アマヤドリ -23ページ目

まつ、その裏側




わたしは、なにも待ってない。

待つひとの背中は
ここがこんなにぽかぽかとあたたかなことをしらない。

隠れ家から通り過ぎるひとびとの足首を見てどきどきする
とおい昔の雨の日みたい。


わたしはどこにもいず、
何からも離れて
ぜんぶを抱きしめる。

モザイク


なんだかもうずっと前のことのような気がする。
これを見ながら話をしたことも、笑ったことも、こころを落ち着けたことも。

あれから何か変われたかな。


なにか言わなければいけないという気持ちに駆られて軽はずみなことばを零してしまうよりは、沈黙のうちに噛み砕いたほうがいい。

いつもそんな場面をしくじってきた。

今は、数を重ねることや表を築くことよりもじっくり深くまで踏み込むことをしていたい。
それが自分を今よりも脆いところまで明け渡すことになろうとも。

削る



雨がいろんなものを洗ってさらってゆくのが好き。


あるひとに倣ってある本に付箋を貼りながら読んでみている。
閉じてみるとまるで生えかけの羽根みたいだ。

音楽をつくることとは世界にある音を削ることだと書いてあった。
他の本でも平行して最近同じことをきいた。
文章を書くことはことばを削ることだと。
じゃあわたしは?
削るそのおおもとが立ち上がらない。

*

個人性はひとりの人間のなかに常住しているのではなく、人と人との、人と自然との、人と都市との出会いの瞬間瞬間に、まるで結び目のようにして、かたちづくられてくるものだ。エゴよりもずっと巨大な何かの力の場のなかに、それは永続性のない結び目として、たちあらわれてくるものだ。結び目はいったんできあがると、ふたたび解かれ、また別の結び目との出会いのなかに動きだしていく。
~中沢新一『ケルビムのぶどう酒』

4:34

少しなにもかもが苦しいなあと思う時期があって(もうずっと前のはなし)、その時は誰かにそのことを話す元気もなかった。
誰かに逢いたいから誘われれば約束をするのだけれど直前になってやっぱりからだが向かなくなってしまう。はっきりとそう意識したわけではなかったけれどきっと今考えるとそんな状態。
そんなふうに約束をちいさく破ってゆくうちにぎざぎざがこころに積もりいろんなことから、ところから、足が遠のいた。
淋しいと気づいてもそれをあたためるために誰かと接する労力のほうが重荷のような気がした。
夏のおわりの空みたいにどんどん遠ざかってゆくのを眺めて、淋しいと思えるから大丈夫だと思っていた。
いろんなことが過ぎたときにふと、何年も逢っていなかった友達とご飯を食べた。
長いことちゃんとひとと話していなかったから上手に話せなかったしつっかえつっかえ、訂正を重ねながら、けれどどうしてかこころの一番やわらかいところで話した。
ずっとちゃんと連絡もとれなかったこと、どうしても何かをいう元気がなかったこと、それを弁解する気力もなかったこと。
けれど友達は、そんなこと、と笑い飛ばした。すごく久しぶりだけど私たち何か変わった?と。あなたがごちゃごちゃ悩んでいた時間、私だって何も変わらなかったわけじゃない。私にだってつらくて何も話したくないときがある。メールの返事すらできないようなどんよりした空気に浸かってしまうことがあることも知ってる。そんなことも想像できなかったの?
そのとき私は、私が信じていなかったのは自分のことじゃなくて自分の周りの世界のことだったんだなあ、そしてそのことによって、自分を信じることを邪魔していたんだなあ、と、固めていた時間にごめんなさいを言った。

信じるって難しいと思う。
だって何を根拠に?
信じるってなにか理由がなければいけない?
でも本当にしたいのは、理由もなくこころを預けたいというだけのこと。
けれどどうしてもそこに、なにかを求めてしまう。
はじめから矛盾がある。
生まれたと同時に自分とひととは隔てられていてその差異を感じることによってしか自分のことが分からない。
自分がほんとうにここに立っているということを知らなければきっと、ひととの距離もわからない。
私に積み重なった時間のことを見つめることができなければ、ひとが積み重ねてきたことも尊重できない。
矛盾も、同列も、いっしょくたに存在する。
怖いのは臆病だからじゃなくて大切にしたいから。
壁をつくるのは壁を壊したいから。かもしれない。わからないけど。
きっといちど分けないと始まらないんだわ。
だから孤独には意味がある。相手がいなかったら、孤独は成り立たない。
だから信じないがなかったら、信じるも深まらない。
私のなかは矛盾だらけで、その矛盾同士も混沌と入り混じってる。
同時に存在するから一瞬の判断を求められるし、ほとんどの場合それがうまくいかなくて引き裂かれる気がしていた。
けれどそれでいいんだとおもう。
白黒つけずに灰色でいい、というのともちがう。
白であり、黒であればいい。
その都度その理不尽さを苦しめばいいのかもしれない。
ぽかんとそのことが解決することなんてないかもしれない。きっと、忘れたころにまた苦しむ。
けれどたくさんのことを感じて、幸せなのもきついことも、気づきたくなかったことも、そうしたらいつのまにか螺旋階段を上がるみたいに、眺められるのかもしれない。
手に何かを握って。

昂ぶる、見とれる、おさまる


2回目の舞台は前とは違う目で見ることができた。
前回は正直いうとソロの作品があまり響かなかったのだ。
今日はなぜだか感傷的で、ふと涙がこみあげそうになる瞬間があった。細かいからだのふるえまでが見えたからか。
音楽のせいもある。
しばらくひとのこえの祈りみたいなものを聴いていなかった。

高校生くらいの女の子って得体の知れなさを自分で持て余しているようにみえる。こどもでもなくおとなでもないことのなんと生々しいこと。きっと…なにもかもをうまくやりすごせないのだ。
私にそんな時期はあったかのだろうか。
慣れない重みに振り回されて、ねばっこい孤独にからめとられて、わたしでないなにかとみれば牙を剥くような。
…そんなふうではなかったかもしれないなぁと思う。
あの頃はちっとも生身じゃなくてうまくやりすごすことばかり考えていた気がするな。
急いでひとりの人間として輪郭をもたなくてもいいやと思っていたのかもしれない。
生臭さをなるべく隠していたかったのかもしれない。
なにしろわたしはなにかしら普通じゃない、と心配するようなナルシストだったのだ。


休憩時間にベランダのようなところに出ると雲の向こうに稲妻が走っていた。
ひかりは大きかったけれど音がしなかったからかなり距離があったのだろう。
雲を内側から照らし、ときどきぎざぎざがはじける。
繊細でどきどきした。

なぜ嵐は美しいのだろう。


ショウイングを見てくれた方と話をして、迷走していたあたまや気持ちを整頓できた気がする。
自分を信じるべきだし、見破るべきだ。

ほどよく。

柔軟に。