アマヤドリ -32ページ目

うけとる


夏は友人がいっぱいパワーをもって帰ってきてくれる。
パワーだけじゃないかな。でもきっと悩んだりもがいたりしてみた、その底力みたいなもの。

停滞の予感につぶされそうになっていたのに突然霧が晴れる。
何にも自分自身の解決があったわけでもないのに不思議なことだなあと思う。
やっぱり友達と話すことは大事だ。私にとっては。
話してくれていることを受け入れようとすることと自分をことばで表現することのバランス。
すぐに答えられないこともある。
簡単に答えたくなくて沈黙してしまったりもする。
でも時間が経ってふと、そこに繋がるなにかに出会ったりもする。
たぶん自分ひとりでここに辿り着くことは難しい。
わたしとは違う生き方、わたしとはちがう感じ方。

会話には頭を使う。
ほかのひとはそうでもないのだろうか?
私はそう。
うんうんフル回転させようとしてる。結構真剣に傾けて聞いてる。ちからが入りすぎて聞こえてないこともある気がするくらい。だめじゃん。
たぶん目に頼りすぎてきたんだろう。顔をみてないと何を言っているのかわからないこともある。
頭も、からだも、その話はひとに向く。皮膚を向ける、というか。
結局は自分を通してしかなにもわからない。
そのことが歯痒かったりもする。
ときどきその一連が、舞台と似ているなぁと感じる。
そう考えるとなにかしら表現みたいなことを試みているひとたちはそれほどに受け取るひとたちに委ねてもいるのだ。

これからワークショップ。
夜は芝居のほうの稽古。
バイオリンと初あわせ。
わくわくする。

『日々の泡』

もやんとしていたのはこのお話のせいだったのではないか。
もしかしてもしかすると。
いや、違うか。
けれど世をはかなみたくなるくらいに美しくかつ、現実は残酷だった。

クロエ、というこの名前はボリス・ヴィアンからではなくロンゴスから。
ロンゴスのお話ではクロエは若葉ちゃんみたいに溌剌と踊る少女だけれどこちらのクロエは熾火のように美しくてはかなかった。

読みすすむにつれてミシェル・ゴンドリーのように絵本みたいなそれでいて生々しい色彩が脳に飛び込んでくる。
若者たちはお伽話のなかに生きているのだ。
なのにクロエの胸に蓮の花が咲いてしまってからお伽話は残酷な面を見せる。蓮の花が育たないように溢れる花に囲まれたクロエは美しい。けれど、それまであちこちにちらりちらりと姿を見せていたぎざぎざした不吉な予感はすべてを圧迫してゆく。

ハツカネズミが最後猫にお願い事をするそのシーン。
この物語の登場人物はもしかしたら最初から牙のすきまにやわらかなくびを差し入れていたのかもしれない。
愛によって。

ショウイング


波のようなものはどういうわけか3の倍数でくる。
今はからだも思考も重たくてちっとも日に当たろうとしてくれない。小さなことに追い打ちをかけられている気がしてまた目を瞑る。こんなときがあってこそなにかがひらけるのだということも感覚として、経験としても知っている。渦中にあってもそう思えるんだから大したことはないし、糸口もわかっている。
たぶん好きなことしか、自分を救うことはできない。
きちんと時間をかけて多少はあたたまってきたものごとしか確かなものはなく、それこそを私のこころは求めているのだろうから。
踊りに救われるというのはそういうこと。


月曜に、スタジオで何ヵ月かで積んできたこと、考えたり感じようとしたりしてきたことの発表があった。
ひとには、できるのもできないのもあなただから尊重してあげて!なんて言えるくせにやっぱり自分のこととなると私は果たしてなにを今までやってきたのだろうかと足が止まりそうになる。
新しいことや考えもしなかったことについては発見になるのだけれど、何度もつきつけられることに対面するとこの地盤すらはりぼてみたいにぺらぺらなんじゃないかなぁと、なんだかずーんと、おなかに冷たいおもりが落ちたようだった。
おもりに負けてしまうのは隙間が多すぎるせいなのだ、ということも知っている。
話すことも動くことも感じることものせることも、もしうまくいかないと歯痒く思うとしたらすべてそれも私がとりこぼしてきたもののためなのだと思う。


