IXY
4年くらい前に買ってどこにいくにもつれていっていたカメラがついに壊れてしまった。
今までずうっとカメラのことをちゃんとわからずに使っていたのだけれどTVに出ていた写真家さんが「暗く映ってしまうときには露出を変えればよい」ということをおっしゃっていて、やっと私はその露出の変更が私のカメラでもできるのだということと、使い方がわかったのだった。今まであれはホワイトバランスなのかと思っていた。
なのでさっそく使ってみた。
そうしたら…それ以来、シャッターの蓋が開かなくなってしまった。たまに開いたとしてもなかなか閉じないから、光だらけの真っ白な写真になってしまう。
ミラ・ジョヴォヴィッチが宣伝していてかっこいいから買ったこのカメラ。
一眼でもないし、ほんとうにきっと素人用のカメラなんだろうけどずっと愛用してきた。
知らない土地を歩くときにはいつも手首にストラップを巻いて何も見逃さないように、って。
だから少しがっかりしている。
カメラ屋さんに持っていったら直るかなぁ。
次は一眼デジカメが欲しい!なんて言っていたけれどやっぱりこのこがいなくなっちゃうのはいやだなー…。
きいろの鳥と庭、あきちゃん
色使いが気になってふと足を止めた。
敷地を覗いてみると庭のところどころに看板のようにキャンバスが立て掛けられている。
まるでちいさな林で妖精に遭遇するみたいに、見るのだろう。
その庭にはいろんな草や花が植わっているのだけれど明るい光に負けない、鮮やかな絵。
その展示場は今日本当はお休みだったみたいなのだけれど、ずっと入り口のその絵をみていたら庭の絵だけでもどうぞ、と通してくれた。
そこにある作品はすべて、からだや脳に障害があるかたたちが描いたものだった。
小さな子の絵みたいに隣あう色が大胆だなぁ、と思う。
細かくて面白い視点。
この鳥の絵がとてもいいですねと言うと、この絵はこの子が描いたんですよ、と、あきちゃんという女の子を指差す。
あきちゃんは話すことができないみたいだったけど私が「とても色が好き」と伝えると、ゆっくりゆっくり庭におりてきてくれた。
たくさん時間をかけて靴を履いて、それから庭のむこうにある自分の別の絵を紹介してくれるみたいだった。
その後ろをついていった。うちに鳥がいるんだよ、と話し掛けたりしながら。
結局庭にはあきちゃんの絵はほかになかったのだけれど、あきちゃんは躊躇なく一周してからもとの縁側を上って部屋に入った。なんだろうなと思ったら部屋のなかにたくさんあきちゃんの絵があるのだった。
その鮮やかさと線に圧倒された。
これは何で塗っているの、と聞くとあきちゃんは私をじっと見つめる。
なんだろね、とてもいいね、いろんな色どうしが好き、と言う。
隣からお母さんがこのペンですよと教えてくれた。
帰りもずっと近くに寄り添って送ってくれた。
また素敵な絵を描いてね、と手を握ると握り返してくれた。
誰もいない動物園
誰もいない動物園を歩いた。
もうチンパンジーも象もきりんも寝床に帰ってしまったあとの。
ひととすれ違うことがだんだんなくなって、追い越されることもだんだんなくなって、おひさまがじりじりと遠くなる。
割れる寸前のしゃぼん玉の表面みたいな、はかない金色に前髪が照らされる。
急にがらんとまわりの空気がひろがって、樹と、それを見上げたときの影ばかりが追い掛けてくる。
誰もいない公園が好きだな。
はしゃぐ声であふれる公園もうきうきするけれど、見渡すかぎりがわたしのもの、のがらんとした、なんのためでもない場所。
陽が落ちるにつれ色の種類がどんどん少なくなってゆく。
ただの光のグラデーションになる。
空だけが色彩の種類を増やして。
デンマークの公園をひとりで歩いたときにはずっといろんな白を見ていた。
頭のなかでとりとめもなく、誰にというわけでもなく、問いかけが尽きない。
けれど隣にひとがいれば、私はその色に沈み込むだけじゃなくてぴょんぴょん飛躍することができる。
樹の影と骨は似ているね、と突拍子もないことを口にして、ただ微笑むことも。
キリアン作品
昨日は中村恩恵さんのスタジオのパフォーマンスに出演しました。
私が踊ったのはイリ・キリアンの『Whereabout unknown』という作品の抜粋。
週1回、4ヵ月かけて8分ほどの部分を踊り込みました。
恩恵さんが伝えてくれる、動きひとつひとつにこめられている意味やエピソードを聞くだけでほんとうに勉強になった。
キリアンさんの作品づくりに触れたことで、もし自分が作品を創るとしたらその根源を自らのどこに見いだせばいいのかを考えるうえで重要な生まれ変わりがあった…ような気がする。
