アマヤドリ -22ページ目

夢/川辺の足場、子猫、伝言

夢。

川岸に高い足場が組んであって私はその天辺にいる。
川のそば、はるか足元に何人か友達のような男のひとがいてなにごとか話している。
足場は最後のところを急な階段のようにして切れていた。
恐くて足が震えたけれど臆病なところを見せたくなくて恐さを冗談にしている。
降りてゆくと大事にしている子猫がいる。

何日か経った。
可愛がっている猫が大きな猫に近寄っていく。大きな猫も私の猫をかまう。
その出会いの瞬間を私は不思議な気持ちで眺める。
まだ小さいから大丈夫だろうと思っていたらいつのまにか親子のようにこいびとのようになってしまった。
心配だったけど幸せそうに丸くなり全部を預けている子猫をみて、たまにはうちにも遊びにおいでよね、という。
すると子猫は「いかん」と初めて人間のことばを話す。もう私のところには帰れないんだよ、とくりくりした目で私を見る。
失うことは少し悲しかったけど、私の気持ちのほとんどはほっとしたような、懐かしいような、改めて大事なことを気付いたような熱い蒸気で包まれていた。
すると大きい猫が「きのしたれいこに伝えて。小山の稽古にいた」と私に言った。
この猫も大事にしてくれていたひとのもとから旅をしてきているんだな、と思う。
足場を登ってすぐにこの名前をノートに書いた。
知らない名前だけどたぶんダンサーなんだろう。
どこかで逢えたらあの猫のことを伝えようと思って。

オペラ顔合わせ

オペラの初顔合わせで劇場へ行ってきました。
大きなミュージカルとかにも出たことがなかったからその出演者の数やスタッフさんの多さに驚きました…。
大きなリハーサル室にはすでに簡易舞台が設置され、小道具も大道具もちりばめられていました。
演出家のブロックハウスさんはものすごく熱くコンセプトを語ってくださったのだけれど、2重構造の、ちょっとかわったトゥーランドットになりそうです。

今シーズンのオープニングを飾るオペラなので力も入っているよう。
楽しみです。

困るのはリハーサル予定が毎回前日の夜に決まること。毎日あけておいてください、NGはききません。って!そのことを引き受ける前に教えてほしかった…。
…なので9月はまったく他の予定を入れられそうにありません。
他の舞台のリハーサルをどうしよう…。

もうチケットはほぼ完売してしまい、戻りチケットの販売が残るのみになっているそう。
けれどNHKでの放送があるようなので、もしよろしければそちらを観てください☆


明日はリハーサルあるんだろうか……。

あおのかおり




空を見上げると深呼吸をするというよりは
胸いっぱいにそのにおいを嗅いでいるらしい。

でもこの写真を見てすうっと思い切り鼻の穴をふくらませながら
もしかしたら私はあおのにおいを確かめる癖があるんだ
と気づいた。



はるか遠ければとおいほど。

『砂の女』安部公房

途中で読むのを止めた本は何冊もあるけれどほんとうに具合が悪くなって止めた本はこれと『残酷な神が支配する』だけ。
(残酷な…のほうは今だに続きを買うことすらできなくて7巻までが本棚の奥ふかくに封印されている。
あの本をいつか最後まで読めるのかなぁ?)


私はからだの自由を塞がれること恐怖症なのだと思う。
閉所恐怖症なのかと思っていたけれど、どちらかというともがくことすらできない場所や状況が我慢できない。
想像するだけで空気の匂いが錆臭くなって肺が酸素を求めてあえぎたくなる。

その肺にいっぱい砂の匂いや粉がぎしぎし詰まってたくさん脂汗をかいた。
途中何度か眠って眉をしかめてまた起きては読み…を繰り返した。

砂自体のイメージは美しい。
岩から同じ大きさに削りだされ運ばれ絶えず全体の形状を変えるそのイメージは乾いた空気を含んで軽いし、整っていて清潔。
それがあそこまで粘っこく圧迫し重たいのはアリジゴクのようにもくもくと砂を掘る女や住民の異質な空気ももちろんあるけれど、主人公が逃げようと画策するそのもがきは私たちにも身に覚えのある、どこにいても何かから逃げられないといった感覚に繋がっているからなんだろう。

