその跡の歯茎を触ると穴が開いていて薄く血の味がして次の歯の気配がする、あの感じを思い出した。
右は、若いしふぞう。
ちょこっとだけ角が出ている。これから1年かけてりっぱな角に成長するんだろう。
まだ冬毛もあちこちにからまっていてぽやぽや。
これから芽生えるかんじといい、全体的に寝起きみたいに見える。



