アマヤドリ -17ページ目

相容れない、ちゅんは鳥です

空にいっぱい雲があると嬉しくなるなぁ。
背景は薄い水色から桃色のグラデーションでその手前に青くて灰色の雲がいっぱい。地面の近くまで。

できるだけ長いこと夕焼けを眺めるには山に登りながら夕日を追いかければいい。
さらに太陽は西に沈むから西に向かいながら山を登ればいい。
でもそうすると斜面が目の前に立ちふさがっているわけだから太陽は見えないのだな、と気付いた。

…だから何ってことはないんだけど。


ちゅんが緑色の鳥とじゃれている夢を見た。
それからしばらくするとちゅんの髪の毛は緑に変わりはじめていた。
さすがカメレオンだ、と思う。
そこにいるちゅんは半分が白髪で半分が緑のおかっぱ髪の女の子だった。

霧雨


肺を満たすんじゃないかと思うくらいの霧雨に打たれながら帰った。
低くたれ込めた雨雲のにおいをおなかいっぱい吸い込んでふいに、もの哀しい気持ちになった。
きっと浮かび上がりかけた記憶のせいだと思うのだけれど、それは表面に顔も出さず波紋も広げないうちにまた潜行していってしまった。
誰にも触れられないところへ。

インディアンの娘みたいに美しかったならな。
くっきりと輪郭があって、裸足で立ってる。
雨は雨だし、風は風、わたしはわたし、みたいに。

なんでこんなにぼんやりとにじんでるんだろ?
何も激しく吐けないままじゃ、なにかを愛したりもできない。

*

『アルプスの少女ハイジ』を読んでる。
本が好きなんだと言ったら友人がくれたから。
これと『やかまし村の子供たち』も送ってくれた。
私がムーミンを好きだと言ったからこのチョイスなんだろうな…。ハイジなんて久しぶり。

昔ときどきハイジに似てるって言われた。
裸足で走りそうなところやよい子そう(あくまでよい子「そう」)なところがかな。

器にあたたかいやぎのミルクを絞って飲んだり、チーズをあぶって溶かしてパンに挟んだり、小さくくりぬいた窓から星を眺めながらほし草に寝るのがすごく羨ましかったなぁ…。

『アヒルと鴨のコインロッカー』

淡々とした瑛太の台詞ひとつひとつの裏に含まれる切なさに気付く後半から、お願いだからそんな結末はやめて、と祈りながらひきこまれていた。

積み上げてきた時間同士がぶつかって一瞬のうちに砕け散ったとき、どうやって足を進めたらいいのか、二度とわからなくなってしまいそうだ。
冷えた部分はきっととけない。
だから、包むものを見つけるしかないのかもな。

歌や、かおりや、景色がふとなにもかもを繋げることって、ある。
なんなんだろうな、あれ。
かきむしられるみたいに激しくてずるずるととめどなく、修正が利かないところまでひっぱりだされちゃうことがある。
危うくてひりひりしていて、夜の風に涙が出たりして。
無性に隣に誰かいて欲しくて。


つくりもおもしろかったし、セリフのちょっとしたきざなところもこそばゆすぎず、優しい気持ちもくれた。
精一杯生きなあかんな、と思いました。

「え、そんなにかかるの」という椎名のセリフがつぼだった。
それから村上春樹の『パン屋再襲撃』を思い出した。
『耳をすませば』も少し。

原作も読んでみたいな。

プラットホーム

もくもく雲の下、ホームの先端で男の子が「電車きた!うふふっ」とはしゃいだ。
本当にうふふっと笑った。
おなかの大きいお母さんがわが子をビデオで撮っている。
ぴょこぴょこ興奮さめやらぬホームにまた電車。
1台見逃して、うしろすがたまで見送る。

男の子の今の一瞬とまだおなかのなかにいる生まれていない子供の今。
男の子はきっと大きくなるし赤ちゃんは生まれてくるしお母さんのおなかはしぼむ。
だけど私にとってこの親子はずっとこの「電車きた!うふふっ」のまんまるオナカの陽だまりの瞬間なわけで永遠に更新されることはないし、あのビデオを観ることもない。
俺電車がなぜか好きだったよなぁと思い出す光景は、まぶたをあたためる太陽のせいで私が記憶する姿ほどはくっきりしていないだろう。

そして私はプラットホームの男の子を見送る。

『パリ・ルーヴル美術館の秘密』

ルーヴル美術館の裏側。

クレーンで絵を釣り上げて窓から搬入したり、地下への秘密のエレベータがあったり。
窓のあんなところが開くんだ!とか、あんなところにスイッチがあるんだ!という秘密も面白かった。

けれどなにより、裏方で働くひとたちのそのプロフェッショナルな所作にずっと見とれていられる。
あんなに巨大な絵のロールをほとんど掛け声もかけ合わずに呼吸で開いてゆく。
細い廊下からの搬入はあらかじめ台だけで予行をし、貴重な美術品を傷つけないように。
ルーヴルといえば、というあのガラスのピラミッド掃除は宇宙遊泳みたい。

このごろよく「日常の行為には無駄がない」ということばを身に染みて感じる瞬間を体験する。
踊りや演ずることを考えるとき、会話や動きの根のようなもののことを掘り出す作業のなかで、日常に流れている慣れた所作より面白いものはないのかもしれない、とふと考えると動けなくなったりもする。
自然かつシステマティックだし、間もそこに至る動機と当然あるから。

ドキュメンタリーには勝てない、ってこういうことなのかな。


膨大な在庫を見分け、札をつけてゆく作業。
どの絵をどこに並べたらより美しいか?効果的か?
額縁と後ろの壁の色、飾る高さ。
釘を打つ手。
額縁の金箔を貼る手つきの繊細で的確なこと。
金箔が息でそよぎ平らになるさまなんてそれだけで美しい。きっと毎日の光景なんだろうけど。

万が一のための消防訓練。
急病人の救護の講習。

傷ついた絵の修復をするひとたちの真剣な目。
陽に透ける髪。


スタッフの手で支えられ、動かされ設置される彫刻たちは何故か少し幸せそうに見えた。
生き生きとしてその表情や形が物語るものをより濃く表に出してやろうとしているようだった。
よそゆきの顔じゃない美術品たち。
朝の光にあたためられて、さあこれからお客さんを迎えよう、と呼吸を整えているみたい。
彫刻をこんなに美しいと思ったのは初めてかもしれない。