方法論じゃなくて、もっとおおまか…というかおおもとの、創るものは素直に私の根源に根ざしていればいいのだ、という再確認こそがものすごく大事だった。
なぜ私のこころは動くのか、なぜ私は踊るのかといういちばん簡単な質問ではじまる、私の人生全部の時間で語られる謎。
それでいいんだった。
毎回の稽古で恩恵さんのことばに触れる度に胸の奥にあたためてきたものに光があてられて、あまりにもこころが揺れたから小さく息が止まるくらいだった。
自分では掬いきれずかたちにしてあげられないでいた細部はやわらかなてのひらで包まれたかと思うところん、とおなかのそこに実感を持って落ちてきている。
そのことばには何の特別なものもない。
いちばん簡単でいちばん身近な。
もしかしたら私だってそのことたちを同じように表現したことはあるかもしれないのに、多分私はそのことに何の責任も自信ももてないでいたのだろう。
あたたかに打たれることの連続。
踊ることを抜きにしたただのわたし自身にも大切なことがそこここにはあふれるみたいにあって、それに出会ったり、あることに気付いたり、芽生えて突き破ってくることの喜びとか痛みとかただ、茫然とすることとか。
それ、全部かぁ。
と、すべてがもうすでにそこにあることと、かたちにしてゆく作業はどんなにスリリングで深遠だろう、という…果てしなさに茫然としながらも尽きないことがうれしい、という矛盾に包まれる。
つづく。
私が踊ったのはイリ・キリアンの『Whereabout unknown』という作品の抜粋。
週1回、4ヵ月かけて8分ほどの部分を踊り込みました。
恩恵さんが伝えてくれる、動きひとつひとつにこめられている意味やエピソードを聞くだけでほんとうに勉強になった。
キリアンさんの作品づくりに触れたことで、もし自分が作品を創るとしたらその根源を自らのどこに見いだせばいいのかを考えるうえで重要な生まれ変わりがあった…ような気がする。
方法論じゃなくて、もっとおおまか…というかおおもとの、創るものは素直に私の根源に根ざしていればいいのだ、という再確認こそがものすごく大事だった。
なぜ私のこころは動くのか、なぜ私は踊るのかといういちばん簡単な質問ではじまる、私の人生全部の時間で語られる謎。
それでいいんだった。
毎回の稽古で恩恵さんのことばに触れる度に胸の奥にあたためてきたものに光があてられて、あまりにもこころが揺れたから小さく息が止まるくらいだった。
自分では掬いきれずかたちにしてあげられないでいた細部はやわらかなてのひらで包まれたかと思うところん、とおなかのそこに実感を持って落ちてきている。
そのことばには何の特別なものもない。
いちばん簡単でいちばん身近な。
もしかしたら私だってそのことたちを同じように表現したことはあるかもしれないのに、多分私はそのことに何の責任も自信ももてないでいたのだろう。
あたたかに打たれることの連続。
踊ることを抜きにしたただのわたし自身にも大切なことがそこここにはあふれるみたいにあって、それに出会ったり、あることに気付いたり、芽生えて突き破ってくることの喜びとか痛みとかただ、茫然とすることとか。
それ、全部かぁ。
と、すべてがもうすでにそこにあることと、かたちにしてゆく作業はどんなにスリリングで深遠だろう、という…果てしなさに茫然としながらも尽きないことがうれしい、という矛盾に包まれる。
つづく。
ゆり、エーデルワイス、表裏
あるひとが車両にはいってきたらふわっとゆりの香りが漂った。
香水じゃなくてまるで生花みたいなみずみずしいはかない香り。
カサブランカのような豪華さはなくて、野で雨に濡れたあとのような。
エーデルワイスを見てみたい。
ちゃんとごつごつした山を登って。
エーデルワイスってずっと青い花だと思っていた。勿忘草のような色合い。
イメージとは違ったけれど写真で知ったふわふわの花びらをこの目で見たい。
この世に生まれてきた瞬間に死が決定づけられるというこのうらおもてはきっと、生きているあいだじゅうつきまとう。
そうして生まれてきたんだからそこに揺られていいのだろう。
生きている間に何回も生まれ変わること。
それは私と双子のあいだだけの秘密ではない(どのように、かは私だけの秘密をそっと共有したけれど)、そのことを知らされてにわかに世界が横長につながった。知らなかったわけではないけれど。
その瞬間はまさに『2001年宇宙の旅』のあの最後の、時空の旅のようだった。
ゆりの香りは相変わらずつづいている。
その不変を不思議だと感じられることがありがたい。
変わらない、のは咲いているゆりじゃない証拠だから。



