水面に伸ばすゆび | アマヤドリ

水面に伸ばすゆび

「悲しい別れでも、いやな別れでも、そんなことはどうだっていいんだ、とこかを去って行くときは、いま自分は去って行くんだってことを、はっきり意識して去りたいんだな。そうでなけりゃ、ますますいやな感じがするもんだよ。」

今日、『ライ麦畑でつかまえて』を読み始めた。
なんだろう。なんだか、するする読めてしまう。もっととっつきにくいのかと思っていたらそんなことは全くなくて、ただ語り手の純粋な気持ちにひたすらのめりこんでいく。純粋って、いい子、とかじゃなくて。出し惜しみなく無造作に手当たり次第にちぎって投げているような。でもさらけ出しているわけじゃなくて、そのもどかしい気持ちとか変な意地とか、うまくいえないけどそんなようなもの全部の動き。指で感じるみたいに、それをたどる。

上のセリフは全然恋愛の事でもなくて、そして私がこの別れを恋愛のようにとらえたのでもなんでもなくて、ただ、こんな風にちゃんと全部を受け止めたい気持ちを最近強く感じているから。だから急にこの文章が目に飛び込んできて、心の中に陽が射したような心持ちがした。
こんなはっきりした意識をここにきてはじめて持つというのもなんだか恥ずかしい話だけれど。

多感だったはずの私の16歳は一体どんなふうだったっけ、と、でも自分の考えていた事はうまく思い出せない。
その頃の私よりも、確かに今の私のほうが色んな事をまっすぐ感じている。
子供だったのだろうか、本当に混沌としていて、そこから何かを引き出そうとはしていなかった。あんまり考えないほうがいいと思っていたのか…毎日に夢中だったのか。それともただ、単純でいたかったのかもしれない。
何かに気づいていた事は確実なんだけれど、それを手に取るすべを、知らなかったのだ。
どうしてそんなに自分に蓋をして、気づかない振りをして生きてきてしまったのか、とはたちを過ぎてからのこいびとに言われたことがあった。その時にはすぐにその言葉の意味がわからず、ぼんやりと自分をかえりみただけだった。うまくはしゃいだり、泣いたりできないっていうことかな。感受性に振り回される割に、表面は理性的にふるまおうとする。そういうことかな。
こいびとのいわんとすることが、芯では分かっていなかった。

たぶん今、その言葉の意味がわかる。

私は今ひとみを開きつつあるのかもしれない。


著者: J.D.サリンジャー, 野崎 孝
タイトル: ライ麦畑でつかまえて