ショウイング
波のようなものはどういうわけか3の倍数でくる。
今はからだも思考も重たくてちっとも日に当たろうとしてくれない。小さなことに追い打ちをかけられている気がしてまた目を瞑る。こんなときがあってこそなにかがひらけるのだということも感覚として、経験としても知っている。渦中にあってもそう思えるんだから大したことはないし、糸口もわかっている。
たぶん好きなことしか、自分を救うことはできない。
きちんと時間をかけて多少はあたたまってきたものごとしか確かなものはなく、それこそを私のこころは求めているのだろうから。
踊りに救われるというのはそういうこと。
月曜に、スタジオで何ヵ月かで積んできたこと、考えたり感じようとしたりしてきたことの発表があった。
ひとには、できるのもできないのもあなただから尊重してあげて!なんて言えるくせにやっぱり自分のこととなると私は果たしてなにを今までやってきたのだろうかと足が止まりそうになる。
新しいことや考えもしなかったことについては発見になるのだけれど、何度もつきつけられることに対面するとこの地盤すらはりぼてみたいにぺらぺらなんじゃないかなぁと、なんだかずーんと、おなかに冷たいおもりが落ちたようだった。
おもりに負けてしまうのは隙間が多すぎるせいなのだ、ということも知っている。
話すことも動くことも感じることものせることも、もしうまくいかないと歯痒く思うとしたらすべてそれも私がとりこぼしてきたもののためなのだと思う。
けれど幸せなのは、こんなに一喜一憂できるものごとに触れていられること。
私のからだの空気や色を一瞬で取り替えてくれる友達がいること。
苦しいうちにもがくしかない。
なんかどんよりしちゃったけれどスタジオパフォーマンスはとても素敵な体験でした。
こんな愚痴っぽいことを書くなんて罰当たり。
一秒いちびょう私たちは生き続けるかぎり変わり続けるし、そう努力することもできる。努力することがわからなくなっても呼吸だけでもしかしたらはっと何かに気付くかもしれない。
結果や効果がどんなふうにどこにあらわれるかよりも、今、素直に真摯に向き合って濾すように吸い込む。そのことを考えたいかもしれない。
帰りの電車でもう2年半くらい一緒に踊っているYちゃんに、ここで踊っていて今まで思いもよらなかったようなあなたを見る瞬間があってそれがとてもうれしかった、と言ってもらった。
恩恵さんのおっしゃることはぐいぐい私のこころを揺さぶるしときに口が開いたままになっちゃうくらいのショックをくれるのだけれど(あんなにやわらかく、ごくかんたんなことばたちなのに)、けれどそのほんとうのところを私は理解していないのではないかという焦りがある。
わからなくても私のどこかに置いておけばいい。いつかねっこが伸びて葉をひろげてくれる。
そう信じていたいけれどあまりの鈍さに、たねをほうっておきすぎて傷んじゃうんじゃないかとかもしかして違うたねをあたためているんじゃないかとか(それはそれでいい筈なのに) 心配してしまう。
わかりたいと思えることばがあるなんて幸せなのに。
けれどそんなふうに身近なひとが感じてくれていることに、少し救われた。
ただがむしゃらにやってみることもいいけど、もうすこし方向を知らなきゃいけないな。
スタジオに来ていただいたみなさま、ありがとうございました。
それから一緒に踊ってくれたみんなにも。
これからもよろしくね。
謎のクリスマスキャバレーにむけてがんばろう!