けれど幸せなのは、こんなに一喜一憂できるものごとに触れていられること。
私のからだの空気や色を一瞬で取り替えてくれる友達がいること。

苦しいうちにもがくしかない。


なんかどんよりしちゃったけれどスタジオパフォーマンスはとても素敵な体験でした。
こんな愚痴っぽいことを書くなんて罰当たり。

一秒いちびょう私たちは生き続けるかぎり変わり続けるし、そう努力することもできる。努力することがわからなくなっても呼吸だけでもしかしたらはっと何かに気付くかもしれない。
結果や効果がどんなふうにどこにあらわれるかよりも、今、素直に真摯に向き合って濾すように吸い込む。そのことを考えたいかもしれない。


帰りの電車でもう2年半くらい一緒に踊っているYちゃんに、ここで踊っていて今まで思いもよらなかったようなあなたを見る瞬間があってそれがとてもうれしかった、と言ってもらった。
恩恵さんのおっしゃることはぐいぐい私のこころを揺さぶるしときに口が開いたままになっちゃうくらいのショックをくれるのだけれど(あんなにやわらかく、ごくかんたんなことばたちなのに)、けれどそのほんとうのところを私は理解していないのではないかという焦りがある。
わからなくても私のどこかに置いておけばいい。いつかねっこが伸びて葉をひろげてくれる。
そう信じていたいけれどあまりの鈍さに、たねをほうっておきすぎて傷んじゃうんじゃないかとかもしかして違うたねをあたためているんじゃないかとか(それはそれでいい筈なのに) 心配してしまう。
わかりたいと思えることばがあるなんて幸せなのに。

けれどそんなふうに身近なひとが感じてくれていることに、少し救われた。

ただがむしゃらにやってみることもいいけど、もうすこし方向を知らなきゃいけないな。



スタジオに来ていただいたみなさま、ありがとうございました。
それから一緒に踊ってくれたみんなにも。
これからもよろしくね。
謎のクリスマスキャバレーにむけてがんばろう!

海峡



道路から向こうのお宅へはこの橋を渡らねばならない。
雨ざらしの洗濯物干しざおのようなこの欄干、まさか使ってないよねと思ったら、どう見回してもこのお宅、これ以外に外界と通じているものはなかった。

なんでこんなに錆びちゃったのか不思議。

セッションハウスへ

セッションハウスに友人の本番を観に。
4グループがそれぞれ作品を発表したのだけれどどれも色とりどりだった。


最初の女性ソロは細かな動きの積み重ねはシンプルなのに飽きさせなかった。
上半身には白いテーピングテープだけが貼ってあって動くたびにそれが少しずつ浮き上がってゆく様は人魚のうろことか、長年生きた神聖な鳥のようだった。

友達の出演した杏奈さん作品。
女性にとっては大問題である、年齢!ということがテーマ。
あまりの真剣さになんかくすくすおかしいのに、後半なぜかぎゅうっと胸をつかまれてじわんときた。
よく動くなぁ…というのもそうだけど、それをひっぱっている杏奈さんの呼吸やキャラクターが素敵だなぁ。
コメディって難しそうだけど、いいな。
最後の逆立ちを後日出演者に教えてもらった。

韓国?のかたたちの作品は最初少し苦手かなぁ…と思っていたらいつのまにかひきこまれていた。
わけのわからないストーリーもなんか不条理マンガみたいにだんだんつぼにはまってくるし、なにしろダンサーたちの身体能力がすごい。
男性同士のリフトのあらゆる可能性を見たのではないかと思うほどバリエーションに富んでいて見応えがあった。
とくにポチ役の男の人、ドーベルマンとかジャッカルみたいな動きや空気の停止のさせかた。
飼い主の男の人のとぼけたカンジもおもしろかった。
あのひとが演出かなぁ…。うまいと思う。

最後、男性のソロ。
あれだけの身体能力を見せられたあとだと男性の踊り手としてプレッシャーがありはしないだろうかとしなくてもいい妙な心配がふと頭に浮かぶ。
身体能力ばかりをそんなに大切なものだと思っているわけではないのだけれど、それだけ前の出演者が暴れ回っていたから。
でもこの作品はもっとずっと閉じこもっていて、酩汀していて、まるでタイプの違うものであった。
だけどどうしたわけか途中ですごく疲れてしまい集中できなかった。
おしりが痛かったのかもしれない。


帰ってきてから、マイミクのSちゃんが近くにいたことがわかり、あいさつすらできなかったことが残念でした。