アマヤドリ -336ページ目

水面に伸ばすゆび

「悲しい別れでも、いやな別れでも、そんなことはどうだっていいんだ、とこかを去って行くときは、いま自分は去って行くんだってことを、はっきり意識して去りたいんだな。そうでなけりゃ、ますますいやな感じがするもんだよ。」

今日、『ライ麦畑でつかまえて』を読み始めた。
なんだろう。なんだか、するする読めてしまう。もっととっつきにくいのかと思っていたらそんなことは全くなくて、ただ語り手の純粋な気持ちにひたすらのめりこんでいく。純粋って、いい子、とかじゃなくて。出し惜しみなく無造作に手当たり次第にちぎって投げているような。でもさらけ出しているわけじゃなくて、そのもどかしい気持ちとか変な意地とか、うまくいえないけどそんなようなもの全部の動き。指で感じるみたいに、それをたどる。

上のセリフは全然恋愛の事でもなくて、そして私がこの別れを恋愛のようにとらえたのでもなんでもなくて、ただ、こんな風にちゃんと全部を受け止めたい気持ちを最近強く感じているから。だから急にこの文章が目に飛び込んできて、心の中に陽が射したような心持ちがした。
こんなはっきりした意識をここにきてはじめて持つというのもなんだか恥ずかしい話だけれど。

多感だったはずの私の16歳は一体どんなふうだったっけ、と、でも自分の考えていた事はうまく思い出せない。
その頃の私よりも、確かに今の私のほうが色んな事をまっすぐ感じている。
子供だったのだろうか、本当に混沌としていて、そこから何かを引き出そうとはしていなかった。あんまり考えないほうがいいと思っていたのか…毎日に夢中だったのか。それともただ、単純でいたかったのかもしれない。
何かに気づいていた事は確実なんだけれど、それを手に取るすべを、知らなかったのだ。
どうしてそんなに自分に蓋をして、気づかない振りをして生きてきてしまったのか、とはたちを過ぎてからのこいびとに言われたことがあった。その時にはすぐにその言葉の意味がわからず、ぼんやりと自分をかえりみただけだった。うまくはしゃいだり、泣いたりできないっていうことかな。感受性に振り回される割に、表面は理性的にふるまおうとする。そういうことかな。
こいびとのいわんとすることが、芯では分かっていなかった。

たぶん今、その言葉の意味がわかる。

私は今ひとみを開きつつあるのかもしれない。


著者: J.D.サリンジャー, 野崎 孝
タイトル: ライ麦畑でつかまえて

おもちゃの時間

片付けに明け暮れる一日。
…というほどそればかりに時間をかけていたわけではないのだけれど。
懐かしいものが出てきては手を止め眺め、しばしベッドにもたれ。はっと目覚めてはまた要らないものを箱に詰める。
ちょっと頭がだるくなってしまったほどにその途中休憩が多かった。さっさと済ませてしまえばいいのに。
しかし何でこんなにいっぱい服があるんだろうな?毎日おんなじようなものばかり着ているからもったいない。

昔読んだ島田荘司の『北の夕鶴2/3の殺人』が出てきてつい読んでしまう。
昔の振付けノートや、旅行日記や生徒の写真。集めていたポストカードや古いマニキュア。ガラスの小瓶や使いかけのインスタントカメラや大学の頃の生物学の専門書。穴の開いたサポーター、懐かしい人からの年賀状。
こんなものがどんどんたまってきた私の今までと、それを手に取って思いを馳せる私。おなじひとなのにやはりちょっと別人なのだ。

明日からまた日常が始まることにほっとする。でもその一方で体がすっと冷えるような心持ちもする。
こうやって時間がすぎていってしまう。何も見いだせないまま。

もうひと息残ったものを整理して、たくさんお水を飲もう。
丁寧に髪や体を洗ったり、歯を磨いたりしよう。

滲む雲の色

昨日は久々の会社に、しばし休み気分を忘れた。忙しかったわけでは全くないのだけれど、まるで泡のようにGW気分がはじけた。
帰りにcafeに長居。
まるで時間が過ぎるのを待つように。
ただ脱力して少し強すぎるクーラーに、体が冷えるに任せる。『夜間飛行』を読もうと開いたけれどその素敵な文章も字面しか追えなくて文字を瞳に映しながら想いを馳せる。どうしたの?
もしかしたら薄れてきているのかもしれなかった。そう思ったら安堵の底におりのように溜まっているものに気付いた。私は何かを必死に手繰り寄せようとしている。いいのに、このままで。その方が楽でいられるんだよ。でも思い浮べないわけにはいかない。なんだろう、ヒントが欲しいみたいに。謎を説けばもとに戻ると信じているみたいに。
隣でぱちん、とマッチを擦る音がした。我にかえってさっきから1ページも進んでいない本を静かに閉じ、席を立ち上がる。
そうだよ、ちゃんと傘を自分に差し掛けながら思う。こんな風に体を冷やしたり瞳の光を失うことはなんのためにもならないんだ。