今ふと気付いたのだけれど子供の頃はこんなふうに目の前をふさぐようなものに頻繁に出会わなかっただろうか?
小さかったり大きかったりはいろいろでも、その度に全力でもがき、叫び、裂かれた気がする…。
あれって全然物理的なものじゃないな…なんだっけ?
かたちにして思い出すことができない。
夢かなぁ…?それとももっと象徴的なことが残っているの?
もしくは単に私が閉所がきらいだから、背が小さかった子供時代は窒息させられるような気持ちによくなったというだけのことだろうか…。

…と、ちょっとずれたけど。


途中、悪夢のような閉塞感がふいにどこかへ去った。
砂に囲まれていても今までの生活に戻っても結局のところ自分は生きていること自体に塞がれている、自由などちゃちな繰り返しの中の幻想にすぎない…と気付くあたり。
苦しいのは穴のなかだから、軟禁されているからではないと気付いてしまって逆にどっとこころが暗くなってもいいはずなのになぜかからっと乾いた、明るい気持ちが差し込んだ。


森博嗣の作品に出てくる間賀田四季をなぜかふと思い出した。
外へ外へと向かえば最後は中心に戻ってしまう。だからといってあきらめて動くことをやめてしまうとその瞬間に消えてしまう。
この退屈な循環が生命の定義。


閉じ込められた男がとらわれた粘っこい恐れとか焦燥は、閉じ込めている住民たちの空気とものすごいずれがある。
はじめは読んでいても必死でそのことに気付かないが半ばあたりからそのことに気付く。
人間が、生きものがどこかに棲む、ってこんなものなのかもしれない、と。
どろどろの空気の中を掻い潜ってときどきそんな疑いがぬっとあらわれる。
そしてだんだんその影はおおきくなる。
自分で選んだかそうじゃないかの違いがそこにあるだけ。連れてこられてしばらくして逃げることを諦めたら慣れてそこに情がわく。
動物もそうなのかもしれない。
人間の生活に連れてきておきながら自然から、親から引き離されたことに哀れを感じるのは私たちの勝手でやさしく、甘い妄想なのかもしれない。
生きていることってそういうことなの?
もしかしたら。
どこにいても、たとえそれが自分の選んだものでも、なにからも自由になんてなれるわけがない。
私が得ていると思っているのなにに対しての自由?


…などと考えだして、うわー恐い。安部公房にしてやられてるわ、と気付きながらもずっとその虚しさが胸から抜けないのでした。

*

孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである

たそがれどき


お手紙を書いた。
このあいだこころが震えた版画家さんの展示会で買った便箋に、ガラスペン。
風でひらひらする簾を気にしていたちゅんは目ざとくペンを見つけて飛んでくる。
何もない真っ白な紙のうえに文字がくりくりと生まれてゆくのが面白いみたい。あとはインクを舐めてみたいみたい。からだに悪そうなのに。
ときどき不味そうなものに興味を示す。歯磨き粉とか、ささくれとか。
変な趣味。

私を必死で追い掛けてきたりじっとそばで満足気にからだをふくらませているちゅんをみつめるのは幸せだけれど、でも同時にかなしくもなる。
わたしが腕でまあるく包んでいるような気がしている世界は実は私が見ていないときは誰のものでも何ものでもなくてそこに注ぐ光だってただひかりだというだけのこと。
満たされるそのいとおしさとそんなのただ一瞬通り過ぎるまやかしとか気のせいみたいなことなんだよ、というふたつの真実の両方足をかけている。
そしてわたしにはなにもない。
見つめているうちは私のものだ、と思いたいこの景色のなかのなにひとつをとっても、どこにも持ってゆくことはできない。
どんなふうに生きても何を考えても。
あのろうそく立てとは混ざりあうことはできないし、だからいつかひとりで消えていかなきゃいけない。

それなのに今こんなふうにしかここにいない。
ちゅんにそれと同じ時間を強いてる。
こんなことを考える暇を自分に与えて甘えてみたりして、どんなことがこれを満たしてくれるんだろうと、毎日探している気になっている。

ここにいてさみしくない?
とちゅんに訊ねるのは許してほしいから?

誰に?


大切なことのためにもっと時間をさくべきだ。
呪縛を解いたつもりで、ただ蓋をしただけだったことに立ち返るためにも。