「Piercing The Sky 」
このひとのポートレイトはいいよ、と教えてもらっていた坂田栄一郎さんの写真集を見た。
アエラのポートレイトを撮っている方。
手元にずっとあったのに、そして以前眺めて「これはいいなぁ」と思っていたのに、この写真集とそのひとが今日まで繋がらなかった。
プロローグに書いてあったことばに小さなヒントのような答えのようなものを感じてあたたまる。
「肖像写真には被写体の個性ではなく、却って作者の個性が画面に表現される」
(野島康三さんのことば)
38人の顔と、そのひとのイメージの写真とが対にされている。
コメントとともにそれをじっくり見てとにかく感じようと努める。
どんな技術をもってこの写真が撮られているかということはほぼわからなくて(この前のインタビュー写真に先立って写真入門のような本を買って少し読んでみたのだけれど、やはり。)でもただおそらく坂田さんがこのひとたちのどこをみつめたくてこの1枚を撮ったのだ、ということは少しわかる気がした。
そこだけ光が強いから。
ずいぶんと焦点の合う深さが限られていて、瞳に合ったピントはもう耳あたりではぼけている。
ふむふむ。
印象的だったもの、そこから私のなかに浮かんだものをいくつか。
●イブリー・ギリトス(バイオリニスト)と柳
ページをめくってその走るような柳の枝を見たとたん、風の音に次いでバイオリンの和音がそこに叩きつけられた。
なんだこれ、と探ってゆくとどうやらDmのファが弱い音。そこを基本とした旋律が小さなひっかききずみたいに流れていった。
私にはあまり作曲の訓練がされていないので思いついたフレーズがただ規則的に変調していってまた戻る、というものだったけれど。
柳のざあっという音とそのバイオリンの旋律は別々の部屋で流れているようだった。
直接雨のあたらない深い屋根に守られた窓のある居間で隣の部屋の演奏を聴いている感じ。
ブルグミュラーみたいな、指ならしの曲かも。
●ダニエル・ビュレンヌ
こんなにほころんだ笑顔をなかなか見ない。
隣の、虫にお裾分けをした花びらを見て、ともに同じ温度でほほえみたくなった。
●エディ・プー
快晴!
それが瞳に宿ってる。
薄いうすい空色が海から取り残されたちいさな水たまりに切り取られている。
ハワイの、これでもかというくらいの光溢れる太陽のもと。
でもページをめくるとそこには夜の世界。闇の中に黒く佇む水溜まりの中には今にも雲に隠れそうな月が姿を乱されつつ映っている。
ものごとにはうらとおもてがあって、すべての逆のことはそのもの自体かもしれないと気付いたのはいつのことだろう?
細かくとらえてもいつか全体のことに及んで、その大きさが手に負えなくなった頃にすとんと手のひらにそれが落ちてきて一番適切な重みを感じるのだという答えを得たのはいつのことだろう?
ぬるい、まるく波立つ水のように、もっと受け入れよう。
焦って弾き返すことばかり考えずに。
たぶんそれが私に必要なことのうちの、ひとつ。
- 坂田 栄一郎, Stanley N. Anderson, スタンリー・N. アンダソン
- PIERCING THE SKY―天を射る
東京タワー/穹と、わたし
久しぶりに近くで見ると、はりめぐらされた完璧さに圧倒された。
こんな大きいものを造るのは大変だっただろうな。どんなに作り上げていっても床ができることがなかったのだから。
鳶さんってすごい。
友達の鳶さんを思い出した。
私自身は全く建築に関わったことがないのにどういうわけか小さな頃から建築に携わっているひとが身近にいる。だから色々な話を聞くのだけれど、でも未だに不思議で仕方がない。どうして人間の手があんなに高いものをまっすぐ造れるのか。
建築は住まわせるとかおさめるとかいうことよりまえになにかがある気がする。
ピラミッドよりもっとまえから、ずっと。
遠くから車で東京タワーに近づいた。
わっと急に見えてきた東京タワーに興奮して、ぶれちゃった。
あったかい飲み物を飲みながら、車から空を見る。
たくさんのことを思い出す。
車に乗るといつもこう。タクシーでもそう。
流れてゆく景色に動かされて、揺すられた砂の底から浮かび上がってきたみたいに、景色が時々ふっと訪れて心をかきまわす。