こないだまで咲いていたハナミズキはすっかり緑に飲み込まれていた。
今年は冷たい梅雨になるんだろうか。


今日はまた一日ぼんやり。GW気分復活。
でも片付けをしなくては。本を殆ど棚に仕舞ったのでこれからは探さずに手に取れる。

手放したものや、選び取らなかったもの。そんな色んなものから与えられるしっぺ返しを今は受けちゃおう。

親近感以上の気持ち

かなり昔だけれど、筧利夫が幼なじみだという夢を見た。
もうかなりの腐れ縁なのにお互い微妙な関係でずっと過ごしている。たぶん想い合っているな…という予感は抱いているけど言い出せない…という関係。なんじゃそりゃ。
高校で久しぶりに隣の席になる。筧利夫はあのままの感じなのでどうして高校生だと認めたのかわからないけれどとにかく。で、ありがちなちょっかいをだしたりだされたり…みたいな学校生活を送る。
ある日筧利夫は意を決して帰り道の私を呼び止める。いつもしないその真剣な顔に、私も今から何を言われるのか覚悟を決めて…
…というところで目が覚めた。

それ以来何故か筧利夫が好きになり、しばらくはTVに出てくると「あいつも頑張ってるんだ…」と懐かしさを感じたりした。
危ないなぁ。


もっと昔だけれど、氷室キョウスケ(字がわからない)がお兄ちゃんだった夢を見た時もTVで見かけると半分ふざけてだけど「あんなに私を可愛がってくれたことを覚えてるだろうか」というような気持ちになった。
覚えてるわけがない。

夢で、別に好きじゃなかった人を好きになったりすることは結構ある。

クレイアニメ

クレイアニメ作家の尾崎夫沙子さんのことをやっているTVを観た。
以前からちょっと興味があった「タルピー」などの粘土アニメ。どんな方が、どんな風に創っているんだろうと前から興味があったし粘土アニメのメイキングなんて面白いに決まってる、とわくわくしながら。

尾崎さんは今イタリアで活躍している。イタリアでは子供にもサインをねだられるくらいに大人気なのだ。すごい。

粘土がある形からある形へ変化していく。観る側はその変化の中にストーリーを感じ、イメージを膨らませる。指の跡がついたようなその粘土の変化は一瞬一瞬が色んな表情で、目を離すことが出来ない。もうただ眺めていても雲をみているようで楽しいし、次は何が生まれるんだろうと考えながらみても楽しい。
1秒間に25コマもの動きが必要なんだそうだ。それを一つ一つ手で動かしてはパソコンに取り込み、動かしては取り込み…出来上がった映像を見ておかしかったらまた崩してやり直し…本当に途方もない作業だ。でもそのひとコマの表情も妥協しない。自分の感覚を出し惜しみなくフルにそこにのせる。これはアートだなあ、と思った。

素敵なものを創っている人は、やっぱり素敵だ。生きることが楽しいみたい。何も捨てたりせずにがしがし歩いてるかんじ。それが残らず彼女の才能にくっついて、ものに表れている。
粘土で創ったそのものが何をいいたいのか何を表現したいのかをちゃんと聞き取って、それを表してあげるのが自分の仕事なんだ、と尾崎さんは言う。それは振付や、演じる時の大事なことととても似ている。創ること、表現することなのだから似ていて当然なのだけれど改めてはっとさせられた。表そうとか作って入れ込もうとしない。ちゃんと耳を澄ませて生まれてくるものを感じること。うん、分かる。その会話みたいな作業が新たな表情を生む。

なんだかとても憧れた。
笑った表情を作るときには口元が微笑んでいる尾崎さんに。
セリフがなく、創ったらあとは委ねるその作品に。
こんなお仕事が出来たらいいな…。それにはちゃんと美術の勉強もしなければいけないけれど。


尾崎さんは、生き物は全部土に還るでしょう、と言った。その土を使って何かを創り、壊し、また創る。それは生きる循環と同じなのだ、と。