アマヤドリ -18ページ目

舞台リハーサル1 日目

今日は舞台でのリハーサルでした。

まだ演奏はピアノのみだけれど、舞台に立つだけで全然違う。
ここの劇場は4階席まであるのだけれど、考えていたよりもずっとお客さんを近くに感じる。
あれだけの席があるのだから広いし実際の距離はとおいのかもしれないけれど、客席に舞台が包まれているような親密感がありました。
息づかいが聞こえてくるような。
いい劇場だな…。

当日タクトを振るマエストロがとてもかっこよくてみんなぽや~っとしています。ジョージ・クルーニーとアルムのお爺さんを足して2で割った感じです。
指揮者台に立って照明に照らされると渋さ倍増。
で、舞台のうえにも実はモニターがあって指揮者だけはどこからでも見られるようになっている。
だから余計にみんなまじまじと見てモチベーションをあげている。

袖が異様に広い!とか、オケピットが深くて真っ暗で恐い!とか、プロンプターボックスはほんとにあるんだ!と感動したり(古い映画とかにはよく出てくるけど現代の劇場にもあるとは知らなかった)。
おおまかな修正をしながら1日を終えました。


やっぱり舞台に立って照明を浴びられるのは幸せだな…。
何故あんなに確かなんだろう。
あそこにいるとき、とてもはっきりと強い気持ちを持つことができる。
大切な場所。
いつも少し涙が出ちゃうし、ただ歩くだけなのに緊張もする。
受け取ってくれるような気がするのかな。
全部を見てもらうしかできなくてそれは恐くもあるけれど、でも自分自身でも滅多に覗けないなにかがおもてに浮かび上がってしまうんだろう。
そのことをいつも待ち望んでいる。
だから、やっとだ、といつも思う。


あと2つの舞台のリハーサルには今全然いけなくてすごくご迷惑をかけている。
ごめんね。
オペラ終わったらそちらにフル稼働します。

冬毛のちゅん



ちゅん、羽根の生え変わり時期です。

この時期は羽根の作成にたくさんのエネルギーが必要みたい。
いつもよりもずっと大人しくしている。
羽根が少ないから飛ぶのもとても重たそう。
だから余計に疲れちゃうんだろうな。
まだ体力のない子供の頃だとこの時期に命を落とすこともあるそう。

ありがたいことにちゅんは元気です。
まるはげになって可愛くない時期もあったけど。
ちっちゃなはげたかだねー、と家族でからかっていた。

ますますいろんな要求を分かりやすく伝えてくれるようになった。
お腹すいた、これじゃなくてあれが食べたい、お風呂に入りたい、寝たくない、眠い、見ないでよ、などなど。

今も人の肩の上で毛づくろいをしています。




長いしっぽも一度抜けたらこんな風にちいさなしっぽがあとから生えてくる。
根元のほうに見える、白いさやに入って出てきて、そこからぐーんと伸びて、ちゅんはそのさやをつついて剥がす。
面白い仕組み。

ちゅんのことを書いていることを察しているのか、私のことをじっと見てる。
じっと見ながら、目がだんだん閉じてゆく。
眠いならちゃんと自分の枝で寝たらいいのにいつまでもひとにくっついていたがる。

私なら、どこにもいかないのにな。

あおい吹き溜まり、



毎日まいにち、劇場にいます。
けれどそんなに大変ではない。
なぜならもうこのことひとつしかできないから。

いつもは一日に行くべきところがいくつかあって、それぞれが楽しかったり大変すぎたりはいろいろだけれどもとにかく抜きどころもなくて、移動時間にもはらはらしちゃうから心によくなかったのかも。
けれど今の私にはもうこれひとつしかできない、ここにいるしかない。
じたばたせずに済む状況のなかただじっと待つ。



昔、四方を高い壁に囲まれた世界で生まれた4人の子供の話を書いた。

ここの中庭は空まで吹き抜けている。
こんなふうに砂利が敷いてあって、小さなテーブルと椅子が置いてある。
何故かいつも水のにおいがするからここに座るとプールを思い出す。
夏の、ちいさなホテルのプール。
目に痛いくらいまっさおな。
それから肌のやけるにおい。



求めているものはなにか。
踊りのこと、わたし自身のこと、まわりとわたし、これからの時間。
ここ何ヵ月かでパンケーキの空気みたいにぽつぽつと浮かび上がってきていた取っかかりを観察し辿ることを、ちょっとお休みしてみている。
一回がーっとかきまぜちゃってもいいと思ってる。
…と書いた途端あれこれが頭にじわじわ迫ってくるのだけれど。

間違ったあやとりの結び目は複雑に絡まるとなかなか爪では解けない。

今は単純な時間にでも丁寧につきあって、こころを動かすことを探したり、構えない感覚のなかに流し込んだり、普通の会話をしたり、したい。
…とそれはただの怠けなんだろうか。