車の助手席に乗っているといつもどこかに力が入ってしまう。
首を起こしているのはただ景色を見たいからじゃない。どこに進んでゆくのかを見たいのだ。把握しておきたいのかな。自分でもちょっと分からない。
自分が運転していることを想像している、というのもちょっとある。自分が行くだろうと思っている方向から裏切られてちょっと疲れたり、思ったとおりの車線に乗って気持ちが良かったり。
だけど昨日はそのことを放っぽってだらんと弛緩して、ただ空や流れてゆく街灯や高速道路の裏側を見ていた。
走ること、走る方向に私の意思は働かなくていい。もともと私の意思ではどうにもならないことなのだから。動かされるままシートに身を沈めていよう。
そうしてただ冷たくひえた空を、ビルの間をすごいスピードで走り抜けてゆく星を眺めた。
そして自転車のことを思い出した。
小さいとき住んでいた団地から隣の町にあるスーパーまでよく自転車で行った。
たいていは自分の自転車だけど時々はお母さんの後ろに乗って。
普段自分でそのコースをこいでいるせいかもしれない。それともカーブを曲がるときに体重のかけ方を判断するのは後ろのひとの役目だと思っていたためか。
(小さいとき私は何故だかお母さんが少し恐くて、とても気をつかっていた)
どうしてもお母さんの背中から首を伸ばして行く手を確認しようとしてしまう。
なんだかはらはらするような、肩がぎゅっとつまったかんじで疲れて、はっとそのことに気づく。
やめようやめよう、とぐにゃんと意識を緩めすべてを任せてみる。手の意識はぐにゃん、にしないまま。
(今思うとあの感じ、体と意識との分離の感じはときどき、今踊ることに繋がっているかも。)
そうしてぼけっと空を見る。
目のはしっこにうつる町の景色はびゅんびゅん走ってゆくのに、お母さんの背中はぐんぐん動いているのに、空だけはぼおっとそこにいる。
まるでふたりだけのひみつみたいに。
身を任せている私と空の力の抜け加減はちょうど等しくて、いつもより近くかんじた。
だけど長いことひみつは続かない。ぐいっと自転車が揺れるたびにまたすぐ意識を取り戻してしまう。
しごとしごと。カーブだから体重をかけなきゃ。あとは、なるべくお母さんの邪魔にならないように。
その繰り返し。
まただ。
もう8歳には戻れないのだということに、思い当たってどこかがきゅっとする。
もどりたいわけじゃないのに、なんでだろ。
きっとそれだけは不可能だから、かな。
これを書いていて、意識を違うところへやることを覚えたときのことを思い出した。
そのことは、また今度。
花園神社
花園神社は芸能の神さまが祭ってあるところ。芸能人も参拝にくるみたい(裏からだけど)。
去年一緒に2年参りをした友達が家族を持ったので今年はおうちで大晦日かなあと思っていたんだけど。
熱い甘酒を飲みながら冷たく澄んだ空を見上げていた。
去年はドイツに行くことがもう決まっていたのでどきどきしながたおみくじを引いた。
その結果、仕事はみつからず、勉強は実らず、北へは行くな、という散々な内容でもうそれが可笑しくておかしくて友達と大笑いした。ああ、懐かしい。
今年のおみくじはとてもいい内容。
そのなかの一文がとても気になった。
「何かに触れたときに自分にそれを育てる土壌がなければ種が根付くことはない。」
もしかしたら本当の意味は違うかもしれなくて間違っていたら恥ずかしいので書きません。
でもこんなことかなあって感じて、急にピントが合った。
ここから感じることは相反する2つと、あとおまけ1つ。
自分に用意がなければせっかくのものを見逃してしまう、というのがかぶとむしの殻の部分だとしたら、無意識のうちに落としてもらった種のことを腐らせないでおくことで機が熟しさえすればつやつやの芽が出る、というのがかぶとむしのむにゃむにゃした中身の部分。そして自分のその土壌のことを考えているということが、かぶとむしの足。
かぶとむしって何?っていうのは、あんまり自分でもよくわからないけど。
(おみくじにかぶとむしが出てきたわけじゃないし)
やっぱり、あの建物を見つめるとなぜか涙が出てしまう。