すっとやわらかく。
ただ、やさしくなりたいのかも。

『大いなる遺産』

始まってcastの紹介が流れる場面からもう釘付けになった。
フランチェスコ・クレメンテの絵。
少年が描く魚のラインや赤い影がうらやましくなって手元に落書き帳を置いて観た。

屋敷のシーンは夢みたい。
水浴びをするむくむくの小鳥とかてんとうむしのつるつるの朱色とか、血管のように細かく垂れた蔦とか色見本みたいなところどころ抜け落ちたガラス窓。
グロテスクだけれど美しく飾った気の狂ったおばあさんと天使のような見た目の氷の少女。
噴水のシーン。

緑色の光あふれるドームのなかでどんどん生まれてくる濃い縁取り。


小さなころは、一度想いが通じたらもうそれでハッピーエンドなのかと思っていた。
けれどほんとうにはそうはいかないみたいだ。
いつこれが終わるんだろうと永遠に続くループ。
囚われることを選んでしまった瞬間には後から気付く。
永遠なんてないのだと知ったからなおさら永遠に待ったり追いかけたりしてしまうのかもしれない。
面倒な両極。


ちくちくしてしょうがなかった。
イーサン・ホークのまなざしはちくちくするし、どきどきさせられる。


暖炉でのおばあさんとのシーンは印象的だった。
グリム童話みたい。
残酷で美しい。
呪縛の連鎖。




大いなる遺産


何故この写真なんだろう。
クレメンテのドローイングとかお屋敷の写真のほうがいいのに。

プノン・バケンからの夕日



夕日を眺めるスポットとして有名なプノン・バケンの丘へ。
徒歩でいける道と象に乗れるルートと別れている。
象にのってみたい気持ちもあったけれど15ドルと高いし、それに山道を歩くのは久しぶりなので徒歩を選ぶ。



このときには夕日にばかり気をとられていたけれど、今調べてみるとこの遺跡はアンコール建築では独特のバケン様式として知られるとても重要な遺跡らしい。
最初の首都ヤショダラプラにおいて、その中心に聳える須弥山とみなされたのがこのプノン・バケンの自然丘陵だった…とのこと。
見渡すかぎりあまり高い山がなくてこの60メートルほどの小山からは驚くほど遠くまで見渡すことができました。
しかしその地形条件はカンボジア内戦時に軍事拠点として利用されていたんだって。
神殿の天辺が火薬の倉庫になったり、周囲にも多くの地雷が埋設されていたそう。



頂上では象も象つかいもひとやすみ。
鼻をぶらぶらさせていた。



こうして、どんどん壊れていっちゃうのかな。
壊れてゆくもののその過程をみるのは好きだけれど、その先にはそのことすらを見られなくなる消失点がある。
それも含めて、なのかな。



むこうをみすかす風景をたくさん撮った。



ここに登ってくるまでの階段がとても恐かった。
蹴上げが脛の高さくらいあって、踏み面が足の横幅くらいしかない。
天にいち早く昇れるように、急なんだって。
でもそれにしても。

みずみずしい大地がずっと見渡せた。
ドイツは地殻が分厚そうで確固としていて、オランダはうすっぺらい吸い取りシートのような土地だったことを思い出す。
カンボジアは熱を含んだ湿気が地面に降りてしまったみたい。



たくさんのひとが夕日を見に来ている。
いろんな国のことばが飛び交う。

可愛かったから、近くにいた男の子を。




太陽を見るのにこんなにひとが集まるなんて、変だなあ。
太陽はひとつだから自分の国で見ようと昼間浮かんでいるのを見ようと同じものなのに。
けれどみんなほっぺを同じように夕焼けの色にぴかぴかさせながら、ずっとその姿を待ち望んでいる。

写真を撮るって不思議で、そこに写した景色よりもなによりも、その場所その瞬間がからだのなかに収められる。
写真は単に記憶の引き出しの見出しにすぎない。

左の方にいたはしゃいでいた男の子たち、
一緒に日没を待っている肩に感じる体温、
石垣から足をぶらぶらさせたこと、
一日のおわりの匂い。



曇っていたことと帰りの山道が暗くなると危険なことで完全に日が沈む前に山を降りる。
小さな山なのにみるみる山道が真っ暗になってゆく。

工事の音みたいな、キーンというかビーというか、ギャーンという音がずっとしていて、何かのサイレンかなあとずっと思っていたらガイドさんが「あれは蝉の鳴き声だよ」と教えてくれた。
まさか!あんな人工的な音が蝉のわけないよ、と、冗談だと思って半笑いしていた。
でも旅の途中何度もこの音を聴いたけれど、やっぱり蝉だったみたい。

姿を見たらたぶん鉄でできてるんじゃないかなあ。